4.あたしの気持ちは言葉にならない

「正直、辞めてくれて助かったよね」


 テニスコートへ向かおうと体育館のそばを横切った一愛ひよりの耳に、そんな言葉がひっかかった。

 ふたりの女子生徒が体育館外の休憩スペースで話していた。顔に見覚えがある。名前は憶えていないけれど、バスケ部の先輩Aと先輩B。思わず足を止めると、声は続けて流れ込んでくる。


「あの子だけ空気読めてないっていうかさ、いくらうまくてもチームプレーできない時点でダメだよね」

「ほんとね。そもそも勝ちにこだわりすぎて窮屈だしさ」

「楽しむことが一番大事なのにね」

「結局さ、罰が当たったようなもんだよね」


 おそらく本人たちにとってはなにげない雑談だ。その日いちばん手近な話のタネが退部したみなみのことで、それは自然に悪口へと転がっていく。


 嫌いな教師に注意されて腹が立っただとか、親が何かにつけて小言を言ってウザいだとか、そういう話題と同じ、日常の会話。そういう他人への不平が話題に上ってつい盛り上がってしまうことは一愛にもよくあった。

 だとしても、彼女たちが南を悪く言うことを聞き逃すことはできなかった。


 南は自分を責めていた。なのに、お前らまであの子を責めるのか。

 そんな憤りが湧きあがって、視界を赤く染めた。


「万年負け続きで部活やっててさ、あんたらなにが楽しいの?」


 気づけば言い放っていた。

 侮蔑を込めた声を浴びせられ、バスケ部員たちはただ黙っているだけではなかった。


「なに、あんた」

「こっちにだって方針ってものがあるの。部外者が口出さないでくれる?」


 放課後の解放感に似つかわしくない、剣呑けんのんな感情のこもった視線が交わる。

 いい加減な練習をしているわりに、負け続きなことは多少なりとも気にしているらしい。怒りで先輩Aの眉根が震えている。そこをもう少しだけ刺激してやろうと思った。


「なあなあでやって負けても楽しいねーって、それが方針? 笑える。そんな環境で南がどんな気持ちでバスケやってたか、あんたらわかってるの?」

「うるっさいなあんた、1年のくせに」


 舌打ちが聞こえた。先輩Bだ。もっと、もっと押してやる。頭に血がのぼっていた。この感情でこいつらを叩きのめしてやらないといけない。


「学年は関係ないでしょ。ちょっと早く生まれたくらいで偉そうにすんなよ」

「先輩後輩ってのはそういうもんでしょ? そういう力関係を踏まえて過ごすのが学校生活ってもんなの」

「あいつも好きにやりたいなら進級を待つべきだったよね。上級生になってからならみんな耳を貸したかもしれないしさ」

「は……?」


 ふたりの話している意味が分からなかった。スポーツクラブは実力があれば年齢にかかわらず一目置かれる世界だった。いや、テニス部でだって一愛は実力で立場を築いている。実力があって正しいことが言えるのに、どうして1年や2年早く生まれただけの間違った連中に忍従しなければいけないんだ。


「あんた友達でしょ? だったら間違った方に進まないように諭してあげるのが筋だったんじゃないの」


 一愛が言葉を失ったのを反論できなかったと見たのか、先輩Aは畳みかけるように言った。

 その言葉は意図とは違うニュアンスで一愛に刺さった。南に部活なんて辞めるように、クラブに戻るようにもっと強く言っていれば……その後悔は、一愛の中に確かにある。こんな連中の下にいるのは間違っていると思うから。


「ていうか、そもそもあいつクラブに通ってたんでしょ? 部活じゃなくてそっち行けば――あっ、そっか」


 先輩Bの表情が、不意に嘲笑に歪んだ。


「向こうじゃ目立てないから、部活でイキろうとしてたんだったりして」


 ぱん、と乾いた音がした。

 頭がかっとなって、気づけば手のひらを振り切っていた。これ以上南の気持ちを無下にされることも、一愛の好きな南の姿を愚弄されることも許せなかった。

 頬を赤く腫らした先輩Bは呆けた表情をし、先輩Aは身を強張らせていた。


「もういい。ずっと同じ場所でじっとしてなよ。お前らなんかもうずっと負けてろ、一生負けて笑ってろ!」


 そこから先の記憶は判然としない。先輩Bからの反撃があり、罵声を浴びせあい、もみ合いの喧嘩になった。

 そして、一愛には1週間の特別指導が言い渡された。


 中学校は義務教育のため、謹慎や停学といった処分を下すことができない。その代わりに別室で指導を与え、部活動をはじめ多くの活動に制限を加える事実上の謹慎処分が特別指導だ。

 指導期間中の一愛はクラスメイトやテニス部員たちとほとんど顔を合わせず、特別教室でひとりで過ごした。母親と一緒にバスケ部員の家に謝りに行きもした。向こうも同じ処分を受けていたが、先に手を出したこちらが悪いということらしい。


 部活動に打ち込む日々を過ごしていた一愛にとって、日の沈まないうちに帰る家は退屈で居たたまれない空間だった。

 帰りたくない。だから、その日はほとんど使ったこともない公園で足が止まった。


 唯一の遊具である砂場のすぐ外に、指先で描いたらしいいびつな絵があった。

 無邪気な筆致はまだ小学校にも上がっていない子供のものだろう。こんな公園にも遊ぶ子供はいるらしい。


 見ているとなんとなく腹が立って、踏みにじって消してやった。砂埃が舞ってローファーが汚れる。構うもんか、そろそろスニーカーで登校したいと思っていたんだから。


 子供が今にも泣き出しそうな顔で一愛を、いや、跡形もなくなりつつある絵を見つめていた。

 ……そんな想像をしてみたら、余計に腹が立ってきた。


「くっだらない」


 自分のしたことの幼稚さは理解している。

 ただ、このもやもやした気持ちを晴らす手段を、なにかを攻撃することにしか見つけられなかった。


 そもそもあたし、なにに怒ってんだろ。


 ため息をついてベンチに腰掛けた。

 空を見上げると夕焼けで燃えるように赤く、頬を撫でた風は冷たく心地よかった。

 そのどちらにも似つかわしくないこの気持ちはどこに置けばいいのだろう。世界中のどこにも居場所がないような、そんな寂しさが胸を締め付ける。


「ひより」


 聞き慣れた声がした。想像じゃない、本物の声だ。今はいちばん聞きたくなかった。

 松葉杖を突いた南が立っていた。


「久しぶりじゃん」


 笑って見せたけれど、うまく笑えた自信はなかった。


 南と会うのは1週間ぶりだ。

 これだけ長く会わずに過ごしたのは、多分、過去最長だ。入院や手術の関係で会えなかったこともあるし、そうでないタイミングも一愛が登下校の時間をずらして会わずに済むように避けていたのだ。

 南に合わせる顔なんてないと思っていたから。


 まだ松葉杖に慣れていないのか、南はどこか不格好な歩き方でこちらへとやってくる。

 隣に座ると、身体にもたれかかるようにして一愛を抱きしめた。


「ごめんね」


 制服に顔を埋めているせいでくぐもったその声は、それでも確かに潤んでいることが分かった。

 鼻の奥の方から、つんと自己嫌悪が溢れてくる。


「私のために怒ってくれたんだよね」


 違う。謝らないで。


 あたしが南のためにしてあげられたことなんてなにもないんだよ。

 ただ勝手に怒って、勝手に暴れただけ。

 あいつらはなんの反省もしなかったし、あたしもただの嫌な奴だ。


 南を支えることも、励ますこともできない。そんな自分が不甲斐なくて仕方なかった。



          *



 昔のことを思い出していたら、帰るのが少し遅くなった。


 ダイニングテーブルには、ふたり分の食事が食卓カバーを被せた状態で置かれていた。一愛と父親の夕食だ。

 自分の生活ペースを乱されることを嫌う母親は、家族の帰宅時間が何時であれ午後7時には夕食を食べ始める。寄り道せずに帰っていれば食卓を囲むことになっただろうけれど、うまくタイミングを調整できたらしい。


 母親は入浴中だ。

 風呂から上がる前に食べてしまおうと思い、一愛は着替えもそこそこに食卓に着き、手を合わせた。


 今日の夕食はチンジャオロース。一愛の好物だけれど、冷めているせいか記憶の中にある味よりもいくらか物足りない。

 温め直せばもっと美味しく食べられるのだろうけれど、今はそれよりもさっさと食べ終えてしまいたい気持ちが勝った。


「ああ、帰ってたの。ただいまくらい言ってよ」


 半分くらいまで食べ進めたところで、母親は風呂から出てきた。ドライヤーを手にしているのを見て、洗面所でやればいいのにと内心でつぶやく。


「……ただいま」

「おかえり。ねえ、今度から南ちゃんは塾に通うんだって」


 ドライヤーのプラグをコンセントに差し込みながら、なにげなく言うのを聞いて、思わず箸を動かす手が止まった。


「は?」


 聞こえていたのについ聞き返してしまう。


「南ちゃんが塾に行くって話。あんたも行ったらどう?」


 そんな話、南からは一言も聞かされていない。

 多分、話の出どころは南の母親だろう。母親伝いにお互いの話していないことが漏れるというのは、昔からよくあることだった。


「あたし部活あるし」


 早起きして朝練に行き、遅くまで練習して帰ってくる。そんなスケジュールに塾を組み込んだところで、講義に集中できるとは思えない。質の悪い睡眠をとって帰ってくるのは目に見えている。


「強豪校ってわけでもないんだから、塾のある日だけ休ませてもらったりできるんじゃない?」

「部はそうでも、あたしは個人戦で結果残してるの。関東大会連続出場なんて快挙だって顧問も言ってるし、休んで実力を落としたりしたくない」

「だとして、それでプロになれたり、仕事に繋がったりする?」

「そういう話じゃないじゃん」


 プロになれるかと言われれば、今の一愛の実力では難しい。連日のニュースで話題になるようなトッププロたちは幼少の頃から海外の大会を制覇するような規格外の実力者だし、そうでなくともプロとして生きていくのは容易い話ではない。

 テニスに携わる仕事としてコーチになったり、メーカーに就職するという選択肢もあるけれど、そもそも一愛は将来のことなんて考えたことがなかった。


「そういう話なの。頑張るのはお母さんもいいことだと思うよ。でも、学生の本分は勉強でしょ? わかってると思うけど、ただでさえあんたは成績落としてるの。なにを目指すにしても勉強はついて回るんだから、将来のためにもここで一念発起しないと――」


 母親は一愛の成績がテニスの犠牲になっていることを気にしていた。とくにここ最近は酷い。時間のあるタイミングに顔を合わせたりすれば、事あるごとに成績のことで小言を言われる。


 夕食の時間をずらして顔を合わせないように小細工をするのは、小言を避けるためだ。

 本当は母親と入れ替わりで入浴するのがベストだったけれど、今日は帰宅のタイミングが遅かったせいで大失敗に終わってしまった。


「もうそれ聞き飽きた!」


 母親の言葉を遮ると、一愛は箸を置いて「お風呂入るから」と言い残して部屋を出た。


 将来とか進路とか、そんなことまだ考えなくてもいいじゃん。


 中高一貫校は内部進学だから、高校受験のことを考えなくてもいい。それを魅力的に感じて私立を受験したのだ。だから今くらいは好きにさせてほしかった。


「南ちゃんは塾に通うんだって」


 さっきの母親の言葉が脳裏をよぎる。


 南はどうして塾に通うことになったんだろう。

 塾通いを始めたら、今までみたいに一緒に帰れなくなるのかな。

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