第3話 遺伝子の乗り物に過ぎないおれという存在



 思い出したくもない顔が急にクローズアップした。

 いやいや、それはまったく正確な言い方ではない。


 本当のところは、四六時中、おれのなかに棲みついていやがるんだ。

 あのギトギトに脂ぎった、ごろんとデッカい南瓜みたいな顔が……。

 

 ――徳川部長。

 

 おれにとって天敵のあいつがいなかったら仕事が趣味に変わるのは必然なのだが、濃い八の字眉のぶっといタテジワが短気を端的に物語っている男と同じ空気を、それも毎日10時間前後にわたって吸いつづける、その責め苦といったらどうだろう。💦


 たとえ対象が自分でなくても、パワハラグレーゾーンの、というよりパワハラそのものの恫喝を間近にすると、胃の腑が縮み上がり、ランチものどを通らなくなる。


 世界中に新型ウィルスが猛威をふるい、正直、人類の存亡すら危ぶまれたころは、世間体を慮って(笑)リモートワークが推奨されたので、やれ助かったと思ったが、案の定というべきか、感染が収まると、なし崩し的に旧来の出勤体制にもどされた。


 気になるのは、コロナ以前より部長の短気度が増幅したように感じられることだ。

 ご多分に漏れず、退屈なステイホームの凌ぎとして、犬のように散歩が無用の猫を飼い始めたと聞くが、まさか、そのせい?……だとしたら、相当にまずい事態だ。


 日本で暮らすネコの10%が感染しているといわれるトキソプラズマ原虫は、日々の世話を通して飼い主にも感染する。運わるく脳内まで侵されると、トキソプラズマジャック状態になって「やる気」や興奮性を誘発するドーパミン神経系が活性化し、荒っぽくなったり我儘になったり、著しい人格の変容が見られる場合もあるそうだ。


 まったく、冗談じゃないぜ。

 とんだコロナの置き土産だ。

 これ以上「やる気」なんか起こされたりしたら、こっちはたまったもんじゃない。

 

      *


 担当者の説明は疑問を差し挟む余地がないので、おれの思考は別の方向に流れる。


 目立ちたがりの社長の意向で、男性の育児休暇においても先鞭をきることになり、成りゆきからイクメンの先駆けとなったおれは、それなりに懸命に育児を手伝った(おっといけない、こういう言い方は叱られる)もとい、ウィンウィンで担った。


 それも過ぎてしまった現在はいい思い出になっているが、当時、なぜか急激に増えつづけた体重がなかなか元にもどってくれず、いまだに腹がたぷんたぷんしている。


 先述の動物行動学の本によれば、父親が育児をすると、テストステロンという男性ホルモンの低下を招き、筋肉が脂肪に変わるそうだから、当然の結果だろうが……。


 ほぼ100%近い動物が子育ては母親の役目とされているなかで、希少な例として父親が育児を行うカリフォルニアマウスは、乳など出ようはずもない乳首に何匹もの仔マウスを吸いつかせて暮らしているそうだが、何とも身につまされる話ではある。


      *


 で、そこからジャンプして、死についての考察。

 つい先日読んだ、ある本の一節が忘れられない。


 ――自分という存在は、死にゆく個体から新生の個体へと長い時間をかけて不滅の寄生虫のように移動し続けてきた遺伝子たちが一時的につくった乗り物に過ぎない。

        

 なるほどね。

 おれの身体は、単なる乗り物という容れ物に過ぎなかったのか。

 そうと知れば味気ないような、いっそサバサバするような……。


      *

 

 とりとめもない思考の着地を見たところで、新機種への変更手続きが完了した。

 最後まで爽やかな印象を崩さなかった担当者に見送られてエレベーターに乗る。

 1階へのボタンを押し、すうっと下がって行きながら、えんやこらさと考えた。


 ――さあて、明日からまた、職場という名の草刈り場に出陣といきますか。🏇


 南極大陸のアデリーペンギンは高い崖っぷちで押し合いへし合いをして、運わるくこぼれた1頭の安全を首を伸ばして確認してから、ようやく海に飛びこむのだとか。

 そいつらに比べれば、仮にも義を弁えたヒトの生存競争は、まだましなのかもな。


 そう結論づけたおれは、何だかフットワークが軽くなったような気がするユニクロのストレッチジーンズを黄色いモーターバイクにまたがせると、清冽な地下水が滾々こんこんと湧く武蔵野の美しい雑木林に向けて、ぐいっと一歩を漕ぎ出した。【完】

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