番外編 大切な教え
番外編 大切な教え
クリフが十になるかならないかといった頃のことだ。
まだイエルクが存命であった頃でもあり、アンダリュサイト
集まるのはイエルクと親交のあったものたちで、行儀のいい王国貴族はお呼びではない。いや、彼らも普段は
そもそもが、よりにもよってイエルクのご
ろくでもない客ばかりであることは間違いない。
クリフは宴も、宴に来る客も、どちらも好きにはなれなかった。
いちばん嫌だったのは酒に酔って上機嫌なイエルクが客前にクリフを呼びよせることだ。呼び寄せたからといって何をするでもなし、よけいな口出しでもしようものなら監禁部屋に押し込まれて三日は飲まず食わずということになるので、ただ突っ立っているだけなのだが、客の
さらに
オスヴィンは宴会の最中、会場にいても、ほかの誰とも会話をしてはいけないとイエルクから
これはイエルクがオスヴィンを
父親にとっては大変
じゃあクリフがイエルクから何かしらの期待をされてそばに置かれたのかというと、それも違うのではないか、と現在のクリフは思っている。
イエルクは恐らく、オスヴィンやきょうだいたちの
何よりもクリフ自身がほかの連中に追い落とされないように必死にならねばならない。
しかし、ひとたび宴会が開かれるということになれば、イエルクはそちらに集中するので、食事や飲み物に毒を
ただ朝から晩まで働かされるだけですむので楽といえば楽だ。
人気のないところまでやって来ると
「じじいども、いるか!」
「あいよ、ぼっちゃん」
姿を現わしたのはチビ・ヒゲ・ノッポの三人組である。
「
チビがそう言って手揉みして待ち構えている。
ヒゲとノッポは布をかぶせたワゴンをそれぞれひとつずつ押している。
片方は宴会会場から下げてきた残飯が満載になったワゴンだ。
クリフは残飯の皿を手に取るとノッポが差し出した新しい皿に中身を移し替えていく。
骨やら皮やら、どうあっても食べられそうにもない部分を取り除き、まだ身が残っている肉や肴を盛りつけ直していく。
「うん……こんなもんでいいだろう」
作業を終えると、布をかぶせなおす。
もう一つのワゴンを確認すると、そちらには、まだ誰も手をつけていない料理や酒が満載されていた。
「じいさんも見栄っ張りだな。雇われ楽団にこんなもの食わしてやっても肥えるだけなのに」
「バレたらぼっちゃんが
「あのイエルクに告げ口する奴がいるわけないだろ。運べ」
クリフがスプーンで皿を叩くと、ヒゲは盛り付け直した残飯が載せられたワゴンを押していく。行き先はこの日のために雇った楽団の控室だ。
本来、楽団のために届けられるはずだった出来立ての料理と残飯をすり替えることを思いついたのはクリフであった。
宴会の最中、クリフは基本的に飲まず食わずだ。一応テーブルは用意されているのだが、あちこちに呼ばれては世間話を聞かされ、小間使いにされるため、客がはけるまで自由な時間はない。
まともにやっていると飢えるが、食事をつまみ食いすることは許されていなかった。もしもそんなところをイエルクに見られでもしたら、どうなるかわからない。
そこで思いついたのが、宴席からではなく宴のために雇われた人間の食事を盗むことだった。
こうした席での楽団との契約では食事を提供することになっているが、どのような食事が供されるかは主催者の気分しだいだ。
冷たく量の少ない飯が出て来たとしても、それ自体はそう珍しいことではない。
けち臭いと思われるかもしれないが、イエルクに面と向かってそれを言う奴が王国にいるはずもない。
「で、ぼっちゃん、ワシらにも分け前が貰えるんでしょうな」
チビとノッポがニヤリとした。
クリフはため息を吐き「好きなだけ持っていけ」と言った。
食事のすり替えを思いついたとしても宴席から離れられないクリフは、どうしてもがめついじじい三人組に頼るほかない。
すっかり足下をみているじじいはあれもこれもと料理や酒をさらっていき、量は半分以下になってしまった。
「ひひひ、じゃ、ぼっちゃんも楽しんで」
「宴会最高!」
そう言ってジジイとは思えないほど
クリフは彼らにできるだけ苦しい死を与えるよう女神に祈りを
料理を
宴会の日、厨房の仕事は
料理人が休みなく働かねばならないのはもちろんのこと、
それに、どれほど豪華な食事を客に
「キルフェ! 料理をくすねてきたぞ!」
クリフがそう言って台所に入っていくと、まず給仕係が歓声を上げた。
それから、かまどのそばで仕事をしていたキルフェがゆっくりと振り返る。
白金の髪を三角巾の下にまとめた妹が、薄青の瞳を丸くしている。
「クリフお兄さま……」
キルフェは手を拭いて立ち上がり、ワゴンに小走りで駆け寄ると、かぶせた布を取った。
一目でクリフが何をしでかしたのかを見抜いたらしく、
けれどもそれは一瞬のことだった。
「みなさんで少しずつ
そう声をかけると、薄暗い厨房全体に歓声が上がった。
「ありがとうございます、ぼっちゃん」
「さすがはクリフ様だ」
使用人たちはクリフの頭を
普段、イエルクに
しかし、
クリフはワゴンから
それだけは、三人のじじいに取られないよう
クリフはキルフェの手を引き、食料を保管している小部屋に連れていく。
「キルフェにはとっておきだ。ほら、甘いもの。好きだろ?」
籠の中には、まだ焼き立ての熱を残したパイが入っていた。
キツネ色に焼き上げられた
しかし、キルフェは
「お兄様、でも、イエルクおじいさまに気がつかれたら……」
「しばらく飲まず食わずだろうな。でも大丈夫だ。
「それじゃ、お兄様もいっしょに食べてください」
「いいよ、俺は宴席でたらふく食べてきたから。キルフェに食べてもらいたいんだ」
その瞬間、クリフの
キルフェは目を丸くして、くすくす笑いはじめた。
「たらふく食べて来たのではなかったのですか?」
「これは……その……」
キルフェはひとしきり笑うと、手にしたナイフでかぼちゃのパイを半分に切り分けた。
「お兄様。わたくしは、おいしい食事を
クリフは複雑な気持ちで、差し出された半分のかぼちゃパイを受け取った。
でも、と言いたいのを必死でこらえる。
妹の前で言い出しかねた言葉の続きは、こうだった。
でも、キルフェ。
俺は明日、生きているかどうかもわからないんだよ……。
イエルクの気まぐれしだいで、剣の
そうなったら、キルフェを守ることはもうできないだろう。
そうなってしまう前に、クリフはキルフェにたくさん食べてもらいたかった。
自分で自分を守れる強さを身につけてほしかった。
でもそんなことは、とてもではないが口にはできない。
キルフェは半分になったパイを差し出して、なんの不安もなく幸福そうに
ふたりで隠れて食べたパイは甘かったが、どこか
*
クリフはカーネリアン邸の中庭で目を覚ました。
いつの間にかうたた
夢の中では久しぶりにキルフェに会った。
あのときのことは、本当にあった出来事だ。
独り占めするのではなく、分け合いたい……。
まだ
せめて素直に優しさを受け取れたらよかったとも思うが、あの頃のクリフは生き抜くことで必死で、自分の命よりも大切なものを持つのが怖かった。
もちろん、それは彼女も同じだっただろう。
でもキルフェは
迷宮街の夜気が体の
使用人に頼んで暖かい茶でも
それで、今日はグレナ・カーネリアンが街の
食事会の準備もあるため、使用人たちは
あきらめて部屋に戻ろうと腰を浮かしたところに、よそ行きを着たラトがやって来た。
「クリフ君!」
「ラト、どうしたんだ? 音楽会に顔を出すとか言ってなかったか」
「そう。この屋敷の
それを聞いたクリフは微妙な顔つきになる。
たぶん、カーネリアン夫人がそのように言ったのは、クリフへの思いやりとかではない。ラトを
「お前、また客の前で死体の話をしたんじゃないのか?」
「いや。今日は三つ首の
ラトはクリフが腰かけたベンチに座り、使用人に持たされたと思しきバスケットを開けてみせた。
籠の中には小振りなパイと紅茶が入っている。
パイの中身は、たぶん香りからしてアンズのジャムだろう。
先日、ジェイネルが
ラトはいそいそとパイを半分に切り分ける。
「でかい方を食っていいぞ、ラト」
「むっ。僕がそんないやしいことをするわけがないじゃないか」
「へえ、そうかい」
クリフはラトが差し出したパイに
さっくりとした触感の生地から暖かく熱されたジャムがこぼれ落ちそうになる。
「うまいな」
クリフがそうつぶやくと、ラトはにやりと笑ってみせた。
「クリフ君、知らないの? お菓子は独り占めするんじゃなく、半分こにすると
ラトはあたかも自分だけがこの世の
それから少しばかり思い直した様子で、
「パパ卿はなんでも知ってるんだよ」
と控え目につけ加えたのだった。
名探偵ラト・クリスタルの追放 実里晶 @minori_akira
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