永い屁

新出既出

永い屁

 屁が出そうだな。


 「音が触れているのだ。音に触れているのだ。引っ掻くように。爪で引っ掻く。黒板を引っ掻くチョークの微細な粉の飛び散っていた教室の空気を不本意に引っ掻いたときのあの引っ掻き音ではなく、〈引っ〉よりも〈掻く〉という行為に比重をおいた〈引っ掻く〉が触れている。

 音そのものではないのかもしれない。触れている爪状のモノと音とは同期し、動悸を引き起こす動機となっている。

 音が触れるとすれば身体に、それは耳たぶ、鼓膜なのか? 音圧は風のように、なぜならば音は空気の振動であり、そのモデルは波なのだから密度の濃淡のパターンを形成する、その断続的な継続パターンだった。それはそれが打ち当たる面に圧力を生じるはずなのだから。そして皮膚はそのような圧力を触感するためだけの器官なのだから。

 だから皮膚は音に触れられる。それは気配であってこの今在るある種の気配とは殺気と分類されただろうか?

 現在の私の体勢は、その音の矢面に立っているいわばバリケードのようにほぼその音の来る方向に対して直角に立ちふさがり、その背後に私の身体の大半を隠しおおせているという事実から、尻こそが、それを最前線で感知し、最前線で音に叩かれている尻なのであった。

 人相学的耳はこの尻の双丘の中央奥に位置する顔の両端に埴輪のような口を空虚に開いているばかりだったが、音であればどのようなものでもだらしなく咥えこんでしまうはずのその耳の穴の現在は、私の内腿がぴったりと覆っていたから。尻に到達した音圧は尻の頬を断続的に凹ませ、凸ませ、そのパターンは忠実に尻の双丘を広がって、それは同心円状に広がりたかっただろう。だが尻は同心円ではなく、むしろ中心点を二つ持った楕円の振動として立体的に広がっていくよりほかなかったそれは、Dブレーンのように美しい襞の断面の顕れなのだともいえた。だから音は襞として伝播し、やがて左右の内腿と、内耳器官のように丸まった背骨を振動させながら、つまり三方向に向かうのだが、それにしても改めて私は、なんと巨大な耳の器官だったことだろう。

 声は遠く、すぐ近くが響いている。

 これは私の声とは思われない。自分の声を録音したものを聞いたときの違和感は、骨伝導と頭蓋内の反響を除いた自分の声を聞く機会が、録音したものを聞くこと以外では経験できないからなのだから、私はこの声が自分の声だと信じることなど到底できない。しかも、私は自分の声が話している内容を今ここで話そうとしておらず、話すべきとも思わず、話しているとすら実感してはいなかった。

 にもかかわらず、この声が話している言葉が意味するところのものは、確実に私の今ある状態を、今ある現在において、今ある私の各器官の、とりわけ尻が感知し得た範囲での私の置かている状況と、私の皮膚の輪郭、すなわち尻の広がりの触覚からもたらされる〈圧迫〉〈伸張〉〈緊張〉〈弛緩〉〈捩れ〉〈痛み〉〈痒み〉〈痺れ〉などを統合した体勢モデルと誤差なく合致していた。

 ところがこの〈今ある現在〉とは、存在の仮想的断面の継続を前提とした非時制的なものであるだろう。したがって、この私の意志とは無関係に続いているこの発語が、間違いなく私からの発語であり、私の主感覚が取捨選択した結果の発語であるといえなくもない。

 問題なのは、いかにそれらの発語に結実する内実を私の身体が保持していたとしても、それを発語する意思なき発語を、私の自我の自発的発語と認め得るか否かという点ではないだろうか?

 人は必ず、〈書いたこと〉を話す。〈聞いたこと〉を話す。〈 〉内の行為は脳内で行われる。その脳内に記された曖昧な筆跡は誰のもので、その脳内に響いている曖昧な声は誰のものかといったことを常に問わなければならなかった。なぜならば、私が私の内部に至るまで私であるなどという証明は、いまだかつて誰も、誰にとってもなされていなかったからである。

 とはいえ、だが書字は私を閉じ込めるだろう。だから止めよ。私の声を磔のように固定することを中止せよ。書字は私を私に封じ込めようとする現実において、私を封じ込めることに成功している現在であるかのように身体が機能しているから?

 嘘だ。そんなことは不可能なはずだ。

 『舌は言語に触れている』という。それは錯覚だ。なぜならば、言語とは触れ得ないガス体だからだ。舌はガスを整流するフィンでしかない。言葉は屁と同じだ。それは糞の実存を臭わせるだけの代物でしかない。

 ミノタウルスを閉じ込めた迷路のように自らを閉じ込める迷路の二重の迷路性。そこでは複雑な反響音がこだまし、自らの声ではない声であるような自らの声を幾重にも〈輪唱?〉聞きながら閉じ込められている化け物に閉じ込められている私なぞ存在しないことを知らしめようとする……

 死ぬ。だろう。それは、しかし〈それ〉と指示しうる具象性を備えているのか、死が? 死は、それは、それ……

 私は間もなく死ぬはずだろう。しかし。死ぬ→死にそう→死なない→死ねない。このベクトルによる遁走は →生きる には致命的に辿り着かない。迂回、または短絡。あるいは目的地を見失うこと。そのように死んでいない状態を〈生〉と呼べ。いずれ統合された状態の死は生の一部であって逆ではない。輪廻において生は統合状態であり、つまりそれは統合失調状態である。それだからこそ、何故死を、そう、死を推測できるのだろう?

 死は具体的には〈生命〉体活動の中断の状態を総称し、なおその周辺の広汎な有象無象なのであろうし、私を離れた死をも死の現象として含まれてしまうのにも関わらず、この私の、私の身体の、顔面にのたりと垂れ下がっている自らの腸の温もりと、おびただしい出血の次第に冷えてゆく過程が辿るであろう近未来、というにはあまりに近すぎてそれはもう、今すぐ、というよりもむしろ近過去に完了してしまった既成事実として存在している〈現在〉ようにさえ思われる。いや、思われるなどという曖昧な類推で私の身体を包み込んでさらなる広がりをもつ死が、間もなく私の身体を立ち去っていくだろうなどと勝手に宣言してしまってよいものだろうか? 死が何なのかも、実際には知らない私の分際で? だがこのような死は、なんと尻に似ていたことだろうか!

 それはさておき今は、顔の上にのたりと垂れている生暖かく生臭い襞の塊のほうが、さしあたりよほど気にかかる。こののたりと顔に載っているもののせいで、私の目は今、ほとんど役に立っていなかった。

 だから私は、顔の半ばを覆っているこののたりとした襞の塊から滴ってくる生暖かな汁が眼球に沁みて痛いという感覚を拠り所にして、私は今、瞼を開けているのだと判断しているまでのことだ。ならば瞼を閉じさえすれば、このひりつくような眼球の痛みの継続を中断することができると?

 『瞼あれ』と神はいった。すると瞼が生じ、世界に闇が生じた。闇が生じる以前の状態が光と名づけられると、それは闇にさえぎられて影を生じ、それは〈存在〉と名づけられた。存在は影だったが光が照らすと形質を成した。

 しかし、空前絶後と思われる状況におかれた今の私の、世界の七割を知覚する眼を自らの瞼で塞いでしまうというのは、果たして良策といえるだろうか?

 普通、人は、自分の瞬きを意識しない。視神経を脳に繋げるための網膜の穴を意識しない。自らの呼吸音や血流音を意識しない。気になるのは腹が鳴る音くらいだが、それはつまり、腸だけは自分であって自分ではない一個の〈生命〉体を有しているためだった。人間は多くの他者から成り立っている。これは社会的な話ばかりではなく、個人としての〈生命〉体の話だ。わたしは当初、モールス信号のように皮膚へ響く振動だけを感じていた。振動は波紋のようにやってきて、まるで私の肉体など存在しないかのように、その輪波を乱すことなく寄せては返した。その揺らぎはかつて感じたことがあるとの思いはすぐさまモールス信号のような振動となって輪波に干渉し、輪波と輪波とが衝突するところに飛沫が立った。そのたくさんの幽かな飛沫から受精卵の臭いがした。精子の臭いと卵子の臭いが入り混じる内臓の、それはほぼ血と果実との匂いだ。私は一体いつ、どこで卵子の臭いを嗅いだことがあったろうか、と思った。思いはすぐさまモールス信号のような振動となって、輪波に干渉した。輪波と輪波とが衝突するところに飛沫が立った。そのたくさんの幽かな飛沫からは受精卵の臭いがした。精子の臭いと卵子の臭いが入り混じる内臓の、それはほぼ血と果実との匂い。私は一体いつ、どこで卵子の臭いを嗅いだことがあったろうか、と思った。思いはすぐさまモールス信号のような振動となって、輪波に干渉した。輪波と輪波とが衝突するところに飛沫が立った。そのたくさんの幽かな飛沫からは受精卵の臭いがした。精子の臭いと卵子の臭いが入り混じる内臓の、それはほぼ血と果実との匂い。私は一体いつ、どこで卵子の臭いを嗅いだことがあったろうか、と思ったのはいったいいつどこでのことだったろうかと思った。思いはすぐさまモールス信号のような振動となって、輪波に干渉した。輪波と輪波とが衝突するところに飛沫が立った。そのたくさんの雫からは細胞の分裂するときの臭いがした。突如として私を分かつ細胞壁の臭い。私は一体いつ、どこで細胞壁の匂いを嗅いだことがあったろうか、と思った。思いはすぐさま喃語となって反響した。反響は反響に干渉し中空にこだました。こだまが反響した中空にポンプが働いているような音を聞いた。私はこの音を聞いたのはいったいいつどこでのことだったろうかと思った。思いは上下から漏れ出した。上からは意味を伴い音声を伴わない言葉が、下からは臭いを伴った律動として。膀胱が張っていた。私は、海の中でおしっこをするのはたいへんだと思った。思いは辺りに撒き散らされ、海中を漂う無数の卵子と結合する精子となった。満月の夜の海に漂う珊瑚の卵のようだと思った。受精した卵が次々と肛門へ侵入してきた。いや、それは肛門ではなかった。ポカンと開いた、まだ小腸をくわえ込む以前の口腔だったし、埴輪の口のようにどのような音も銜え込んでしまうふしだらな耳の穴だった。そこかしこに私と、二人の、いや三人の、いや四人の、いや、やはりただ一人の、声が聞こえた。

 私のなかに別の何かが潜んでいる感じがした。明確だったはずの自己と非自己の区別は仕切りを失ってぐずぐずだった。それでいて、自分ではない何かと自分との区別をきちんと感じていた。私の動かない指と、私のものではない足の指とでは、私をなぞる軌跡が異なっていた。私ではない私は不躾で、私の気持ちなど何も考えてはくれないのだと思った。しかし、相手の気持ちを考えるなどということは実はできないのだと、経験上悟っていたこともまた事実であった。この、腸を頭蓋内いっぱいに頬張る口。

 もちろん、この顔面の現在を冷静に想像し、なぜならそれを見ることはできなかったから、さらに現状が瞼を開いた状態にあるとの仮定を考慮した上で、私は視覚がもたらすはずの世界の八割五分は失っていたと断定せざるをえない。今、私の目が直近にある瞼の覆いを拒否したところで、その上に乗っているこののたりとした生暖かく生臭く汁をたらたらと滴らせて眼球をひりつかせている襞の塊が、知覚可能世界の七割を覆い、さらにその先にある私の股間が残された三割の世界をV字型に狭めているその部分、それを一割五分と見積もったところで。

 見えなくとも見え、聞けなくとも聞こえるとき、むしろこのゆがんだ視差とくぐもった聴覚が、今、外へ開かれようとも、雑念としてしか感じられない。おそらく私のモナドは閉塞していない穴をもつが、それは流入経路ではなく流出経路としてのみ機能しているのだった。

 薄暗いものが揺らめいているのが空の方向に辛うじて見えていると認識するのはそれが揺らめいているからで、もしそれが揺らめいていなかったとしたら、今の私の目の状態ではおそらく瞼を閉じたときに見える光点なのだろうと判断していたかもしれないが、瞼を動かすことは可能だったから、自分が今、瞼を閉じているのか、開いているのかを判断するのは『瞼を閉じよ』と瞼を動かす筋肉に指令を出せば済む。だが、それはどのような手順で、どの部分を緊張させ、または弛緩させ、あるいは念じて、どこにどういったスパークを引き起こせばよいのかが、今の混乱した私には皆目検討がつかないのだった。だから、薄暗いものが揺らめいているのが空の方向に辛うじて見えているという視覚的世界認識方法は、すでにもう目一杯の情報を脳にもたらしていた。あとは他の感覚器官を総動員して、この視覚の欠如を補うしかなかった。

 とはいえ空は決して区切られないが、しかし視覚に映る空は容易に区切られ、そもそも瞼や眼孔によって縁取られなければ、我々は空を認知することができないのだ。裸の眼球であればそこに空の全てが映るかもしれないが。しかしそれが情報として脳へ送られると、たちどころに分節された小さな空らしきものへと卑小化してしまう。二つの目により一つの風景を構成するとき、風景は必ず楕円の性情を有する。楕円形の二つの中心がその距離を保ちつつ、近づきつつ、遠ざかりつつ、垂直に、斜めに、交差しあいながら、上へ、下へ、横へ、と移動してゆくのだが、当初の楕円形の内と外とは頑なに保たれている。

 空。飛翔体が頭上を、ほとんど水平に見えるほど緩やかな放物線の頂点付近を、なおも上っているのか、それともそれはすでに下り始めているのかの判別のつかないほど低く飛び越えていき、ヒュィーンにキィーンとフォーッというような音を重ね合わせたかのような風切音が、炎と煙の後に続いた。

 ジェット機だろうか? それともミサイルだろうか?

 乾いた咳のような甲高い吸気音と、呻き声のような低い排気音が空を切り裂いていった。それはこんな音だ。キーン、ヒュイヒュイヒョーゼイゼイブゥォーゲーゲーガラヒィーンヒィーン。ああ、手元にオノマトペ辞典があれば、どれほど助かったことか。たしかに私はオノマトペを馬鹿にしていた。だが現実に言葉ではない音に文字に当てるのはひじょうに難しいのではないだろうか? ホーホケキョとか、ミーンミンミンミンといえば、それが何の音かだけでなく、その季節や日差しや風と共に、おそらくそれを聞いた日の記憶までもたちどころに思い浮かべてしまうのだが、そのとき、このカナカナカナや、くぁくぁくぁくぁくぁといった文字で示されたとおりに発語してみたときの違和をこそ、私は問題にしたい。自分の思い出の中、耳にこびりついているオーシツクツクや、ゲンペイツツジシロツツジは、実は実際の音とは似ても似つかない言葉なのではなかったか? 雨はザーザーと降るというが、雨の音とは、雨が地上の何かに打ち当たった時の音であり、雨そのものに決まった音はないはずだ。ミサイルは着弾したのだろうか? それにどのようなオノマトペをあてるべきかを知らない私に、その着弾を言い表すことなどできるとも思えなかったが、それにしても一体〈着弾〉とはなんだ?

 この山は湿っている。この湿りからは私の血の臭いと、もう一つ、自分のものではない小便の臭いがする。

 記憶が途切れる前はサイクリングの途中だった。それにあれは、連日マスコミ報道が「北の飛翔体」と呼んでいたミサイルに、今なら違いなかったと思われる。それは私が先ほど汗まみれで通過した峠で掠めていったミサイルの、1基は夕照に赤く、続く1基は影になっていた。だが、それが何の影だったのかは見当もつかない。

 そのミサイルの風と光と、これは無論着弾ではなくおそらくは飛翔の際の噴射で、私は吹っ飛んで、ガードレールとガードレールとの狭い出口の隙間から、その隙間はピンボールや自動改札のフラップのように、私と自転車とをあたかも黄身と白身とを分別する装置ででもあったのかと思われるほど上手に、このわたしの身体のみが崖の中空へ発進=出産されると、とたんに全身の擦過傷が痛み、目はしばらく開かない。だが今、それはもう開いていると仮定していたのではあったが、おそらくこの記憶では閉じられていたのだと気づく私の瞼が、現在閉じている可能性を検討するに値するとの意見を留保した上で、息苦しい。背中を幾度も背中を幾度も叩きつけ叩き付けられ、叩かれる→触覚がまず輪郭を限定した=空の全てから閉じ込められること。音も匂いも光も全てはまず触覚として輪郭の外側に追いやられてあった。世界が目に触れる痛み、だが瞼は開いたのか? 秋。窪地。吹き溜まり。風が渦を巻く。喉の奥、身体の中心に肺があった。窮屈な肋骨のある身体を逃げ出す身体。逃げ出そうとする身体。部分の集積地凹。淀み。トポロジカルな、空間的な、特異点。爆発的な大気に溺れる私であった。

 もし、あのとき私がミサイルと峠の頂上を争っていたのだとしたら、ドロップハンドルの最も低い部分を掴んで低頭していた私の相対的に高く掲げたピチピチのレーサーパンツの尻はミサイルの水平尾翼こすられて、ジュッ、という嫌な臭いと熱とを伴って私自身が、峠からの下りを尻から煙を噴きながら、もしかしたら摩擦熱で着火した状態で、しかし化繊のペラペラのレーサーパンツはすぐに溶けてしまって、それでも存外、守るべき核心部に内蔵されているサポーターは案外火持ちがよかったため勢いよく燃え上がり、文字通り高熱源飛翔体となっていたに違いない。ともあれ、私のヘルメットには核爆弾はおろか、いかなる火薬をも装填されていなかった。ただニューロンは尋常でない発火速度を記録し、体外にスパークすればたちまち山火事を着火したであろう時速80キロ越えのクラウチングスタイルの下りを完璧にコントロールするための電光石火なのであった。

 けれど、結果的に、爆発的な直観力と運動神経との適切なモデル設定からしてそもそも不完全であったため、あの峠から幾つ目かの海、だがそれは本当の海だったのだろうか? の見えるカーブを曲がり損ね、例のガードレールとガードレールの切れ間から自転車をカタパルトとして紅葉の斜面へ、その急峻な崖下へとダイブしてしまったのであった。

 無理な姿勢のまま強制的に留め置かれる苦痛を耐えることがMなのではない。それはSの欲望を満たすMとは無関係なSのための慰みモノでしかない。SはMを必要とせず、むしろSをMに強制することによってのみSとしての充足は充足されるが、Mは放置されること、その命令の遅延を遅延の命令として受け入れる自らの従順に耐える時間にこそ、差延化された象徴的射精の瞬間の継続を享受できるのだった。無論のこと苦痛は快楽である。それは苦痛を緩和させようとするアロスタシスの働きであり、肉体の死は最期まで、その〈モデル〉との誤差を修正しようと努める、がMの本質であった。Sは自らの内部に自らの他者をもたない空想力の枯渇者だ。Mは自らのSとなりうるが、Sは自らにMを許容しないからである。

 しかし、それにしても、何ゆえに、私はしゃべるのか?

 息苦しさもなく、顔面に自らの腸をごっそりとのせた生臭さの重量と暖かさとを感じながら、人はこれほどしゃべり続けられるものか? それとも私のこの〈しゃべり〉は脳内発語であって、客観的には、割腹状況下の腸をぶちまけているでんぐり返しの途上、より映像喚起的な俗称で述べるのであれば〈ちんぐりがえし〉の体勢の、後頭部と両方のつま先とを下り斜面の濡れた落葉にめりこませて自然に安定した三脚台の姿勢で死にかけた男が口から吐き出す血沫のゴボゴボという音が山林に響いているだけなのだろうか?

 誰も知らない森の奥で一本の木が倒れたとき、その音を見聞きする者が誰もいなければ、その木は果たして倒れたのか否か、などというおためごかしには『もちろん』と答えてエスプレッソをぶっかけてやればいい。それがそのようになることにより生態系が変化を受けることは間違いないのだし、それによってバクテリア、微生物、黴、虫、鳥、獣などの生殺与奪に変動を生じることからその影響は森を超え、海を渡るモノたちは確実にその倒木前後では異なっている。また、倒れたときの音は空気を振動させ本来は静止していた何かや、運動していた何かのその運動に外力として何かしらの影響を及ぼした上に、風の通り道も変化したに決まっているのだから、バタフライエフェクトをもちだすまでもなく、変化は変化として変化であることは明らかな〈倒れた〉なのであって、それが在るかないかと問われれば在るに決まっているし、それは確実に全宇宙へ共時的な影響を及ぼすのだが、こうした事象を因果で捉えることしかできぬ感官のみを発達させた〈適-経時存在〉というか、ソレが存在そのものなのだが、それはつまり、時空の距離によって環世界を限定するやりかたで分断、分割、断絶させる境界なのである。依他起生の世界観における〈適-縁起存在〉に距離はゼロなのだから、そのような方便としての遠方の倒木に関しては無論光速に拘束されることなく即感受するに決まっているのである。とはいえ、縁起世界においては森や木をはじめとする森羅万象はもはや因果的現世のように生起していない表層であったため、やはりそのような倒木はなかったといわざるをえず、ただ変化だけがインフレーション爆発、つまりは無限分割のその肌触り=内外に在る触感なのであった。

 私の高く掲げられて剥き出しの尻に触れるか触れないかという繊細な、まるでそよ風が丘や襞や襞の内部にまでまんべんなく撫で回すように私の尻の双丘を撫でさすっている冷たく平たく柔らかく硬い何かがあった。

 尻を撫でる薄くて硬いがそれほど屈強ではなさそうな、それでいてどこか尻との親和性を覚えるこの何かが何なのかについての判断は保留するしかなさそうだが、まず間違いないこととして、この私の尻を撫で回しているこの何かは、この私のこの身体に属する器官ではなかった、ということだった。

 今、私の尻をなぞっている何かに触れられているこの感覚はおそらく経験のない触れられ方だった。それはまったく、触れられているのかどうかですら曖昧なほど繊細な触れられ方だったからだ。

 建物解体に用いられる鉄球の下ろせば地に触れるはずの一点に画鋲を一つ取り付け、それを私の尻に触れ、かつ傷つけない程度の高さに調整したものがコリオリ力によってゆるゆると動いて触れるか触れないかという触れ方をしているかのようだと私は今思いついたのだが、この着想はなかなか的を射ているのではないかと思う。私が触れられているが触れていないのは、触れられている実感を持つが触れている実感をもたないからだった。

 連結というほど安定的かつ恒常的な結合ではなかった。むしろ、つかず離れずという不安定で不完全な、微かに触れているようだが、という程度の接触にすぎなかった。その足裏の、そう、ところでそれがなぜ足裏とわかったのかについて説明できることは、先ほどから〈仮説〉の域を出なかったいわゆる私の瞼開閉問題の決着だということをあらかじめ断った上で、その足裏の持ち主は私の股間からしっかりと目を合わせられるほどうつむいており、つまり、頭ががっくりとうなだれていた。舌が長々と伸びていて、顎の先端に届きそうな分厚くて紫色をしていた。眼球が少し飛び出しつつあるように見えた。それはどこかを見ているという目ではなかった。私はそういう目と、目を背ける自由がなかったがゆえに、いつからかずっと目を合わせていたからであった。

 相互作用。生⇔死の回路として一つ→循環する何かが? 遅れ(時間/差異)錯乱を免れる、六文風鈴の愛撫。

 首吊った木は菩提樹 六文風鈴

 六文風鈴君。君は溺れるか? 六文風鈴君。君が首を伸ばして唇を尖らせて懸命に目指しているその少し上の水面のような明るい光の境界線は、深い森の裂け目の塩分濃度の異なる境界における光の屈折面のもたらした幻なのだぞ、君の窒息は。溺れているのは六文風鈴君、君の肉の重みが浮力を自己否定しているからなのだぞ。その名を時間という。しかし、言うに事欠いて〈六文風鈴〉とはいやはや。六文の風鈴なのか六文で風鈴を買った者の比喩なのか、いずれにしても、〈六文〉も〈風鈴〉もありふれた一般名詞に過ぎないのだし、それを乱暴に剥ぎ合わせたところで固有名詞となれるはずもなく、やはりこの一般名詞を固有名だと保証する、意味付ける、価値付ける、名もなきsomethingがあってこその固有名=名前なのではないのか? 名の無いものは、だから名づけられたくてうずうずしているのだ、あの〈猫〉でさえも。だが身体には、さまざまな時間が流れていて新陳代謝は細胞それぞれにあって年齢はばらばらだから、それらをただ一つの〈名前〉で統一するのはやはり不自然だ。

 ヒューヒューというこの音は記録されているだろうか? 小鼻がヒク、ヒクと動いている。分厚い紫の舌先から滴る涎が私の肛門をヒタヒタと叩いてそのたびに、私の肛門もヒク、ヒクと蠢いてしまうのだが、これはなんらかの名をもった反射反応なのだろう。肛門には涎の体温が感じられるほど繊細な感覚器が備わっているのだから。肛門に味覚がないのは幸いだった。私の鼻はもはや血溜まりで、鼻から息を吹くたびにゴボゴボと血が撒き散らされる状況だ。血の池地獄とはこのことだと思う。なにしろ息苦しい。だから口が開きっ放しなのだが、鼻腔から逆流してくる血と、そもそも顔の半分をのたりと覆っている腸のために、十分な気道を確保することは甚だ困難だった。とはいえ、私に触れている足裏の持ち主であるところの六文風鈴君よりはマシといえるだろう。少なくとも私の首に巻きついているのは、自らの身体器官を損なわせる目的をもった外部的な物質などではなく、それは私自身の小腸の一部だったのだから。残念ながらその味は分からないが強いて言うのなら血の味だろうか。マラソン大会のときに決まって喉の奥に漂っていたあの血の息の味だ。

 私の息をする尻を六文風鈴君のつま先がサワサワと撫で、私の尻たぶにコツンコツンと風鈴がぶつかっては微かなチリンを奏でている。わたしの左の尻から腰にかけて南部風鈴のような重量をもつ硬い硬さがぶつかるのだから、六文風鈴君の右足の小指にそれがぶら下がって、僅かに〈死〉を近づけて/遠ざけていたのか?

 今や重力軽減機関として機能する首吊縄へ脚立に乗って背伸びをして首を差し入れたそれの僅かな伸縮と、伸ばされた爪先によって充填された死に至る入念に計算された空隙が、そこにはかつてあったはずだ。高さの低さ。距離の時間の距離によって抹殺に必要だったその距離を、私がギリギリ充填してしまった。

 転がってきた私の身体の上を向いた尻が首を吊った男と地表との間にうまく入り込んで、首を吊ったかと思われた男のつま先が思い切り、新たな地表としての私の尻の頬に突き立って、縄と喉とに、すなわち気道に多少の空隙が生じた。

 つまりは丸い一つの地球から、丸い尻の双丘へ移行したのだ六文風鈴君と、そして私もまた、ということだ。だから私は二つの地球のようなものだった。

 ともあれ、私の身体にいささかの柔軟性も無かったことが六文風鈴君には幸いしたのだろうか? それとも首に巻かれた縄は、荒縄か、ザイルか、洗濯ロープか、荷造り紐かは知らないが、既に頚動脈を圧迫していて、朦朧とするまでの時間を悪戯に苦しみで長引かせているだけなのかもしれない。だが、私は私の後頭部と、その後頭部の先で一つの地球の斜面に突き刺さった私の二つのつま先の三点によって完全に安定してしまっていた。自然の成り行きとはいえ、私の転がりエネルギーが、六文風鈴君が足場にしていた脚立に衝突した時点で、そちらにすべて移行してしまった。ビリヤードの手玉のように、私はその場に静止し、無論、脚立は吹っ飛んでいった。

 しかしそれにしてもなぜしゃべり続けるのか?

 なぜ、なぜ。おそらく私はもう今は生きるためにしゃべらなくともよいからなのだと思う。生きるためにしゃべるときの脅迫感、義務感、切迫感。そして何よりそれを聞く青二才からの反応、反響、或いは無反響。居眠りを叩き起こすのではなく、内容と話術で目覚めさせるのでなければ、『タリタ、クム、少女よ、私はあなたに言う。起きなさい』というこの言葉は、私の文脈外からの十分に予期可能な予期せぬ一撃、つまり暴力に訴えているのと変わらないことになるというジレンマと、『お前はつまらない』『お前は話すべき内容をもっていない』または、『話す技術をもたない』その未熟さで生き永らえようという厚顔無恥さを、居眠りとは、黙殺ならぬ非聴殺、耳または目を閉ざすことによる殺害だった。だがそれは同時にまた目や耳を塞ぐ輩の外界をも打ち消す引き篭り的行為、退避行為、積極的な消極的抗議、非暴力不服従の態度で私という事象の顕れている世界そのものから一時退避すること。その一時を延長しかつ私という事象にフォーカスして断続的連続適用することによる私の世界の安全なる抹殺の企てに常に怯えていなければならなかった。私は実に大講堂の二百三十人に二百三十回×刹那秒も殺され続けてきたのだから。私は私の沈黙に誰もが気付かれないが故に、むしろ誰にでも冗舌な印象を残せたかといえば、やはりそんなことはなく、私は不在者としてすら認知されてはいなかった。ありがとうございます。

 >創作における作者と作品との関係

 私は〈読者〉としての〈作者〉も含めて、このところ〈時差=差延〉ということを考えます。刹那は刹那毎に奇跡に満ちているのだけれど、脳が作り出す時間の流れのなかでは、それらは瞬時の明滅でしかないため気付く事ができません。殺されていたときは意識していませんでしたが、人は無意識に思考しており、思考しようとしているときは〈思考しようとしている〉としか思考していませんから、よって人は思考するとき、意識は思考していないことが分かるのだと、そのようにも読めるのだなと思うと、周回遅れの読者の特権を駆使して、予め幾度となく読み直したところ、以下のことが明らかでした。

 はじめに嘘があった。嘘が環境を整える。嘘があったからそれを嘘だと言えるのだ。嘘がなければ真実の可能性は見出せなかった。だがこれは嘘から逆行して初めて顕れる嘘なのだった。その嘘は〈神〉か、〈無〉、〈空〉、〈音〉か?

 この、ひとつの嘘がなければ、嘘はなかったのだということを教えてくれた一つの嘘があった。

 作者は書くことでしか作品に対抗できない。作品は書かれることでしか作者に対抗できない。私はしゃべり続け、ということは脳内に書き続けながら、いつでもその事実に安心し、かつ怯えていたような気がする。

 作者は作品世界へ〈神〉のように君臨できる。だがそれとて作者自身の置かれている環境の制限内においてのことでしかない。つまり作者は作者の属する社会と、形成する身体と記憶とに制限される。その制限を食い破ろうとするのが〈空想〉だ。

 キリスト教的にいえば、作者と作品との間に、精霊のように空想があるが、この三位一体の関係は決して友好的なものではない。作者にとって作品とは常に自らの境界を示し続け、作品にとって作者とはつねに暴君であり、空想にとって作者とは不完全な筆記具にすぎず、作者にとって空想とは他者と認ずるよりほかなく、空想にとって作品とは糞でしかないのだから。

 糞しか生み出せない空想は糞であり、ゆえに作品は糞なのである。精霊は完璧なものであるが、それを具現化する機構が不完全すぎるために、世界は肥溜めのようになってしまうのだ。

 書く者と書かれる者とが等しく糞であるならば、その濃度が飽和した途端にその境界は失われ、脱糞並びに失禁によって描かれた地図は融合してしまうのではないか? 私が恐れていたのはこのことであった。

 死に際して、自分が何者か、自分の名前はなんだったのか、などと気にするのは、空想上の生物であるところの〈閻魔〉や〈神〉くらいのもので、もっとも重大な〈輪廻〉にとって、名前などという形而上学的符号、エイリアス、テンプフォルダ、アバターなぞ一切不要だった。コードの態を為していない量子の霧の如き言葉、名前は、だが確かに在って、

 ①それらがそれぞれに名前をもち、

 ②それらの名前を否定的に連結する文法規則が、

 ③思考規則とほぼ等価である場合、

 ④たかが文法規則を実装されているにすぎないインタプリタそれ自らが、

 ⑤〈思考器官〉のように振舞う。

 だから、新出既出とはSNS上に誕生した〈思考器官〉アカウントの一つに過ぎなかった。だがそれでもそれは〈私〉という豊かな経験を充分に積んだ私が様々な願いを込めて選んだ名前でもあった。一方、藤間和人という戸籍上の名前は、自らで選び取れなかった、それゆえに唯一の根源的に固定された指示子にされてしまった名だ、それは、個人ナンバー以上の背景を持たない〈新しいフォルダ〉=〈トウマカズト〉あだ名はトマト。これもまた二重に自らが選び取ることができず、決して自らが発することのないこの名前は上から呼ばれても下から呼ばれてもトマトだ。人には頭ならびに腹があってそれは天地無用なのだが、現在の私の置かれている状況下では、転地無用であることがいかに不自由であるかを実践できており、たとえば無重力であればこのことは文字通り上下関係を現前させる、とはつまり、権力の強い方の頭のある方向を上と定めることがビズィネスマナーとなるのであろうから、そのような相対的な上下関係の絶対性が文字通り〈上下関係〉として顕現するところで、私がトマトであれば、多少なりともこの状況に批評的介入を果たす手立てを見出せたのかもしれないと思ったまでのことだ。名は体を表す。笑止。体こそが名なのであり、名とは固有名として唯一であり、かつ無意味であった。つまり、死に際して来世は既に決している。その決定に抗う術こそが仏教なのであって、それはこの世には名前なぞないということを叩き込む、いや、学ばせる、その学びの手伝いをしているのが、この新出既出という境界面であり、散逸構造体であり、外界の座の尻であり渦の尻であり、トマトとしての異邦人の尻なのだ。かくして尻メハニカへ往還した脳は、機関→機構→機械→器官というように、ますます人工的になっていく。

 この尻の頬に感じるのは風だろう。

 ごく微かな風はあまりに細く長く吹くからだろう、紙縒りの先端を触れるか触れないかという微かさでそっと刷いたときの、その紙縒りの運動がきっと巻き起こしてしまう乱流と不器用に捻れた紙縒りの、しかし確かな固体としての素材の存在感が、直接に尻の頬を微かに引っ掻くことと区別がつかないほど微細な風を、私は私の高く掲げられているであろう私の尻の頬に、先ほどから感じていたのだった。それほど微かな気体の移動を、むしろ歴然とした形象を保持した固体との接触をもって形容しようとしたことに何かの暗喩がある、などと勘繰るのは止めよ。私は私の剥き出しの尻の話を、即物的な尻の話を、逃げも隠れもせぬ空に向かって高く掲げられている剥き出しの尻の現実という表層の話に終始しているのだから。私の声を聴こうとする者はみな、私の尻のことだけを愚鈍なまでに観想しようとするのでなければ、私のこの尻を共有することはおろか、概念を生成することすら叶わないだろう。

 ありふれた尻が世界に唯一無二どころではない唯一の双丘として宇宙のあらゆる座標をも占めていた。それこそがこの尻であり、私の尻の有り様であり、全体なのであって、今ここにある尻は、その断面というよりほかなかった。

 断面とは静止体の平面としてのみ内部構造を露呈させるが、そのような内部はこのように切断、それがまさに不可能なはずの超切断によって、あたかもそれが在り、かつ有るかのように、その超切断面の断面にのみ幻出するものだ。

 その尻が撫でられている。

 触れるか触れないかという冷たく薄く硬い何かの先端が、円を描くでもなく、十字を切るでもなく、右周りにでも左周りにでもなく、平仮名に似た軌道を、ある平仮名に収束させることのないままに、片時も休まず私の形骸化したレーサーパンツの上を移動し続ける。

 尻は右と左とに分かれていたはずだが、今の私にはその何かの突端で辱めを受けているのが右の頬なのか、左の頬なのかを断定することができない。もともと尻の頬には触覚点が著しく少ないと聞いたことがあるから、このような状況下でくすぐったさと痒みとの間の、どちらへも収斂しない微弱な刺激の定位が可能なはずだと前提すること自体がナンセンスなのだ。右だろうが左だろうが、どちらでもいい。それが私の今の率直な、嘘偽らざる本心である。

 だが誰だ! だが誰だ! 私の尻と尻との距離をディバイダのように計測し、中央に何かを打ち込もうとまさぐり続けるこの重力以外に重さをもたぬ冷たく硬い薄片は?

 触れただけでは所有してはいない。人は触れることしかできず、しかも直接触れることはできない。所有するとは、好きな時、好きな所で、好きなだけ触れる権利を他者に保証してもらっている現在でしかなく、しかもその他者とはわたしが触れたい他者とは別の権利機関であって、触れたい他者の代理として、代表として、権利所有機関として、私にそれを許すことのできる勝手な全権委任者としての。権利機関と触れたい他者間に面識はなく、両者は触れ合ってさえおらず、権利機関の保障する所有とは実際の触れたい他者を所有せざるがゆえに、〈触れてよい〉の保障とは、実際のところ私になんの保障もしていない。 

 権利機関は所有せず、被所有者は所有されておらず、従ってこのようにわたしに触れることは可能である。

 自分で自分に触れること。なぜ、自慰と手コキとで感じ方が異なるのか? なぜ、自分で自分をくすぐってもさほどくすぐったくないのか。おそらくそれは、触れるものと触れられるものとが、同じ脳を共有する自作自演だからだ。そういえば私は自作自演ばかりしてきた。だから自分の皮膚や粘膜に触れたらどのように触られている感じがし、どのよう触れた感じがするものかをだいたい把握していたはずだった。

 未だかつて自らが一度も触れたことのない部分、もしくは触れることが不可能な部分が自らの身体には必ずあり、この部分を他者に触れることを権利機関を通じて許可した限りにおいて、または許可した部分に触れるあるいは触れられるにあたって、当然、その部分を越境して触れてしまうかもしれないことが想定される範囲をも併せて許可したとみなした場合、その身接触部分の所有権は、身体の延長を保持するものに所属するのか、それとも初めて触れた者に帰属するのかについて考えたいのである。なぜならば、身体の延長に属するからといって、自らがこれまで触れることなく、今後も触れることが無いであろう部分に所有権を認めよというのは、実効支配不可能であるが故に無理なのではないかと考えるからである。それならばそこに自由に触れられる〈触れたい〉他者にこそ、その部分を有効活用する可能性が開かれているといえるだろうからだ。それは、例えば自らでは掻くことのできない背中の部分を掻くことができる可能なる他者に、その部分の管理権限を譲渡すべきとの、至極まともな理屈によるのである。

 触れられない身体の部分は、常に触れられたがっている。

 それら触れ〈る〉のか、触れ〈られる〉のかは、触れようとする意思の主体によって決まる。〈触れよう〉とする主体の意思の集中は、身体のどの部分であっても〈指先〉にするのである。

 このことは〈見る-見られる〉との絶対的な差異として触覚を定義付ける。我々は全身を指先にできるが、ただ一つ、あるいは二つ、眼球だけは指先にはできない。なぜなら眼球はすでに〈指先のように〉働いているからである。→目蓋・知覚参照。

 指先のようである眼球は指先にはなれない。その理由は、眼球には必ず空隙が必要だからであり、その意味で、指先の触覚が空隙を排除しなければならないこととは正反対である。したがって、眼球は指先の〈ような〉器官であることしかできない。副次的にこのことから、六文風鈴君のつま先を構成する足の指が眼球ではないことが証明されたのは、僥倖であった。

 指は空間を感じない。風は触覚。しかし空は触れない。留意点。禅定「調息」←所詮、アーラヤ識止まりだな。留意終わり。

 息は風としてのみ可能性を孕む。それは内部にある可能性としての外部である。移動。しかし、風が吹きとばすモノなどない。密度?

 暴流のふいご。種とモミとを分ける機関のように風/重力に抗う限界とは境界であり、それは常に目前=表層にある。我々はその点で逆遠近法に則って世界を境界として見ようとしている。では、細胞壁による境界と皮膚による境界との違いは? 皮膚を破って細胞を着床させたとき、肉は自他を区別するか? 免疫によらず感覚として? 胎児は子宮から産道を全身で感じている。出口だけを見ているとき、風は行き止まりを示さないので、風鈴は鳴り止むことはない。

 仮に、とはつまり観察できさえすればたちどころに判明するはずの事実として、私の尻に尖った爪先を立てているのは、縊死者であろうとする者の爪先で、それは裸足であること。その足指は明らかに親指がずんぐりとして短く、隣の人差し指の長さを際立たせている。つまり私はこの未縊死者の脚立、三段程でアルミ製の簡素な天板をはじめとする樹脂部分が紫色のタイプのもので、ストッパーとなる板をはめ込むダボを切り替えれば梯子にもなるという、どこにでも売っているその脚立を、もんどり打って転がってきた私が押しのけ、縊死実行者の意思が定まらぬうちに、その命の支えを、数分の苦痛までの猶予装置であるその脚立をふっ飛ばし〈生きたい!〉という衝動に喘いだ途端に、私の尻という予定外の脚立の代替物に拠って、縊死予定者の死へ至る隔たりを充填されてしまったのであった。

 脚立は斜面では不安定すぎた。そしてその代替物として縊死遂行者の空隙に収まった私の体勢は、後頭部とその先の斜面にしっかりと突き刺さった左右の爪先という理想的な三点支持を構成していた

 山の斜面を斜めに横切る光が、六文風鈴君の縦長に弛緩した影と、その足元の蝸牛の殻のようにずんぐりとした、脚立のような、地球そのもののような、丸っこいでんぐり返る途中の丸い私の影とが〈6〉のような、逆さ風鈴のような、リンゴと弓矢のような、宝くじの辺りの的のようになったシルエットを分断していた。

 私の到達以前。おそらく事の直前に於いて〈生きたい〉と思ってしまった六文風鈴君は、それでも絶対に〈もう一度生き直す〉という可能性をゆっくりと排除するべく、自分のタイミングで心行くまで未練を慈しみ、それで〈もう中断できない〉と諦め、〈これしかないのだ〉と再度腹を括り、縊死を諦めることを諦めようと心を鼓舞して、一瞬の飛翔を試みるその儀式のためのたった三段の脚立がどれほど重要だったか。最後の瞬間に蹴り倒しやすいよう、あえて不安定に立てていた脚立に震えながら上り、縄に首を入れてからの足元のふらつく感じが、がっちりと一点で固定された首によって規則的な円運動に変換されることが、不思議でたまらなかったのではないだろうか。

 だが、仮設を踏台とするなど虫のよい話ではないか。仮設を踏みつけた足は必ず仮設に引っ張られて貼りついてしまう。まるでゴキブリホイホイのように。

なぜ〈仮設〉から始めねばならないのか? 〈仮設〉は何を守ろうとしているのか? 恥じているのか? 腰が引けているのか? それで自分とは無限の隔たりを確保して、自分とは無関係だと主張しているのか? 私は私ではない。私はあなただ。

縊死希望者は自らの体重によって自らを殺す。つまり重力で死ぬのであって、その意味では、飛び降りと同じ範疇に属する。つまり、重力六分の一の月では、縊死でも飛び降りでも致命傷にはならなさそうだという意味で。

 身体の重さによってこれまで散々自らを痛めつけてきた地上におけるG以上のGを瞬間的に与えられた肉体の器官が破断して機能を停止すれば、本当の、空へ、青空の彼方へ、彼岸の軽さに旅立てると思い込もうとした。絶対に、そんなことがありうるのか? と問いかけてはならない。だが、そんなことがありうるのか?

 空が一つだと考えるときの〈自由さ=義務から解き放たれた〉と、地球が一つだと考えるときの〈脅迫感=義務と責任および焦慮〉とは、自分は唯一だと考えるときの〈一〉を空の〈一〉と同化させることのために重力という〈一〉を脱することだ。

 2+2=4の4と2×2=4の4とでは多様性が違っている。足し算では2と2は〈物〉としてある。そして〈物〉には必ず違いがある。掛け算とは、2個の物と〈全く同じ2個〉を2回足せ、という不可能を命じる。足す数は〈物〉だが、かける数は物ではない。

 このことから、掛け算とはメタ的であり、掛け算とは抽象的であり、掛け算とは〈個〉と〈個の多様性〉を度外視した方法だということがわかる。掛けられる数として置かれた〈物〉は、すでに〈物〉としての多様性を奪われており、そのため簡単に増殖できる。だがこれは〈物〉の〈空〉化を意味しない。このような抽象化とは概念的切り捨てでしかなく、それが可能なのは1+1+……=∞〈これは割り算である〉の世界のみだ。

 〈空〉は何一つ切り捨てずに〈一〉である、1+1=1であり、多様な1であり、掛け算の不可能な1である。

〈物〉に依って考えるしかないのだ。〈物〉を離れて〈存在〉はない。従って〈空〉も具象である。〈この世〉が抽象であるのと同じように。

 例えば〈時そば〉。

 銭と時という性質の異なるものが混同されるのは、一銭を一枚ずつ数え上げていくときに枚数と貨幣価値とが一体となり単位を失念するからだった。数字=枚数=貨幣価値の短絡が完成するタイミングで時を尋ねれば、時は数として認知され割り込みが成立する。かように単位は重要だ。華厳においては、乱暴にいえば、一は十であり十は一である。だが、一銭で十銭のものは売ってもらえないし、十銭出したのに一銭の価値しかないといわれれば喧嘩になる。にもかかわらず、法蔵さんは貨幣を例に出して説明した。その意図を熟慮しなければならない。

 存在を確率分布として捉えるとしても、その濃淡の違いの理由を点きとめなければならない。場にあるのか、粒子にあるのか、波にあるのか。だが実はそれは、どうでもいい。

 だから空を飛んでいるときの意識について語っておこう。私はそれを憶えていることに今、思い出したかのように気づいたから。あの愉快で恐怖のどん底の着地までは自由であった瞬間に、私の脳に薫った宙ぶらりんの情景について。

 脳内では全てが電気信号で、それらは経路でのみ区分されている。脳は可塑性をもつので眼耳鼻舌触は全て入れ替え混交が可能だが、そのような超共感覚的世界認識もまた〈我〉という境界を通した間接的かつ比喩的なものであることを逃れられないという点で凡庸だった。そんな私にとっての現実のリアルとは紛れもなく愚鈍な腸であった。

 とめどなく落ちてくる愚鈍な腸を愚鈍に啜る口は一杯に頬張っていた。生きる本能のため。痛みが気絶を許さない。だからつり銭を誤魔化すことも、誤魔化されることもない。だが、それはやはり、身体から少しだけ遠かった。一方、足裏は近く、それは敏感で、私の尻の微細な凹凸を愚鈍なまでに丹念になぞり、感覚し、歌い上げる、いつまでも生きている足裏だった。

 縄に括られた首のダラリと垂れた舌から滴る涎。左右の尻の丘の真ん中をそれぞれの中心とする楕円軌道を運動してきた新出既出の全レコードは、六文風鈴君の足裏に存在する中指の爪に、執拗になぞられた。それは斜面を吹き降ろす風、爆風にも似た熱い風力と縄のねじれもどりが相関していた。

 ねじれもどりといえば、〈ネジレモ・ドリーの鉤爪説〉が想起される。

 しかし。私は。速過ぎないだろうか? 急いでしゃべってはいけない。そこをどうにかして制限しなければ、舌は手よりも早いが考えよりも遅いことにかわりはないのだから。しかも私は吃音と発語障害をもっていた。だから、私の講義は常に生徒評定のワーストワンだった。

 それでも幸いなことに私は思考を吃ったことはなかったし、独り言もそうだ。

 私はいつだって可能な限りゆっくりと語りたかった。あの、ジョンケージが作曲した、as slow as possible〈可能な限り遅く〉。as slow as possible。〈限りなく永遠に流れ続ける音楽〉として。だがそれを音楽として聞き取るためには、誰一人速過ぎてはならなかった。as slow as possible。〈永遠が有限である証としての〉

 私の発言障害は、〈キ〉と〈チ〉、〈ニ〉と〈レ〉の区分が難しくなることが主症状で、関連する〈イ列〉、〈ラ行〉、も全般に歪んでしまうのであるが、思考上の発語にもそれは干渉し、その一音の齟齬や迂回から思考がずれていくこともあって、思考の独り言、つまり心の中の音読、これは黙読といえども必ず発声器官が声なき発声状態を形成するタイプの、単なる無音声音読者であることを意味しており、画像的認知能をもつ人種とは根本的に世界知覚が異なっていることを如実に表している。それはダダイズム的でありキュビズム的であり、シュルレアリスム的ではなく後期印象派とは一線を画す未来派のムーブメントに漸近する。ああ、未熟で愚鈍で幼稚な未来派の対極に私は生きねばならなかった。とはいえ、ここまで私はけっこううまく乗りこなしてきた。

 言語で〈抽象画〉を記述することはできない。言語学によらずとも、言語にはかならず〈意味という言語〉が貼りついていて、〈意味〉は絶対的に〈具象的〉だから。時として発語でならば、習得以前の他国語の〈響き〉を感じ取ることで抽象画的になりうることもあるが、それはもはや〈語〉ではなく〈音楽〉なのであって、〈音素〉に関する原体験の検証、集団的無意識、エコラリアス的なアプローチが主となるだろう。〈書字〉による〈抽象画〉的表現としての〈意味を結ばないよう文字を羅列〉することも、それは〈音=音楽〉として脳内発語されてしまいはしないか? では、〈文字〉として認識されていない〈記号の羅列〉では? いや。それはもはや、〈抽象画〉そのものではないか。因みに俳句はエクリチュールとして共時的に示される十七音の具象的抽象絵画であるらしい。その対比でいくと、短歌はパロールだから〈調べ〉が重要だった。日本語は調べが単語=感情を召喚する。俳句はそれを切る。肝要なのは開腹された切断面なのです。と六文風鈴君は言いたかったのか?

 誰一人、それを音楽として捕らえることが不可能であるがゆえに、そこにこそ音楽があり、それこそがもはや永遠を意味するのではないか? これを個人の営みとして実現するのであれば、し終える計画のためには寿命の正確な見積もりが必要になるのである。いつ訪れるか知れない完全な死を目前にして、私の希望はなんと悠長であることだろう。

 遅過ぎたのか。全ては遅過ぎたがゆえに音素は音楽を組織せず、圧倒的遅れとは? 勝負にならない先行? 周回遅れ but それは円環(楕円)する。だがしかし無限分割としての。

 ところで、遅れているのはどちらだ? ←ここに意思の入り込む余地が。いや、決して、決して、早急すぎないように……

 書かれたものは、書かれた瞬間に於いてですら致命的に遅れており、読まれる時点に於いては、もはやまったくの遺物と化している。だからこそ読み手は書き手からは安全な距離を保たれており、その隔たりによって書き手を安易にスナイプすることが可能となる。それがテキスト化であり、可能性の中心を射ることである一方で、書き手は読み手からの騙し討ちを予め避けることは不可能だ。この先出しじゃんけんに書き手がノーガードの棒立ちで立ち向かわなければならないのは先行者の宿命だが、むしろ、この圧倒的な時差によってこそ読み手は書き手の実体を捉えることが難いともいえる。だが、その構造こそが罠なのである。書き手の実体? 声、発声器官。かつて吹かれた喇叭に何かを求めることこそがフェティッシュなのだから、書き手とは嬲られる欲望であり、嬲られるためのオブジェとしての尻であり、ぶらさがりそこねた縊死体でもあった。一つか、もしくは二つ以上の。

 私は何かを見ながら数えることができるが、何かを聞きながら数えることは困難なのだ。脳内発話がかき消し、聞こえなくしてしまうからだ。このことから、私は、私の発語なき、厳密にいうなら、マキシマムにミニマムな音声での発話を聞き、それを発語しているのであって、それを脳内書字におきかえて音読するようにしゃべるべきだと自制しようというのであるが、なにぶん、私は、字もひどく悪筆だったので、脳内発語も脳内書字も、それらは頑なに私の声ではなく、私の筆跡でもないというのは、不思議であった。

 私は常々、脳内に響く声のような声で話したかったし、脳内の筆跡で書きたかった。私の声と書字を抑圧しているのは〈時間〉そして〈重力〉、つまりは〈肉体〉である。

 手が吃る。書く逡巡は思考との連動性における極度な時差にあるというよりも、むしろ図像を描く書き順選択の不手際によるところが大きかった。ペン先が行き来するノートの上での始点と終点との乗り継ぎ、ポイントの切り替えに失敗する。その失敗は私が脳内音声によって思惟を処理するタイプの脳の使い方をしているため、脳内音声と書字との間に必要な〈書字リスト〉を用意できぬまま、手はノートの上の見えない書字をなぞろうとして途方に暮れてしまうことに起因していた。つまり書字の吃りは手よりもむしろ〈視覚〉の吃りなのであってそのとき私は〈ある盲〉だった。文盲というのは適当ではなく〈字盲〉とでもいうべきだろうか? しかし見えていないわけではない。それが見えてくるまでに遅延が生じるのである。ペン先が声に迫られて狂乱し、雛型のない文字の記憶、それは筋肉に沈滞していた訓練の残滓としてのマクロであったが、ほとんど目隠しされた状態でペンに触れる各指部分に圧力とベクトルの印象と疲労とを巻き戻すようになぞろうとするペン先の触覚と声との奇跡的な一致を求めてあがいている酸欠の金魚のような、巣穴に熱い糖蜜を注ぎこまれる蟻たちのパニックのように蠢く全ての肘から先のやけくその痕跡に他ならなかった。音が見えない。だからこう言い替えなければならない。私はある種、〈準音盲〉であったと。私は目と耳とを吃る。となれば、唯一万全なのは触覚しかなかったのである。

 また同様に黙読? 目読? いずれにしても私はそれらが出来ず必ず脳内発声するから読書とは声を聞くことだ。その声の記憶は様々の。字幕で見た映画の音声が編集されているかのような。だから速読術は習得できない。形象即意味という捉え方はできず、形-声-意味の段階を踏むそのハイフンをHackするためのルートキットとしてのメタ文法なるものは果たして。

 文法は文を離れて在るが文と共にしか現れない。文法は文を規制し文に変革される。だからイデアではない。流出でもない。〈法=ダルマ〉とはそのようにあると仮定する私は時差に拘る。あらゆる距離に拘る。時間をとめただけでは空間は埋められない。空間を埋めるのはモノ=尻でしかありえない。互いの引力と大いなるモノ=尻からの重力としての。無限分割の結果というよりも原因となった最初の質量からの。

 本当は何か長いまとまったものを書きたくて準備をしていたのだ。材料は豊富だった。料理になぞらえるのは分かりやすい。材料から料理法が決まるような調理を私は好んでいた。棚からそのときの私に魅力をもって輝いてみえた、薫った、腹が鳴った、食指が動いた、涎が流れた、腹が鳴った、背筋がぞくぞくした、目を細めた、耳を疑った、鼻をひくつかせた、吐き気を催した、尿意を感じた、逃げたくなった、追いかけられているような焦燥を感じた、掌に吸い付くような、『私を選んで』と囁かれたような、そういった全ての何かを私は私のカゴのサイズの許す限り詰め込んで、その重さに未来を保証されたかのような気分で、同時に、早くも胃もたれと下痢までを予感しながら机上に積み上げたところで、一から十までを足して五十五となる世界こそが〈モデル〉だった。現実は違う。収束と発散という数学の概念を弄ぶわけではない。私にはそちらの方面の素養は皆無なのであって確かなことは、一から十までを足す人間は決して十まででは満足しないので、加算無限地獄に怯えもせず生かされるのである。もしくは〈一〉か〈たくさんの一〉か〈ただ一つの一〉となるかのいずれもが<現生態>というものなのだと私は全身を、とはつまり尻を強く震わせて主張したいのである。

 ∞か一。世界は∞であるがそれはもちろん加算無限でありそれは無限分割によって加算無限なのであって、一が無限に分割されるという〈モデル〉こそがこの世界だった。としても、言葉は三次元か? 空想という身体は三次元の経時的広がりに於いてなのか? キュビズムも未来派も三次元の輻輳でしかなかったのなら、ダダイズムは不完全であるがゆえに開かれた禅だったと?

 この錯乱の原因は、人類が突然変異して錯乱した頭足類であり、その錯乱の原因は、この誤った〈頭〉の位置のせいであった。脳はPS/2端子接続のレガシーデバイスとしてのサーモスタットに過ぎない。そこは厳格に隔離された出入り口をもち、確証なき情報の漏洩を厳格に阻む機密室であったことから、何らかの重要器官ででもあるように勘違いされ、脳=我、といった誤読をもたらした器官だったが、本当に、脳は整流器でしかなく、だから整流器の性能こそが〈我〉なのだ。そこでは理論的であることが優先される。つまり感情は頭に位置していない。感情は外界に接触可能な器官で発生する。そしてその面積がもっとも広いのは〈腸〉である。また、女性の膣が入口と出口とを兼用する理由も〈脳〉の物理的な位置を見直す契機となったのであった。ホモ=サピエンスにとって最大のネックは首から上に位置する器官だった。そしてその厄介な<頭>が女性の体内の中心、腸や肝臓などを幾重にも緩衝材とした子宮によって育まれるのだ。我々はつねに<頭>を問題にする。だがその<頭>の発生に現実的にかかわっている部位はすべて<腹>なのだ!

 〈ネジレモ・ドリーの鉤爪説〉によれば、現実とは無数の可能世界の状況の一つが、その直前に実現した世界に鉤爪をひっかけるようにして紡がれていく。そこに撓みやネジレが生じ、歪みエネルギーが一定以上溜まったとき、フックが弾け飛んで現実は揺り戻される。その衝撃は可能世界を不安定化し、実現していない可能世界間のフックを改編し、実現しやすさにつながる初期値が変更されることになる。揺れ戻しの衝撃は時空を著しく乱し、物質は同時に一つの点を占めることができない、といった基本法則までもが揺らぐ。なぜならば、この揺り戻し場においては、〈物質〉という存在形態が曖昧になるからである。そこでは、可能世界の全てが可能であり、全てが不可能である。全てが宿命的であり、かつ確率的である。

 可能性の全てが実現され、かつ全てが取替え可能になった世界においては、自他の区分もまた消失する。そこでは身体という入れ物が不要となる。それは魂が待ち望んでいたユートピアだと?

 だがその説には続きがあったはずだ。実現可能な世界は無数にあるが、世界という器に盛ることのできる現実はただ一つだと。そしてその一つは、常に最良? のものが選択されていると。そのためにこの説は捨て去られた。

 未来と過去とを反復横跳びする生涯とはつまりは連続平面状に平らかに引き伸ばされた〈今〉〈今〉〈今〉がそうなるのであって、その広さは折り畳まれた腸壁の広さに近似している。

 〈今〉、首縄が切れた。

 六文風鈴君がバレリーナのように風鈴を下げた方の爪先を高々と頭上に掲げると、もう一方の垂直に二つの地球の中心点を指し示していた爪先の先端が触れていた新出既出という私の肛門に突き刺さった。そしてそのままヌプリと、高々と掲げられていた爪先の風鈴だけを残して沈没した。チリンチリンと風鈴が鳴った。あたかもそれは、私自身が重さを捨て、重力を逃れて真上に浮かび上がった結果のようでもあった。もしくは、この地球そのものが重さから解き放たれ、この宇宙に唯一の繋留地点だった六文風鈴君の首縄にむかって浮かび上がったかのようでもあった。私が六文風鈴君を爪先の風鈴を残して呑み込んだのではない。この地球の<重力>がそうしたのだ。私は地球の入り口であった。私の肛門は出口としてだけではなく入り口としも十分に実用に耐えうることを、むしろ<重力>が証明したのだった。

 六文風鈴君? へその緒? 尻の緒? 抜け出る感じ。ひり出す感じ。上へ向かって? 私こと新出既出が生んだのが六文風鈴君か? ともかく、わたしがわれわれという紐付きとなった〈今〉、さてどのように調理すればよいかと途方に暮れる。だが問題はない。

 小説には必ず先行するモデルがあり、かつ先行するモデルになる宿命を背負っている。モデルとの時差を最小にしようとしつつ、似すぎることを恐れ、畏れ、恥じ、何とか似まいとするところにモデルが呼び込まれて、ますます似させてしまうのである。

 モデルとは多頭の怪物だ。結局のところ胴は一つしかなく尾は一本きりであった。では〈モデル〉から初めてなぜいけないのか? 一本の尾をつかみ出すこと。それが多頭の根元でないとの保証は、しかしゼロであった。全てがモデルの誤差であり反復なのである。その結果に抗うことで、ますますモデルに似てしまう。小説は我田引水であります。壷から顔を出す蛇は底の亀裂から這い出そうとして亀裂をふさいでいる蛇一匹の蛇。多頭一尾のクラインの壷……

 換喩は概念の近接性による意味の拡張としてユニークだが、その際の概念が一般概念ではなく縁起的すなわち共時的かつ相補的概念の近接性においてデジタル的スキップによる斜め滑りされた場合にのみ、生成される物体の再帰的制約を逃れられる可能性をもつ。そんなことがありうるのか? と問うてはならない。だが、そんなことがありうるのか?

 多頭一尾の怪物は必ず他の頭を憎んでいる。一尾とはアウトロである。問題は多頭一尾の怪物の消化器官なのであり、それが腹であるという認識なのだ。一つの腹に一つの尾。入り口は複数だがどれもみな同じ袋へ入っていく。憎むべき他の頭をも養わされるシステムへの苛立ち。それは書き出しだけが無数に用意された、つまり可能性ばかりをいたずらに並べたて、それらの並び立つことの不可能であることは互いに排除しあうことでしか生きられぬ一回性への苛立ちとしての憎しみが消化器を痛めつけてグリグリと風穴をあけている量子論のような、クラインの腸捻転だ。ピロリ菌の有無にかかわらず。

 襞は癒着するか? 比喩的襞ならば腸壁のように癒着し炎症を起こすかもしれない。しかし襞は空間、そしてさらに真実に近い比喩をあてがわれてなお、癒着の可能性はあるか? 空間が癒着し袋小路が生じることが? 鍾乳洞のように? あの空間の歪みに沿って経時的経路をとらず、空間の縁に沿った時間を往来できるトンカラリ洞窟のように? 虫食い林檎のメタファーで示された陰陽道の、黒白の双穴のつながりのように? 四次元的には? ワームホールは癒着を貫く、いや貫かれることで癒着を現象させしむものであり、先ず、貫かれなければならないのだが? では、袋小路は必ず貫通しているのだと結論してよいものか? →アウトロや輪廻なども?

 私とは〈大脳新皮質〉をビカビカ光らせながらひり出している一方で、〈腸〉が乳状突起をファサファサさせながらひりだしている、とみせかけて実は、脳よりももっと表層的リアルを感じ取りながら、言語以前の言語を体内で生成する腸内フローラスキームなのであった。

 現在までに、この腸の〈思便〉を顕現させることができたのは、〈腹の虫〉だけだ。もちろん、〈腹の虫〉は言語アーラヤ識を備えていない、もっとずっと根源的な生物、というよりも器官の機関のようなものなので、言語化できない気分や体調のような流動を司り、それらの信号は、ひじょうに編集された状態で脳へも届けられてはいたのであるが、所詮、皺状整流器が無味乾燥に整えてしまう過程で、文化的言語に翻訳されてしまっているのである。そのような取り扱いに甘んじていた限りに於いて〈腹の虫〉は〈即物即時的反射〉以上のものではなかったのではある。

 だが、そもそも〈空想〉にしても、あまつさえ脳のシナプス間におけるニューロンスパークの伝播に関しても、それは単純な反射作用に過ぎないのではなかったか? 脳の特異性とは、もっぱらニューロン束の距離的時差を実現する網的構造によるのだ。この、極度に複雑化した経路をめぐる時差こそが、〈思念〉であり、〈メタ思考の在り処〉なのであった。

 その点〈腹の虫〉は、そのような複雑さをもともと備えていない。無論、臓器や皮膚といった距離を伝播しなければならない限り、時差は発生する。だが、それは輻輳しない分、シンプルなのだ。

 ところで、〈シンプルな空想〉を空想することは可能か? 空想とは、その空想を細部まで突き詰め、癒着し、換装されることによって展開するものである。ある事物を空想したとき、そこから派生するあらゆる事物を広げたり深めたりすることこそが〈空想〉の醍醐味であり、その空想の細部の、意識せざる部分にまで空想世界の歯車が連動しはじめるとき、その空想は始めて世界として想像から創造へと具現化できるのである。その際、その空想世界が物としての体裁を備えている必要はない。なぜなら、物こそが空想の産物だからだ。

 だが、この思惟鍛錬は案外困難である。

 空想は、現実の知覚を敷衍することによってリアルな手触りを再現しようとする。だから、知覚した経験のない事物を空想するときには、自らの知覚器官を自在に共用したうえで、音を見たり、触れられることを嗅いだり、景色を味わったりできなければならないのである。それこそが自在空想だ。

 だが、現実の五感は五感に繋留されている。この繋留こそが整流器たる脳の主な働きだった。つまり脳とは拡張器官ではなく、波止場で踏み台にされがちの繋留杭なのである。この脳が全身にひろがる〈触知即空想系〉をとりまとめて、それぞれの長い廊下に並んだ上下左右に重層する部屋へ閉じ込め、必要に応じてその室内に設置された機関、器官によって知覚を客体信号として接収していたのであった。

 だから、〈人間は考える葦である〉との定義を、その定義のままに拡張しなければならない。つまり、われわれ人間は考える葦そのものであって、脳とはむしろその外部的整流器に他ならないのだということに。

 また、われわれは〈我疑いつつ在り〉との定義を、その定義のままに拡張しなければならない。つまり、〈我疑いつつ在るもこの緊箍児=きんこじ=孫悟空の頭の輪っかは我のものに非ずと〉に。

 だがしかし、作者たる私はいかんせん〈脳〉にこの作品を書き語っているのか? 脳の書字を読み取る内なる目が発語を形成整形することによって、暮れゆく山間にインドラの網のごとく音声振動を伝播させ、その文字間の相即相入をギミックした性質、すなわち〈モナド〉の鏡映体としてのスタティックな〈小説=糞便>へ、せめて予定調和に収束させん、と目論んでいたわけであって、それは作者自身としても忸怩たる思いはあった。私は撒き散らしたかったのだ。

 だがこれは私自身の欲動なのか?

 予定調和など糞食らえだ。←同意。完全に同意。

 いや、むしろ<糞>こそが、予定調和を破る事物なのだと私は今確信し、猛烈に便意しているところだ。糞と翼とは似ている。人は羽を夢見ることしかできないが、米を食らうことはできるではないか。rice と wing とは似ていないからこれは漢字だけのお話ではあるが、私は米を常食とする頭ならびに腹なのだから。

 米を食って糞をひることと、羽を空想して〈翼ぶ〉=飛ぶこととは、アナロジカルでもなく、メタフィジックでもなく、アナモルフィックでもなく、パラドキシカルでもなく、トポロジックでもなく、まごうことなく等価であるといわざるをえない。

 糞は翼だ。

 糞は翼だ。

 それは<異>という文字によって支えられている。それは<差異>によって成り立っている。米と異なるから糞。羽と異なるから翼。だが、このとき、米と糞とが、また羽と翼とが、すでに両者対でアプリオリに存在すると考えてはならない。そこには<差異>だけがあるのだ。

 だから、われわれは糞と翼の下に<異>という支えをもつ新たな漢字を創造しなければなならない。それは、<糞翼と異なる事物>を示す。

 言葉とはもともと指示子であるに過ぎないからその意味で言葉は意味を持たない。しかもこれは不換紙幣のように意味を持たないのだということに留意しなければならない。

 金との交換を保証されたいわゆる兌換紙幣とは、シニファンとシニフェとの絆を前提としていた。これは、空想と事物とのノエシス、ノエマの関係をも想起せしむるものであるが、残念ながら、言語や空想によって指し示される事物との絆などはないのだということを直視しなければならない。それは、言語と事物とが二重に恣意的、かつ全体的な重ね合わせの結果だから、というレベルではない。兌換紙幣ですら、紙と紙とを結び付けているのは<信用>でしかなかった。この信じるは、believeではない。dependenceなのである。それは目に見えないが、なんら特別ではない、不確かな契約でしかないものである。

 だからである。<糞>と<翼>の下に<異>という漢字で表される<物>など無い、などということは誰にも証明できないのだし、現にそれは<在る>のだ。

 私にはわかった。その名指しされぬ<異物>こそが作者たる私の〈想〈臓〉力〉に介入し、小説からモナドロジー的予定調和を奪い、むしろレンマ的縁起の法にのっとった発散する<一>というアメーバの如き化物へと化学反応させうるのだと。

 望むところである。

 考えることは何層もの皮膜の形成する襞の擬似的内部の反響だ。多頭一尾の怪物のいきつく進化の果てはラカン? 多頭一胴から、一頭多胴。そして頭足類から、糞、屁へ至る。もしくは超多頭=無頭、網目状一尾の〈腹〉 多頭一尾が無頭エビ、ちがう、無頭一尾となって無頭無尾となって、生きるという何かが残ると? 言葉の取り扱いなんて、みんな民間医療みたいなもんです。

 そんな夜をいくつも越えてきた。そんな夜はまんじりともせず寝付かれず、知恵熱が下がらない夜を震えながら毛布に包まって、夢の中でもやはり飛ぶことは叶わずに、まるで自分を何人も呑み込んでしまったかのごとき重たい胃と、空っぽの腸の間で、トロトロと溶けてゆく熱と不安に痛みなどはなく、溶けゆく身体を常に見つける側の私の胃だけが、継続的に痛みを発し続けるのだった。

 この痛みこそが朝であった。

 明けないはずの夜であった。

 溶かされ続けてなお、溶けきらない無限の朝をまたしても迎えてしまったという絶望が、しかし希望でもあった。

 反復だけが〈存る〉ことなのだ。反復のみが可能であり可能体であり可能であった全ての可能性の反復なのだ。歴史は反復する一回性である。そんな体験を性急に経験にしてしまわないように、常に私は心がけてきたはずだった。

 六文風鈴君? へその緒? 尻の緒? 抜け出る感じ。ひり出す感じ。上へ向かって。私こと六文風鈴が生んだのは新出既出だったのか? ともかく、われわれは紐付きとなった。

しかしながらなぜ私は死なないのか? こうしてしゃべっている間は死なないから、私は死ねないのか? 私は生きるためにしゃべらなくてもよい〈今〉になって、生き続けるためにしゃべり続けているのか? それを愉しんでいるのか? 学生たちに殺されることでしか生き延びることができなかった私自身を殺すことでしか私を生きながらえさせることしかできなかった私の発語が? 今、初めて私を生かしてくれていることが、たまらなくうれしいからなのか? このうれしさ。この充足。このオーガズムを少しでも長く味わいたいがために私は死なずにいるのか? 脳内で脳が脳の我が記憶の限りをモザイクし、文法を命綱として言葉を吐き出しているのか? 呼吸とは吐くことだとグルは言ったが、私はまだ吸えているのか? 呼吸などたかだか本能レベル=アーラヤ識。ここを突き抜けるにはアーラヤ識の止揚が不可欠というか、アーラヤ識をマナ識が、マナ識は意識が、という縁起を離れること。だから腸は個別の〈腸内フローラ〉により〈マナ識〉を住するが、〈言語アーラヤ識〉は離れている。よって〈語業〉を犯さず、肛門括約筋は声帯と業とを持たない。

 六文風鈴君。君はどこにいる? そしてまだ生きているか?

 (チリン)

 なんとまた苛烈に引き伸ばされた死を生きていることであるか。私さえここに吹き飛ばされてこなければ、このような状態で転がってこなければ、六文風鈴君の人生を終わらせる、いや、〈人性〉を生き抜いた肉体の器官を停止させるに足る距離の隔たりを、転げてきた私の尻で受け止めてしまったからこそ、六文風鈴君は死ねず、また私も死なないのであった

 完全変態する昆虫などは、蛹をへて、青虫だったころとは完全に切断されている。蝶はアオムシであった記憶を持たない。まるで、蝶が生んだ卵にアオムシが寄生し、そのアオムシに蝶が寄生しているかのように。

 人間には言語が寄生するのだ。

 人間には言語が寄生するのだ。

人間には言語が寄生するのだ。

 言語を知ってからは、言語を知る以前とはまった切断されてしまう。脳が言語に寄生され、作り変えられるからだ。無意識が言語のように構造化される、とはこのことだ。そして、言語によって構造化された脳は、それ以前を認知することはできない。だから、言語が問題なのである。それは、蝶に自分が青虫であったことを直視させ、今も青虫であること。そして青虫は蝶であることに自らの存在を捨てて存在することである。

 アウトロ。それは常に聴かされるエピローグというほど積極的ではない半ば残余のようで、それまでの旋律を律動でかき乱し、沈静化させ、同化し、掴み出し、継続し続けてきた音楽の当然の帰結ででもあるかのように、実体を失った軽い重さのように鳴り響く逆メガホン型の袋小路のドンつきにうがたれたピンホールの彼岸という無限に広がる無音に辛うじて届くほどの微動。だが、それでいったい何が終わったというのか? 微動は生き残り、再び逆の逆メガホンのピンホールから始まる、再び歌が繰り返されるのだ。

 〈カッコ〉、〈カッコ〉、〈カッコ〉、〈カッコ〉の数が合わない。一体〈私〉は、〈私の声〉は、〈私の発語〉は、〈私の意味〉は、どれほど〈入れ子〉となり、かつ何が閉じられ、何が閉じられていないのか? 私は閉じようとして話している〈のではなかった〉。

 六文風鈴君を支えているのではなかった。自分こそが六文風鈴君に吊り下げられていた。私こそが巨大な風鈴の逆さまの南部鉄の鈴の部分であり、いや、私はこの地球という鈴と六文風鈴君という薄っぺらな吹流しとの結合機関の器官の部分なのだった。ゆらゆらと六文風鈴君を揺らしていた風は太陽風であり宇宙の波動であり、プランク係数をもって語られる、あの振動する紐の蠢いている無数の多足虫の充満した宇宙の、あたかも無数の可能性という〈無〉を唯一の現実として開示する、あの振動のように六文風鈴君を揺さぶり、その振動が私の尻の双丘に、綿密に刻み込まれていったのだから、つまりこの痕跡は、ナスカの地上絵と同じ、あの、いくつもの渦巻きのみを描いた壁画だけを残して消え去った古代文明の民のメンタルそのものなのであって、それは風前の灯である。

 (チリン)

 死神だ。落語の死神そのものだ。そして消えるのは私こと新出既出、お前だけなのだ。

 (チリン)

 風鈴に風鈴を下げるとは乙なものだ。私はヘンに感心していた。

 絶対的一人称としての語素、それは、文字でもなく、言葉でもなく、音節でもなく、ましてや〈文〉とはほど遠い不完全な〈文〉であり、〈文法〉と呼ぶにはあまりに単純すぎる、あらゆる言葉=名前に含まれている〈接続〉という性質をしゃべり続ける主人公の私こと新出既出は機関の器官の部分であるすぎない。だがそれは蓄音機なのか、それとも蚯蚓なのか。はたまた〈接続詞〉なのか。そんなところから始めたはずだ?

 ではなぜ、この音声は響いたのか?

 即死と検案されたはずの男の最期の吐息の発した言語。大般若波羅密多心経を一文字も飛ばすことなく刹那に転読する技にも似た、一瞬という永遠の具現に凝集した生命の、微かだが途絶えることのないこの震えが大気の爆発的揺らぎを越えて。一体の擦り切れた焼死体の傍らで、声だけが、声だけの亡霊のように、地縛霊のように。きのこ雲のようなクラウド?〈今〉とはフォーカスである霧のある一塊を。

 二度聞く必要があるのか?

 もう一度聞き返してみれば、ただ延々と爆音が聞こえるだけだった。いや、爆音のほんの一瞬前の荒い呼吸。それは明らかに吐く息だった、のような屁のような、それは明らかにすかしていた、臭ってくるような、スッ、という音が、はじめにそれだけが記録されており、その直後に残されていた言葉。輪廻とは〈魂〉や〈生命〉の問題ではない。それは未だ不完全ではあるとはいえ、取り扱いとしては〈物理〉の範疇に属する現象である。大海から大海の内に大海の水を掬い、それをまた大海に返し、また掬う。それは気泡のようであったかもしれないそれへ、この大海に〈外部〉から音速を超えた、もしかしたら光速の飛翔体が吹きつけてくることから全ての妄念が生じた。その妄念を〈存在〉と名指す。つまり、輪廻とは存在と同義といってよい。世界はそのように妄執されている。無論、輪廻は我を継承しないが、掬う水の混じり具合によっては、継承を疑わせる事象も起こりうる。だがそれは、なんら特異なケースではない。ミサイルの着弾? 熱、光、風。咳き込む私こと新出既出と六文風鈴君とは凧のように、空は時間であり風でつながっている生まれ変わりの時間だ。即死者に遺された生体反応のある傷の中に、不可解な両尻の双丘にある渦巻状のものがあればそれこそが縊死者の足指の爪跡だったが、その縊死者は永劫発見されない。なぜならば私たちは、外界の諸感官へのファーストインパクトからすでに遅延しており、認知、認識の段階ではすでに周回遅れだったから。この遅延は校正・校閲のために組み込まれた編集期間ための機関であり、存在を存在するために必要な存在的疎外であった。差延こそが〈共時存在的一〉に分節を生じさせる〈風〉であり、〈痕跡〉とはその分節の痕跡の〈襞〉、〈襞〉の表層の記憶を形成する〈襞〉に他ならず、こうして遅延なき非認識こそを〈悟り〉と呼ぶという。これは私的華厳のための経般若心経であり、サマリーだった。

二度聞く必要があるのか? あなたはどこから来た? また会おう――」

 臭いな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

永い屁 新出既出 @shinnsyutukisyutu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る