百一話目 ~しちにんびしゃく~

梅雨の終わり


 三日後、ついに梅雨の終わりが来た頃。

 谷本はようやく返せるようになった証拠物件を手に、雨屋敷の玄関を見上げていた。


 信子に笑顔で迎えられ、彩乃は奥に居ると、教えられる。


 嵩人は高村の娘と結婚するため、雨屋敷から一旦アパートへと帰っていったらしい。


 峻は身体に戻り、もう退院して、すぐさま働いているようだった。

 玲子も助かったようだが、死線を彷徨さまよったせいか、多くの記憶が抜け落ちているようだった。


 峻はさっさと親戚全員に了承を得て、彩乃を当主にえようしているらしい。


 彼女に屋敷を取らせ、いずれ結婚するつもりなのだと誰もが噂した。


「結局、峻先生が一番いいことしたわけだな。

 屋敷も早瀬彩乃も手に入れて」


 清水はそう言っていたが。


 いや、どうだろう。

 あの人、なかなか頑固だからなあ、と思いながら、谷本は渡り廊下を渡ろうとして気がついた。


 紅い手すりに手をつき、ぼんやり庭を見ている女。

 いつか見た女だった。


「こんにちは」

と話しかけると、女は笑ってこちらを向く。


「ああ。

 あの晩はありがとう。


 貴方に私が見えて助かったわ。

 私はあの納戸にはひとりでは近づけなくて」


 あそこには恐ろしいものがいるからね、と彼女、早瀬ちづるは言う。


「納戸ババじゃなくてですか?」

「納戸ババ?」


「ほうっ、とか叫んで飛び出してくるらしいです。

 彩乃さんが言ってました」

と言うと、彼女は、相変わらず、莫迦な子、と言って苦笑する。


「面白いですよね、彩乃さん。

 無表情だけど。


 ……今は日本にはいらっしゃらないそうですね」


「ええ。

 こっちに居ると、いろいろとボロが出るからね」


 そう、ちづるは言った。


「私ね、本当は、あのとき、聡さんに殺されて満足して死んでいたのよ。

 でも、あの莫迦が、必死に人工呼吸だのマッサージだのして、生き返らせちゃって。


 そのまま、もぐりの病院に運び込んじゃったのよ。

 そもそも、自分が殺そうとしたくせに。


 聡さんは、私を殺したあと、喘息の発作が起きて、その場を離れて。


 別に見つかってもいいと思ってたみたい。

 自分がすべての罪を被る気だったようよ。


 だけど、戻ってきたら、私の死体は無くなっていた。


 聡さんは、暁人かナツ様が始末したんだと思っていたようだけど。


 あの納戸の呪い……ナツ様が抑えてくれていたのね。

 あの霊はきっと、彩乃のことも恨んでいるから」


「荘吉さんは貴女がたの力もあるとおっしゃってたそうですよ。

 貴女と暁人さんの、娘を守ろうとする気持ちが屋敷を守り、納戸の霊を押さえ込んでいたのだと。


 だから、この雨屋敷を継ぎ、守っていくのに相応ふさわしいのは彩乃さんだとおっしゃってたみたいです」


 ちづるは少し笑ったようだった。


「それが一話目なんですかね?」

「え?」


「彩乃さんたちの百物語の最初の話には、その話こそが相応しかったのかもしれませんね」


 どうかしら、とちづるは苦笑して見せる。

 彩乃とよく似た笑みだった。


 少し何かを諦めたような、それでいて、芯の強さを感じる。


「ところで、聡さん、まだ成仏してないのね。

 でもまあ、あの人はあれで幸せなのかもね。何百年も、あそこで本読んでても」


 そうトイレの方を振り返り、ちづるは少し呆れたように言っていた。




 彩乃は、あの納戸の前に居た。

 まだカリカリと中から音がしている。


 そこに立ち、意識を集中する。


 沼から這い出そうとしている着物姿の女の幻が見えた。

 その形相に、此処にこうしていても背筋が寒くなる。


 何もかも奪われた彼女の怨念は、ナツよりも強く。

 この雨屋敷最大の怨霊となっていた。


 この嵩人の母、瑞子みずこには、自分もなにもしてやれない。


 そして、自分などがどうにかしてはいけないのではないかと思っていた。


 だから、心ゆくまで呪われてあげよう――。


 そう彩乃は思う。


 瑞子さん、私は貴女の居るしちにんびしゃくに願いは掛けない。

 このまま、ただ、嵩人との想い出を抱いて生きていく。


 そのとき、いきなり肩を掴まれ、彩乃はびくりと振り返った。

 峻が立っていた。


「なにしてるんだ?」

 なんでもないわ、と言ったとき、峻が渡り廊下の方を見て言った。


「谷本だ」

 谷本はこちらに向かい、やって来るところだった。


「彩乃さん」

とちょっと気まずげな顔で呼びかけてくる谷本に、


「今、お母さんと話してました?」

と訊いてみる。


 はあ、と言った谷本は

「目覚ましが鳴って消えられました」


 そういえば、あのときも電子音が聞こえて、ちづるは消えた。


 結構甲斐甲斐しく暁人の世話をしているのかもしれないなと思う。


 別人となり、控えめな衣服や、死人の着物を身につけてまで。


 長い年月がなのか、彼の情熱がなのか。

 一度は消えていた、ちづるの暁人への恋心を暁人は揺り動かしたようだった。


 そのとき、相変わらず、競馬新聞を小脇に挟んでうろうろしている融に出くわした。

 だが、彼も昔のように自由ではない。


 トラウマがなくなったので、前より行動範囲だけは広くなったようなのだが。


 最近では、緋沙実の霊に遭遇することが多いらしく、逃げ回っている。


 いつか二人で居るところに遭遇したときは、

「あんたなんか生まれ変わったら、便所の蝿よ!

 聡さんが本読んでる横をぶんぶん飛んでなさいよ!」


 などと緋沙実に罵られていた。


 だが、緋沙実は、融が成仏するタイミングを待って、自分もするつもりのようなので。

 次も一緒に生まれ変わりたいと願っているのかもしれない。


 来世もまた苦労するとわかっているのに……。

 懲りないな、緋沙実さん。


 本人も消したいだろうに、消えない執念と愛情。

 それこそが、しちにんびしゃくの願掛けの代償に与えられたものなのかもしれない。


 そう彩乃が思ったとき、玄関のすりガラスに誰かの影が映った。


 見知った人影だ。

 ボストンバッグを持っている。


「ただいま」

と開いた戸の向こうから顔を覗けた男は、呑気なことにそう言った。


 結婚準備に帰るという挨拶をするとき、壮吉と派手な喧嘩をして、もう二度と、この屋敷の敷居はまたがん! とか叫んでいなかっただろうか。


 しかも、そのままの勢いで本当に出て行ってしまって。


 自分とは、一瞬、目を合わせただけというロクでもない出立しゅったつだったのに。


「なにしに来た……。今、忙しいんじゃないのか?」

と言う峻に嵩人は、


「まだ聞いてないのか、お前ら。

 さすが雨屋敷の住人。時が止まってんな。


 連絡がとれないと思ったら、男作って逃げてたんだよ、高村の娘」

と言う。


 えっ、と彩乃は思わず声を上げてしまっていた。


「向こうの家が体裁が悪いから、娘とは縁を切る。

 死んだことにしてくれって」


 これは高村からの手切れ金だ、とボストンバッグの中の現金を見せて嵩人は言う。

 キャッシュなのは足がつかないようにだろうか。


「まあ……なんだかわからないけど、上がりなさいよ」

と言ったとき、嵩人の肩に嵩人のものではない茶色い髪がついているのに気がついた。


「なにこれ」

と払おうとしたが、貼り付いたようにうまく落ちない。


 茶色い長い髪。


「電車か何処かでついたんじゃないのか?」

と嵩人は、どうでも良さそうに言って、中に入ってくると、


「ところで、なにしに来たんですか? 谷本さん」

と訊いていた。


「なにしに来たって。

 ああ、そう。

 此処から押収した品を返しに」


 谷本自身、ようやく思い出したように言う。


「ああ、えっと。谷本さん、お茶でもお持ちしましょうか。

 ソファの部屋と仏間とどっちがいいですか」

と彩乃は訊いて、


「……どっちも嫌です」

と谷本に言われた。


 結局、みんなで信子たちの居るダイニングに向かいながら、そういえば、聡さんに借りた本を戻しに行くところだったな、と彩乃は思い出す。


 それは、彼がずっと読んでいた、聡という名のトレジャーハンターが、世界を旅する物語。




 谷本と峻が帰ったあと、嵩人は、

「ジイさんに挨拶して、荷物置いてくるよ」

と言って、彩乃の前から去った。


 嵩人が百物語をしたあの和室の前を通ったとき、カタリと中から物音がした。


 障子を開けると、まだ部屋の隅には、あのときの蝋燭が立っていた。


 ぼっと火がつく。

 嵩人はそれを冷ややかに見て言った。


「なにが聞きたい? この百物語のほんとうの最後の話か?」


 いや、ある意味、これが新たな始まりなのか。


 この百一話目の物語が……、と嵩人は思う。


 廊下をなにかが這ってくる音がする。

 嵩人は身を屈め、火を吹き消した。


 すると、その音も消える。


「……永遠に終わらないんだよ、この雨屋敷の百物語は」


 嵩人は亀の甲羅の描かれた缶に蝋燭をしまい、蓋をした。


 カタカタと後ろでその缶が震えている音がする気がしたが、嵩人はもう振り返らなかった。




 嵩人はまだ、おじいさまのところに居るのだろうかと思いながら、広い廊下を歩いていた彩乃はあの納戸の前で足を止めた。


 まだカリカリと音が聞こえている。


 後ろから、まるであのしちにんびしゃくに居るときのような、ひんやりとした風が吹いてきた気がして振り返った。


 嵩人が立っている。


 だが、その後ろに、うっすら、なにかが見えた。


 あの沼のように暗い色の床から這い出し、嵩人の足を掴もうとしている茶色い髪の女。


 高村家にとってあまり良い条件ではないこの結婚話が進んでいたのは、高村華絵が昔から嵩人が好きだったからだと聞いている。


 彩乃の視線がそちらを向いているのに気づきながらも、嵩人は笑う。


 軽く身を屈め、彩乃に口づけたあと、

「彩乃……」

とその耳許で囁いた。



「……決して言ってはいけないよ」




 雨屋敷の百物語は、終わらない――。




                       完




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雨屋敷の犯罪 ~終わらない百物語を~ 櫻井彰斗(菱沼あゆ) @akito1

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