分かれ道までは手をつなごう
ツリチヨ
1.きみと夏のおわり
テニスクラブの練習が終わっても、夏の陽はまだ高かった。
市民体育館のロビーを出ると、夏のじっとりした空気がひよりの全身を覆う。弱い冷房ではごまかしきれない暑さはずっと肌にまとわりついていたけれど、屋外の熱気は比べ物にならない。プールで泳ぐか海で泳ぐか、それくらいのスケールの違いを感じた。
こんなに蒸し暑いのに、夏休みは今日で終わる。
クラスの友達と会うのは楽しみだけれど、夏休みの終わりはいつも名残惜しい。それは丸一日を自由に過ごせる日々が終わってしまうからというだけじゃない。なにかを忘れているような、置いてきてしまったものがあるような気持ちが胸にひっかかっているからだ。
「あっ、絵日記」
本当に忘れているものがあることをひよりは思い出した。
夏休みの思い出を絵日記にして提出すること。
そういう宿題が出ていた。長野のおばあちゃんの家、
けれど、描くことは今決めた。ずっと勝てなかった1つ年上の子に、今日の練習試合で勝てたのだ。そのことを描こう。
返球を取りこぼした相手は今にも泣き出しそうな顔をしてこちらを睨んでいて、負けたときの自分はこんな風だったんだと思った。多分、ひよりは呆けたような表情で口を開けて荒い息をしていたのだろう。いつもそんな表情を見ていたから。
思い出すと達成感で身体がうずく。
駆けだそうとして、視界の隅に人影が映っていることに気づいた。
蝉時雨の下、体育館前のベンチに女の子がぽつねんと座っている。
歳はひよりと同じくらいだろうか。ボブカットの黒髪には落ち着いた印象を抱いた。読めない英語のプリントされたシャツとデニムのスカートを着ていて、白いスニーカーのそばにはスポーツバッグが置かれている。
やや俯いた顔には、夏の熱気に不似合いな不安の色が差しているようだった。
「なにしてるの?」
話しかけながら隣に座った。
別に無視して帰ってもよかった。近くのスーパーで買い物をしている親を待たせると怒られるし、絵日記はその気になれば簡単に描けるけれど、こだわりはじめると時間がかかる。それでも話しかけた理由は、ただなんとなくとしか言いようがない。階段の隅で眠る野良猫を構うような、道端に落ちている手袋を目立つ場所に置いてやるような、そんな気持ちだった。
そうすれば、終わりゆく夏が少しだけ延びる気がした。
「おむかえ、待ってるの」
女の子はぽつりと答えた。お母さん、少し遅れるって。付け加えた言葉はひよりには向けられていない気がした。
「そっか。テニスの子じゃないよね。なにやってるの?」
市民体育館ではテニスの他に、サッカーやバレーボールのクラブも活動している。
テニスクラブに通う子は特に多いけれど、社交的なひよりは同じ日時に練習する全員の顔と名前を憶えていた。ただ、この子には見覚えがない。
「バスケ」
女の子の口からぽつりと漏れたのは、あまり馴染みのない競技の名前だった。クラブが活動していることは知っていたけれど、ルールはドリブルで運んだボールを網に入れたら点が入る、くらいの知識しかなかった。
「おもしろい?」
女の子はその問いで初めてこちらを向いた。
「うんと」
大きく頷いて、女の子はそう答えた。
そこから話は弾んだ。
バスケの面白さ、テニスの楽しさ。お互いに好きなものを語り合うのは楽しかった。
「わたし、まつもとみなみっていうの」
「あたしはすずきひよりだよ」
お互いの名前を伝えあうと、その輪郭と色彩が明瞭になった気がした。
みなみの切れ長の目は落ち着いた印象をいっそう強めるけれど、それとは裏腹によく見れば肌はうっすら焼けている。たぶん、外で遊ぶのが好きなのだ。気が合いそうだとひよりは思った。
「そういえば、みなみちゃんはどこの小学校? あたしは四小なんだけど」
なにげない問いを受けて、みなみの表情に影が差した気がした。それは話しているうちに剝がれ落ちていたはずの不安の色だった。
「わたし、こないだひっこしてきたの」
「どこからきたの?」
「つくば」
「つくば……」
東京で生まれ育ったひよりにとって、それはまるで馴染みのない地名だった。勉強はそれなりにできるつもりだけれど、小学3年生には都道府県の名前や位置すらまだ半分くらいしかわからない。
どんな字を書くんだろう。きっとすごく遠いに違いない。多分、新幹線に乗らないといけないくらいだ。
「じゃあ、あたしははじめての東京の友だちだね」
知らない地名が手に負えずにそう口走り、とっさに手を握った。汗ばんだみなみの手は熱い。多分、自分の手も熱い。混ざりあった熱から、何かを伝えたり、分け合うことができたらいいと思った。
みなみは俯きがちにはにかんだ。
「うん。よろしくね」
ふたりはそうして友達になった。
夏休み明け、ひよりのクラスには、絵日記に描いた友達がやってきた。
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