2.どんな言葉も空っぽだから

 都内でも珍しいオフホワイトのブレザーはかわいいと評判で、着ているだけでなんだか誇らしい気持ちになる。

 受験勉強のためにテニスクラブを辞めたことは心底辛かったけれど、その苦労の甲斐もあったというものだ。


 ただし、そう思っていたのは入学から2週間までの話だ。春の陽気に夏の気配が混じりはじめるにつれ、日に日に衣替えが待ち遠しくなっていった。


 一愛ひよりみなみが揃って進学した私立中学校は、地元から小一時間ほど電車を乗り継いだ都心の街中まちなかにある。谷とつくその地名にたがわず、駅は谷底にあり、どこへ行くにも大抵は坂を上ることになる。

 駅から学校までは徒歩でおよそ15分。その道程の半分が坂道ともなると、機嫌のいい太陽の下を歩くにはブレザー着用は暑すぎるのだった。


「はー、もう無理。明日から着るのやめだやめだ」


 暑さに耐えかねた一愛はとうとうブレザーを脱ぎ、通学用に買ってもらった真新しいリュックサックに詰め込んで、シャツの裾をまくった。


 リュックサックを背負い直して歩きはじめると、待ってくれていた南は話を再開した。


「結局ね、先輩がまあ、なんていうか……まあ、やる気ないみたいな感じって話なんだけど」


 言葉を選ぼうとして選びそこなったのか、もたついた言い回しのわりに表現は直截ちょくさいだ。ため息を漏らして、さらに言葉をぐ。


「悪い人じゃないんだよ。でもね、勝ちたい、強くなろうって気持ちが薄いっていうか……楽しければいいでしょってタイプなの」


 我慢強いなあ、と一愛は感心する。それは未だにブレザーを脱がずにいることと部の先輩に対する姿勢との両方への感想だった。


 前者は一愛よりも制服に憧れていた南だから、その気持ちは推し量れる。けれど後者に対しては、本当のところを言えばやきもきする。自分なら先輩だからってそんなに気を遣ったりはしないだろう。負け続きで弱いままでいて、そのなにが楽しいのか問い詰めてしまうに違いない。


 南の入部した女子バスケットボール部は弱小だった。

 形ばかりの練習メニューを雑談のお供にして、勉強の疲れを運動で晴らせればそれで満足。負けるのが常の練習試合が終われば連れだってカラオケやスイパラに行ったりして、そこでの話題に反省や分析はない。大会に出れば初戦の相手にウォームアップとシード権をプレゼントして帰っていく。

 楽しむことが第一を是としているものの、それに続く第二第三の部是ぶぜはなかった。


 入部以降、南は誰よりも真剣に練習に打ち込みながら弛緩しかんした空気を正そうと務めていたけれど、長年にわたって形成されたそれは1年生部員ひとりだけで変えられるものではない。上級生はそもそも耳を貸してくれないし、一緒に入部したほかの1年生も先輩たちの作る雰囲気に取り込まれてしまうか、さもなくば幽霊部員と化するばかりだった。


「そういえば、一愛はどう? レギュラーはとれたの?」


 南は急に話題を切り替えた。先行きの見えない部の愚痴を言うのも疲れたのだろう。

 明るい話題だ。一愛は笑顔とピースサインで返事をした。


「当然!」


 一愛の入った女子テニス部も同じく弱小だった。幸いだったのはバスケ部と違って勝利を目指す空気がないわけではないことだ。一愛が1年生ながらに実力を認められてレギュラーの座を獲得できたのも、ブロック予選突破という明確な目標があったからこそだろう。


「まあ、団体戦の結果はあんまり期待できないけどね」

「お、個人戦は自信ありですか」

「まあね。弱小だと思って舐めてかかった相手の鼻っ柱2本か3本くらいは折ってやりたいね」


 テニスクラブでも一愛の実力は指折りで、上級生相手にも簡単に後れを取るようなことはなかった。中学生になった今も、生半可な相手に負けるつもりはない。


「おー。なんか一愛が先輩に生意気と思われてないか心配になっちゃうな」

「へーきへーき。強い1年が入ったーって喜んでたし」


 笑いながら、南の放った言葉に苦味を感じた。

 生意気。もしかして、それは南自身が部で向けられた言葉なのだろうか。


 一愛は思い切って考えを口にすることにした。


「南はさ、やる気のない部活なんて辞めちゃって、クラブに戻ればいいんじゃない?」


 今の環境は南にとって害でしかない。一愛にはそう思えてならなかった。

 小学生の頃に通っていたスポーツクラブのほうが、間違いなく部活よりもレベルの高い練習をしている。低い場所でたむろして満足する連中なんて放っておいて、実力にふさわしい環境で高みを目指すほうがきっと南のためになる。


 しかし、南は首を横に振った。


「そうかもしれないけど、まだ辞めないよ。練習試合でもいいから、せめて1勝くらいはしたいんだよね。そしたら、先輩たちだって勝てばもっと楽しいんだって気づくかもしれないし」


 ただ、レギュラーは上級生優先なんだよね。

 そう付け加えた南の寂しそうな表情を、一愛は見つめることができなかった。


 どうしてこの子があんな場所でくすぶっていないといけないんだろう。



          *



 気抜けしたコーラみたい。

 休憩時間中にテニスコートを抜け出して体育館を覗いた一愛は、そんな感想を抱いた。


 ぬるさと甘さばかりが目立ち、本来あるはずの刺激は影も形も見当たらない。バスケの試合は小学生の頃にみなみの応援で何度も観たことがあったが、本当に同じスポーツなのかと目を疑った。弱小チーム同士ではこんなものなのだろうか。これでは満足感もたかが知れる。

 ただ、コートの中でひとりだけが異彩を放っていた。


 南だ。


 周囲と比べると明らかに動きが違う。ポジションを越えてコート内を縦横無尽に駆けるその活躍ぶりは八面六臂はちめんろっぴと言うにふさわしい。次々にシュートを決め、試合の趨勢すうせいはこちらに傾いている。自分が何をしたというわけではないけれど、なんだか誇らしい気持ちになった。


 南は自分が試合に出るのは当分先だと思っていたようだけれど、その予想とは裏腹に意外にも早くに機会はやってきた。家族旅行に行くという先輩に代わり、練習試合に出ることになったのだ。


「南のすごいとこ、見せつけてやりなよ」


 一愛ひよりはそう発破をかけた。


 南には活躍して試合に勝ってほしかった。

 バスケ部の先輩が気持ちを改めて練習に精を出すかはともかく、南が部に居続ける理由がなくなればクラブのほうに戻ってくれるかもしれないから。


 昔から、真剣な表情でバスケに打ち込む南の姿が好きだった。普段は大人びて穏やかな印象の南が、試合になるとコートの中で鋭く目を光らせて上級生相手にも怯まずボール争いに参加し、果敢にシュートを決める。クラスメイトの誰も知らない、特別な南。


 中学では、バスケ部で誰もがその姿を目の当たりにするものだと思っていた。けれど、向上心の欠片もないやつらは南を顧みようともしない。

 そんな連中には今日限りで十分だ。


 勝利を確信した一愛は、満足して体育館を後にした。




 ……それから、ほんの十数分後のことだ。


「ねえ、救急車来てるよ」


 テニス部員のひとりが、テニスコートを覆う金網フェンスの外を指さした。聞きつけた数人がラケットを振るう手を止め、一様に指の示す方角へ視線を向ける。


「急病?」

「怪我かもよ」


 そんな言葉につられて、一愛も周囲と同じ場所へ目をやった。そこには体育館がある。


 嫌な汗が首筋を伝う。病気。怪我。なんでもいい。不幸に見舞われるのは南以外の誰かであってほしい。酷く不埒ふらちな考えであることはわかっていても、そう願わずにはいられなかった。


「手ぇ止まってるよ! 集中、集中!」


 部長の叱咤が飛ぶと、野次馬と化していた部員たちは慌てて練習を再開する。

 部長の目には「今年こそは」というやる気の炎が宿っていた。そのやる気を裏打ちしているのは一愛の存在だ。


 一愛はしゃんとした気持ちになった。夏の大会は目前に迫っている。病気であれケガであれ、少しでもいい結果を残すためには他所の部活動を気にしている場合ではない。

 胸の内でざわめく嫌な感覚を、一愛はラケットを振って払った。




 その日、一愛は珍しくひとりで家路を辿ることになった。



          *



 窓の外には雲ひとつない青空が広がっていた。


 けれど、淡い色の壁で隔絶された病室にはじっとりした空気もなければ蝉の喧騒もない。季節から切り離されたような空間で、患者と名付けられた人たちがベッドに横たわっている。


「これでもかってくらい晴れてると、こうしているのがすっごいもったいなく感じるんだよね」


 その中のひとりになった南は、そう言って笑った。一見して柔らかい表情だけれど、拭いきれないぎこちなさが透けて見える。直視するのが辛いから、一愛も笑顔を作って答える。


「あたしも数学の授業中、なんでこんないい天気なのにノートの上で数字こねくり回してんだーって思ったよ」


 多分、一愛も似た表情をしている。見たくないものから目を逸らすために、目を細めて笑顔をでっち上げている。


 南の負った怪我はスポーツによる受傷の中でも重篤なものだった。バスケのような負担の大きいスポーツに復帰するには手術が必要になり、その後のリハビリも含めて回復には1年以上を要することもあるという。


「……多分ね、こうなったのは罰が当たったからなんだよ」


 笑顔を繕ったまま、南は包帯に包まれた右脚に視線を向けた。


「あんな試合、先輩は勝ったって楽しくなかった。私が出しゃばってるばかりの独りよがりなゲームだった」


 練習試合は結局、逆転負けに終わったと聞いていた。

 南が怪我で退場した途端にチームは勢いを失って総崩れになり、あとの展開はいつも通りだった。


「南は悪くないよ」


 一愛には慰めにもならないありきたりな言葉しか言えなかった。不正解とわかりきっている解答を、それでも空欄を埋めるために書き込むような無力感があった。


「でも、私っ……」


 必死に取り繕っていた南の笑顔が、波に浚われる砂山みたいに崩れた。中学生にしては大人びた顔立ちがくしゃくしゃになって、切れ長の目からは大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。

 続く言葉は、嗚咽に押し流されて言葉にならなかった。


 二度とバスケができない。南はそう思っている。


 事実、膝の怪我で選手生命を絶たざるを得なくなることは少なくない。回復したとしても、再発の危険性は常につきまとうことになる。いずれにせよ以前のままというわけにはいかない。その事実が南には絶望感となってのしかかっていた。


 ベッドの上で背中を丸めて泣きじゃくる南を、一愛はそっと抱きしめた。


 親友が心から悲しんでいるのを見ると、自分まで泣き出したくなる。

 けれど、一愛にそんな権利はない。


 あたしのせいだ。

 弱いままで満足している連中なんて見捨ててクラブに戻れともっと強く説得するべきだった。レベルの高いチームに所属していれば、あの練習試合みたいに南ひとりが無理をして怪我をするまで動き回らなくてもよかった。


 一愛は、南を言葉もなく抱きしめ続けた。

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