花とあなたの無精ひげ

しらす

サンセベリアとオミナエシ

 からりと温室の戸が開く音に、リンはハッと顔を上げた。

 太陽はもう傾きかけて、空の端が薄桃色に染まる刻限だ。温かな陽だまりでついうとうとしてしまったけれど、この季節は油断しているとすぐに冷たい風が吹くようになる。

 全身に絡む長い金色の髪をそっと払い、背中の薄いカゲロウのような翅をふるりと一つ羽ばたかせ、リンは凭れ掛かっていたいた植木鉢から体を起こした。


 すると今度は、すーっと小さな音を立てて戸が閉まっていく。

 彼がやって来る時はいつもそうだ。戸を開ける時はちょっと乱暴に全開にするのに、中に入ると思い直したようにそうっと後ろ手で閉める。

 そして戸を閉めると、いつも真っすぐに部屋の奥に向かい、サンセベリアの鉢の脇に腰を下ろすのだ。


 リンは飛び立つとその後を追った。ガラス張りの温室の中には他にも、寒さに弱い観葉植物が幾つも並んでいて、更にその隙間を縫うように水槽が並んでいる。


 けれど彼はいつだって、他の何にも目もくれない。

 硝子越しに差す陽光が綺麗だよ、と言っても顔も起こさないし、あっちの水槽のモーリーが大きくなったよ、と裾を引っ張ってもまるで聞いていない。



 サンセベリアの葉をじっと見つめ、時々霧吹きをして埃を拭き、優しくなぞるように葉を撫でる。

 他の植物には何もせず、決まって温室の奥に置かれたその一鉢にだけ、まるで別の何かを見ているかのような目をして寄り添うのだ。

 そうして三十分はこの温室で過ごしてから、何を語るでもなくまた帰っていく。毎日その繰り返しだ。


 リンの声が聞こえていないわけではないようで、声を掛けると彼は首を横に振ったり、口元を重たげに動かして、適当に「ああ」「うん」と返事だけはする。

 毎日この温室を訪れる彼は、この「大学」の「教授」と呼ばれている人間の男らしい。

 らしい、というのは、リンが見かける他の「教授」と彼とでは、ずいぶん印象が違うからだ。


 着ているのは丈の長い白い上着―白衣と言うらしい―に白いシャツ、グレーのパンツ。そして顔には眼鏡と呼ばれる、薄い硝子の板を二つ繋げた、視力の弱い人間が使う道具をいつも付けている。

 これだけなら他の教授や「学生」と呼ばれる者達にも似たような姿はよく見かける。


 けれど彼の白衣は、裾や袖がいつも汚れていて、洗濯しているのかどうかも分からない有様だし、髪も搔きむしった形のまま、いつだってどこかが跳ねている。

 年寄りというわけでもなさそうなのに、顎の先には黒い髭が疎らに生えていて、極めつけはその目だ。いつも瞼を三割下ろしたままのような目で、終始眠いのか不機嫌なのか分からない顔をしている。



「なんだ……今日は静かなんだな」

 視線をサンセベリアに向けたまま、不意に彼は口を開いた。珍しい事だ。


「だってシュースケ、今日はいつもと違う匂いがする」

 近寄れないと言う程ではないが、その匂いはリンにとっては少し居心地の悪くなる匂いだ。

 明らかに彼の体の周りで濃く漂うそれは、よく見ると紫の霧のように彼の全身に纏わりついている。


「匂い……?ああ、さっきまで研究室に居座ってたやつの匂いか」

 心当たりがあったのか、いつでもちょっと不機嫌そうな彼は、眉を寄せて本格的に不機嫌な顔になった。


「モテモテだね、シュースケ。それ、人間の雌のフェロモンの匂いだよ」

「おい、勘弁してくれ」

「はっきり断らないのがいけないよ。匂い付けされるって事は、他の雌に近寄るなって言ってるんだよ」

「そういう表現はやめてくれ、猿にでもなった気分になる」

「そう変わらないと思うけどなぁ」

 率直に返すと、シュースケは露骨に嫌そうな顔になった。


 人間は何かにつけ、己が人間と言う種族である事に拘りたがる、とかつて同胞たちが教えてくれた。リンにはその理由がよく分からないが、シュースケもどうやらその例に漏れないらしい。



「嫌ならさ、何とかしてあげようか?」

 そう言うと、珍しくシュースケはすぐにリンの方を振り返った。

 いつも三割は落ちている瞼が、二割くらいに上がったその目には、心なしか期待が籠っているようで光っている。

 薄茶色の虹彩に縁どられた黒い瞳孔が、真っすぐにリンの明るい緑の瞳を捉えていた。


「できるのか?」

「私を何だと思ってるの?ちょうど今はいい季節だし、女除けなんて簡単だよ」

 リンが腰に手を当てて胸を反らすと、シュースケはふ、と首を傾げてから、温室のガラス越しに外を見た。


 温室の周囲を囲む花壇には、これでもかと言うほど丈高く伸びたオミナエシが、黄色い花を目いっぱいに咲かせている。

 時折り吹く風にゆらゆらと揺れるその花は、今のシュースケを助けるにはぴったりの花だ。

「ああ、そういう事か。なら頼む」

「いいよ。じゃあちょっと、そのまま座っててね」


 一声掛けて半開きの窓硝子の隙間を潜ると、リンはすぐさま外へと飛び出した。


 植物には様々な力がある。力と言っても、花の妖精であるリンが扱うそれは、人間が使う薬のそれとは少し違う。

 香りで気分がよくなったり、ただ美しいからと人を魅了するのとも違う。

 ただし、人間とまるきり無関係でもない。人間に力を及ぼす植物は、多かれ少なかれ、人間がそこに己の意志を与えているものだ。



「さすがに今の時期はいいね。いっぱい取れたよ」

 両手に黄色い花を抱えて戻ると、振り返ったシュースケは目を丸くした。

 瞼が完全に開いて、明らかに驚いた顔でリンの抱えた花の束と外を見比べるように視線を動かし、口を半開きにした。


「どうしたの、何を驚いてるの?」

「何ってそりゃ、そんなに取って……大丈夫なのか?バレるだろ、誰かが取ったって」

「ああ、それなら心配しなくていいよ。ほらよく見て、花は消えてないでしょ?」


 リンが窓の外を指差すと、シュースケは立ち上がって壁際まで寄った。目の悪い彼には、そこまでしないと外の様子がよく見えていないらしい。

 しばらく目を凝らして花壇を見つめ、ようやく納得したようにリンに視線を戻したシュースケは、溜息と共に瞼を元に戻した。


「これはね、花の力の一部が形になったもの。取っちゃったらその力は減るけど、ここ、どうせ見に来る人も少ないしね」

 そう言ってリンが、体の十倍はある花の束を掲げて見せると、シュースケは感心したのか呆れたのかいまいち分からない顔で「なるほどな」と呟いた。



「で、それをどうするんだ?」

「どうもこうも、頭に飾るんだよ」

「……は?」

「だ・か・ら!頭に飾るの!人間は他の人間と交流する時、まずは頭を見るでしょ。だから頭にこの花をしるしとして飾るの」

「ちょっと待て。俺の頭に花を飾るって?」

「心配しなくても普通の人間には見えないよ。見えたり効果があったりするのは、シュースケに気がある雌だけだから」

「いや、そんな事言ったって……」


 どういうわけか瞼を半分以上下ろしてリンを見るシュースケは、今までに見た事がない表情になっていた。

 ぱっと見には怒っているようにも見えるけれど、ちょっと呆れているようでもあるし、混乱しているようでもある。

 そして不思議な事に、困ったように頭を抱えたかと思ったら、次の瞬間、今にも笑いだしそうに、唇を大きく緩めた。


「シュースケ……百面相してるよ」

「ああ……だろうな」

 初めて見る表情豊かな彼の顔に、リンも少し困惑した。



 シュースケがこの温室にサンセベリアの鉢を置きに来たのは三年前だった。それから毎日やって来る彼を、リンはずっと見ていた。

 最初の頃は見ていただけだったけれど、いつも愛おしげに鉢の手入れをし、飽かず眺めて帰る彼に、一年後には思わず声を掛けていた。

 けれど彼がリンの姿を見て驚いた顔をしたのは最初だけで、それ以降はずっと無関心だった。笑うところなど初めて見た。


「いいさ、飾ってくれ」

 不意に優しい顔で微笑むと、シュースケは驚くリンに手を差し出した。そしてオミナエシの花を一束摘まみ取ると、自分の耳の上に挿した。

 その瞬間、シュースケの指先から流れ込んで来た彼の記憶に、リンはくらりと眩暈を起こしそうになった。



 ―かつて、彼の頭に同じように花を飾った少女が居たのだ。

 戯れになのか、その頭を七色の小さな花で綺麗に飾って、嬉しそうに笑う少女。

 明るい色の瞳に、ふわふわと風に流れる茶色みを帯びた黒髪。

 仏頂面で対するシュースケに、少しも屈託なく笑顔を見せ、彼の心に灯りをともしていた少女。

 その少女が、彼にサンセベリアの鉢を渡しながら、泣きそうな顔で言うのだ。

「必ず帰ってくるから、待ってて。約束だよ」と。



「おいどうした?大丈夫か」

 流れ込んでくる記憶に酔って、ふらふらと床に落ちかけたリンは、シュースケの手に花ごと抱き留められていた。

 二年も声を掛け続けて、初めて触れた彼の手は、まるで木陰で眠る猫の背中のような、どこかホッとする温かさだ。


 出来る事なら、この手にずっと身を委ねていたい。

 そんな気分になってしまう自分に気付いて、リンは慌てて体勢を立て直した。


「大丈夫。飾るよ、この花」

 真っすぐにシュースケの目を見て、彼に、そして自分にも言い聞かせるように、リンはオミナエシの黄色い花束を掲げた。

 この花に人間が与えた意志。「花言葉」と呼ばれるそれは「約束を守る」というものだ。

 ひたすらに会えない彼女を思う彼を守るのに、これほど相応しい花はない。


「頼む。……悪いな」

 何が、とも言わず謝るシュースケに、黙って首を横に振ったリンは、彼の頭に一輪ずつ、丁寧に丁寧に花を飾っていった。

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