3.それってそんなに大事なの?

 工事現場で重機が唸り声を上げていた。

 初冬の冷たい空気に溶けきらないその音が気になって、一愛ひよりはそちらへ視線を向けた。


 あの工事現場にあったのは、確か古いビルだったはずだ。なんでもない風景の一部としか認識していなかったから、なんのビルだったかは覚えていない。解体工事の予告が掲示されたバリケードを見たときに初めてその存在を意識した。


「なに見てるの?」


 みなみはこちらの顔を覗き込むようにしてたずねた。


「風景変わるなーって。あのビル、もう跡形もないよ」


 アルミゲートの隙間から覗き見ることのできる空間には、土埃にまみれた瓦礫がれきばかりが山になっている。こうなってしまうとシルエットを思い出すことすら困難だ。


「渋谷はどこでもそんな感じじゃない? 駅なんて毎日迷子になりそう」


 言われてみればそうかもしれない。この街ではいつもどこかで工事が行われている。常に何かが壊されて、何かが造られている。


「見慣れた風景が変わってくのって、なんかモヤっとするよね」

「私は変わっていくのを見るのも好きだよ。新しい発見があると楽しいでしょ」

「あ、それはある。南がロングヘア似合うこととか、新しい発見だ」


 一歩ごとに揺れる南のつややかな黒髪を見ながら、一愛はしみじみと言った。


 南はこの1年で髪を長く伸ばした。整った顔立ちにロングヘアは本当によく似合う。元々の落ち着いた印象がクールなイメージにまで昇華されたからか、男子が南について話しているのを小耳にはさむことも増えた。平たく言えば、わりとモテている。


 一足先に南が大人になってしまったような感じがして、少し寂しくもある。一愛にはボブカットを懐かしく思う気持ちも否定できない。


「なに、口説いてますか?」


 どういうニュアンスで受け止めたのか、南ははにかみながら手櫛で髪を撫でつけた。照れるようなしぐさをされると、恥ずかしいことを口走ってしまった気がしてこっちまで照れ臭くなる。


「ん、口説かれてくれる?」

「いやでーす」

「なんだよそれ」


 顔を見合わせて笑った。こうして他愛のない話に花を咲かせている時間がいちばん幸せだ。


「てかさ、切りに行く回数減って楽なんじゃない?」


 一愛は小学生の頃からずっとポニーテールだけれど、そのなによりの理由が『楽だから』だ。まとめておけば邪魔にならないし、それでも肩に引っかかったりして邪魔になるようになったら切り時だ。わかりやすくていい。それが気に入っていた。


「いやいや、お手入れ大変なんだよ」

「そうなの? あたしはあまり気にしたことなかったな」


 少し長くなってきた気のする自分の髪をつまんでみると、浮き上がったひと房の髪はするりと指先を逃れて束へと帰った。


 それを見て、南は羨ましげにため息をつく。


「才能だよそれは」

「あたし才能あったのか。頭につく才能なら髪の毛より脳みそにほしかったな。南はこないだ中間でも掲示板組でしょ?」

「私のは才能じゃなくて努力だよ」


 掲示板組とは、定期試験の成績上位者のことだ。校内の掲示板に名前を公表されることから、生徒の間でそう呼ばれていた。


 怪我を理由にバスケ部を辞めた南は、代わって勉強に精を出すようになった。入学当初は一愛と似たり寄ったりの成績だったけれど、ここ半年ほどは定期試験のたびに掲示板組として名を連ねている。

 今は一愛が部活をしている間に南は図書室や自習室で勉強して、下校時刻に合流して一緒に帰るというのが放課後のルーティンだ。


「ていうか、一愛のほうは大丈夫なの? 成績悪すぎて大会に出られませんとかやめてね。応援行きたいんだから」

「それねー。お母さんもめっちゃ言ってくる。まあでも、最終防衛ラインは死守するでありますよ」


 おどけて敬礼なんかをしてみせるものの、本当に死守できるかどうかは断言しかねた。部活を中心に生活する一愛の日常から勉学は少しずつ隅へと追いやられていき、テニスの成績に反比例して学業成績は下降の一途を辿っている。


「ま、新人戦もダメだったから大きい大会はしばらくないし、期末が死んでもなんとかなるよ」

「死んだらダメだっての」


 南はあきれ顔を見せてから、明るい表情に切り替えた。


「でも新人戦はダメじゃないでしょ。関東大会出場なんて立派な成績だよ」


 誉め言葉は胸にちくりと刺さる。顧問や先輩にも言われた言葉だ。


「いやあ、ダメダメ。調整しくってたっていうか、コンディションが万全ならもっとイケてた気がするんだよね」


 使い慣れたスマホアプリを起動するみたいに、用意されていた言葉は無意識に溢れた。


 新人戦の関東大会には去年も出場している。今年の目標は上位入賞、あわよくば全国選抜に進めればと思っていた。

 しかし、結果は去年と同じく2回戦敗退。顧問は歴代のテニス部員で最高の結果だというけれど、一愛にとっては1年間同じ場所で足踏みを続けていたような苦々しい結果だ。


「てか、最近膝はどうなの? 今日は体育出てたよね」


 大会や成績の話はこれ以上深掘りしたくない。思いついた話題に無理やり切り替えた。


「おかげさまで」


 南は得意そうな顔で右膝を上げて見せた。白い肌に残る手術痕は1年以上が経ったでもなお生々しい。


「よかったじゃん」


 視線を逸らしながら一愛は答えた。


「バスケクラブからも、また来ないかってお誘いが来たよ」

「マジ? じゃあまたバスケできるの?」


 すかさず振り返って、思わず南の手を取った。

 嬉しい。またバスケをする南が見れるんだ。

 気持ちが透けて見えたのか、南は少しばつの悪そうな表情をする。


「怪我が再発すると怖いし、週1くらいで練習に混ぜてもらえればって程度だけどね」

「じゃあ、本格的な復帰はまだ先なんだ」


 内心の落胆を表情で繕う。今度はバレてはいないだろうか。


「うん。ていうか、前みたいに全力でやるぞーってわけにはいかないかな。勉強もしないとだし」

「……そっか」


 南の手に絡んだ指がほどける。


 頷いたけれど、南の言葉は少しだけ引っかかった。

 勉強。学生の本分なのだから当然だ。義務と言い換えてもいい。

 ただ、南の発音の裏にはそれよりも明るいニュアンスが込められている気がした。



          *



「また明日ね」

「うん、また明日」


 地元の駅から歩いて10分ほどの住宅街の分かれ道で、ふたりは手を振って別れた。


 右へ向かえば一愛の家があり、左へ向かえば南の家がある。

 お互いの家へは5分とかからない。スポーツクラブで出会ったふたりが近所に住んでいるとわかると、その仲はいっそう親密になった。登下校が一緒なのはもちろん、休日にはお互いの家に泊まることも多かったし、家族ぐるみで外食やレジャーに出かける日もあった。

 スポーツクラブの活動している市民体育館への道のりだって、ふたりで行くようになった。

 受験が本格化して行き先が塾に変わっても、ふたりは同じ道を歩いた。


 今日も一愛と南は同じ道を歩いた。

 けれど、これからはいつまで同じ道を歩けるだろう。


 近頃の一愛はそんなことをよく考える。

 それは中高一貫校だというのに早くも進路調査票なんてものを突き付けられたからかもしれないし、勉強がおろそかになっていると大学受験の時期になって後悔すると釘を刺されたからかもしれない。


「……」


 一愛はスマートフォンで時間を確認すると、家のある右の道へは向かわず、歩いてきた道を引き返した。


 住宅街には小さな公園がある。

 最近の一愛はここで時間を潰すことが多かった。家に帰りつく時刻を“ちょうどよく”するためだ。


 殺風景な公園には砂場とベンチが申し訳程度に設置されているだけだ。大人の過保護さに満ちた公園を好き好んで使う子供はおらず、一愛も南も他の家の子供も外で遊ぶときは少し遠くの大きな公園まで出かけていた。

 この公園にまつわる数少ない記憶の中に、一愛にはただひとつだけ、思い出呼ぶのもはばかられるような苦々しいものがある。


「――ごめんね」


 ベンチに腰掛けた途端フラッシュバックするのは、泣きそうな南の声だ。胸の奥をきゅっと締め付けられるような錯覚に襲われる。


 それは、南がバスケ部を辞めて間もないころの記憶だ。

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