fragrant memories

絵空こそら

金木犀

 掃除当番を終えて校舎を出ると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。空気がひんやりと冷たい。日中はまだ気温が高いけど、もう強烈な暑さというわけではなくて、季節がどんどん秋になっていくのを感じる。

 駐輪場を抜けて裏庭に出る。さっき浩一と廊下ですれ違ったとき、「放課後、裏庭に来い」と言われたのだ。聞き返す前に彼はさっさと自分の教室に戻ってしまったので、何の用事かはわからない。字面だけ見ると怖いけど、浩一は悪戯っ子みたいな顔で笑っていた。だからまさか、決闘の申し込みって訳ではないと思う。

 一口に裏庭と言っても結構広くて、美化委員が整備している花壇と、舗装された道やベンチがある本当に庭っぽい広場も裏庭だし、その奥に続く野放図な草叢も一応裏庭と呼ばれている。後者には来年弓道場ができるらしい。

 浩一を探しながら広場を通り過ぎる。それらしき人はいない。それじゃあ、草叢のほうかと思って広場を出た時、ふわりと甘い匂いがした。


 草叢の奥の方に小高い丘があって、まるいシルエットの木が一本立っている。その下に、浩一はいた。頭の後ろで手を組んで横になって、寝ているみたいだ。

「浩一、来たよー」

と、呼びかけても返事がない。

「ちょっとー、人を呼びつけといて寝ないでくれませんかー」

 ぼやきながらも起こす気にはなれず、そっと隣に腰を下ろす。寝ている浩一なんてレアだ。いい機会だから観察させてもらう。

 木の影に匿われていない身体半分に、西日が斜めに横断していて、その上にぱらぱらと小さな花が降ってくる。高い鼻梁。太い眉。閉じられた睫毛は意外と長い。半袖のシャツから覗く腕は固そうで、肩や胸もなんだかがっしりしている。

「かっこよくなったね、浩ちゃん」

「そりゃどうも」

 誰にともなく呟いたのに、返事があって驚いた。浩一の目がぱちりと開く。

「なんだ、起きてたの。なら返事くらいしてよ」

 浩一はにやりと笑って身を起こした。ぱらぱらと花が地面に落ちる。

「ふふっ」

 思わず笑った。短い髪の上にまだ花が載っていて、ファンシーだ。

「何笑ってんだよ」

「髪に花がついてるよ」

「まじ?」

 浩一はさっと髪を払った。星みたいな色をした花は、彼の肩で弾んで落ちる。そうしているうちにも上から花が降ってくるので、私はまた「ふふっ」となる。帰る時にまとめて払えばいいかと思い直して、話題を変える。

「それで、どうして呼んだの?」

 浩一は「ふっふっふ」と意味深な笑い方をして、ポケットから何かを取り出した。それは小さな瓶で、わたしはあっと息を呑んだ。

「それって、もしかして金木犀コロン?」

 ちょっと前にネットで話題になっていた、ご当地限定商品だ。

「土産じゃ」

 彼がそう言って、手渡してくれる。お礼を言って、手の中の瓶をじっと見つめる。茶色くて透明なガラスに、オレンジにクリームを混ぜたみたいな色のラベルが貼ってあって、”fragrant olive perfume”と書いてある。陽にかざすと、中の液体が揺れて光って、思わず声が零れた。

「旅行?」

「うん。この前の連休、家族で行ってきた。偶然、たまたま、欲しがってたやつ見つけたから、ついでにね」

 浩一は、照れくさいのか頬を掻いている。一か月前くらいに、久しぶりに話した時のことを覚えていてくれたのだ。嬉しくて、自然と頬が緩んだ。

「ありがとう、大事にするね」

 開けてみていい?と聞くと、

「馬鹿。ここじゃ匂いがわからんだろうが」

と、言われた。確かに、本物の金木犀の下では、匂いがわからないかもしれない。「そっか」と頷くと、浩一は呆れた顔で笑った。

「お前ってほんと、金木犀が好きな」

 私も笑う。うん、好きだよ。この花だけじゃなくて、匂いで思い出す記憶全部が、どうしようもなく眩しくて、好きだよ。


 小学二年生で転入したクラスでは、友達ができなかった。夏休み明け、緊張とともに足を踏み入れた教室にはすでにグループが形成されていて、私は、どこにも入れなかった。毎日がつまらなくて、辛くて、休み時間も机に突っ伏してばかりいた。

 家に帰ってからも、お母さんに「公園でお友達と遊んで来なさい」と送り出されると、外に行かないわけにいかなかった。友達がまだできないなんて言いたくなかったし、心配をかけたくなかった。

 公園に来てみたらクラスの子たちが遊んでいて、なんだか無性に恥ずかしくなってしまった。目立たない隅っこの木の陰に隠れて、じっとしていた。休み時間と同じように、ただ時間を過ぎるのを待っていたら、上から声が降ってきた。

「何してんの?」

 顔を上げると、小さな星が降ってきた。そんな風に見えた。その向こうに男の子がいた。細い木の枝に、猿のようにしがみついている。

「なんにも」

と私は答えた。男の子はなぜか不機嫌そうな顔になった。

「なんにもしてないんじゃつまんないだろー」

 私は唇を噛んだ。好き好んでつまらなくしているわけじゃないと思った。

 その時違う男の子が走ってきて、私の前に仁王立ちした。

「コーちゃん、見っけ!」

 木の上に居た男の子は「ちぇっ」と舌打ちしながら下りてきた。後から来た方の男の子が、怪訝そうに私を見る。

「誰?」

「知らん」

 手をはたきながら木登りの男の子が答える。

「かくれんぼ飽きたわ。次イロオニやろうぜー」

「あっ!ずりいぞ!自分が見つかったからって!」

「だってこの公園隠れるとこねーじゃん。色ならいっぱいあるじゃん」

 私も後から来た男の子も、「たしかに」と頷いた。隠れられそうな大きな遊具はちょっとしかなかったけど、カラフルなアスレチックならたくさんあった。

「コーちゃん見つかった?」

「次何する?」

 遠くのほうから男子が4、5人走ってきて、二人を囲んだ。私は木の根元に座ったまま、気まずい思いでそれを見ていた。前の学校では、私にもたくさん仲のいい友達がいたのにな。そう思ったら、泣きたくなった。

「おい、お前も遊ぶ?」

 突然木登りのほうの男の子がこっちを向いた。

「わたし?」

 私が自分を指さすと、「お前意外誰がいるんだよー」と笑われた。

 おずおずと立ち上がる。男子たちは警戒の滲んだ目で私を見た。そりゃそうだ。前の学校でだって、男子と女子はそれぞれのグループに分かれて遊んでいた。女子が男子のグループに入るなんて、変な目で見られるのは当然だ。視線に耐えられなくて俯くと同時に、木登りの男の子がぷっと噴き出した。

「髪にめっちゃ花ついてる!」

「え?」

 思わず髪に触ると、ぱらぱらと、あの星のような小さな花が落ちてきた。恥ずかしさで顔が真っ赤になる。今すぐ逃げ出したかった。

 すると、男子の中のひとりが、冷静に突っ込みをいれた。

「いや、コーちゃんも人のこと言えないからね?髪お花だらけだからね?」

「えっ!?まじ!?」

 うおおー!と雄たけびを上げて、木登りの男の子が高速で髪を払った。ぴょんぴょんと、可愛らしい花が辺りに散らばる。みんながどっと笑って、緊張の糸がゆるんだ。

 しょうがねーなーと言って、みんなが彼の頭をはたきだす。ついでに私もはたいてもらった。女子にも容赦がなくて、痛いくらいだった。けど、遠慮がないのが、なんだか嬉しかった。

 それから、自己紹介も早々にイロオニをした。ルールは知っていたけど、今まで屋内で遊ぶことのほうが多かったから、新鮮に感じた。鬼になったら大声で色を叫んで、追いかけたり、追いかけられたり、捕まえたり捕まえられたりして、ただそれだけのことがたまらなく楽しかった。夕方になるのがあっという間だった。夕日に照らされたふわふわした雲も、薄い青の空も、金木犀の木もきらきら輝いていた。


 彼らは隣のクラスの子たちで、それから休み時間や放課後、毎日一緒に遊んだ。相変わらず教室には馴染めなかったけど、この部屋の外に友達がいるんだと思ったら、心を強く持てた。教室だけが世界じゃなくて、その外にも世界は広がっている。そう考えたら、30人しかいない教室なんて、ちっぽけな世界だと思えた。

冬には雪合戦をして、春にはちょうちょや毛虫を捕まえて遊んだ。三年生になってから私もクラスで仲のいい子ができて、徐々に彼らと遊ぶ頻度は減っていった。それでも、廊下ですれ違った時に挨拶を交わすと、心が温かくなるような気持ちがした。

高学年になって、中学校が分かれて、高校が分かれると、同じ学校なのはついに浩一だけになってしまった。高校を卒業したら、私たちもお別れをするのかもしれない。そう考えると、少し寂しい。

「ねえ浩ちゃん、またみんなで遊びたいね」

 浩一は、「それな」と言って笑った。

「なんか、この匂い嗅ぐとさ、小学校の頃思い出すんだよな。公園で遊んでて、ああもう帰る時間だ、もっと遊びてえなっていう」

「わかるよ」

 これから彼らと、同窓会か何かで会うことはあるかもしれない。でも、あんな風に、男子も女子も関係なく、無邪気に遊ぶことはもうない。帰らない時間が眩しくて、でも温かくて。

世界の終わりみたいな気持ちがしていた。でも、そうじゃなかった。一つの世界がつまらなくても、もう一つの世界はきっと楽しい。だから大丈夫なのだと、この匂いを嗅ぐ度に思い出す。胸いっぱいに広がっていた楽しい気持ちが、空の色が、澄んだ空気が、時間を飛び越えて蘇ってくる。

今、目の前にいる浩一のことも、未来の私は思い出すのだろう。その未来に彼がいなくても、私はずっと浩一のことが好きだと思う。彼との思い出がきっと、この先もずっと私に力を貸してくれる。私は小瓶をぎゅっと握った。

「ねえ、今日はイロオニをして帰ろっか」

私が言うと、彼は「賛成」と言って笑った。

 二人で同時に立ち上がる。空はもう半分が濃紺に染まっていた。隣を見上げると、彼の髪から小さな流星が、ぱらぱらと降ってきた。

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