車内アナウンスはかく語りき

鈴木松尾

車内アナウンスはかく語りき

 なんでそういうことをされるのか分からなかった。毎朝その事を思い出す。けど答えが出ない。


 八時ちょうどの品川行き快速電車、最後方の車両に乗る。ルーティンになっていた。本当は先頭車両のフロントガラス越しに見える景色を眺めたい。見えている線路に向かって順々に進んでいる、あの走行感を受け身でただ眺めていれる時間が好きだった。京兆電車では七時から先頭車両は女性専用車両となっていたから最後方の車両に変えたのだが、それは後日思い込みであったことが分かった。品川行きの先頭車両は女性専用車両ではなかった。最後方の車両に乗る待機位置で通過する先頭車両を何気なく見た時、まばらな乗客の中に男性が居た。錯覚かも知れなかったし、その時は最後方車両のフィックス窓越し、車掌室の(フロント)ガラス越しから見える景色に同じような楽しみを見つけていたから、乗降車両を変えようと思わなかった。平日朝七時以降九時ちょうど発までの青砥行きの快速電車先頭車両は女性専用であるらしいと分かったのは土曜日の朝、横浜に行こうとして先頭車両の待機位置に居た時だ。ホームドアの壁面に太文字で「女性専用」とあったが、改行してすぐ下にその旨の断り書きがあった。

 当時、私はそのことを知らないでいたので「乗っても良いかも知れない先頭車両」には乗らなかった。仮に乗ったとして、私がその壁面の案内を読んだ上で自分の行動に正しさの確認が取れていたとしても、通勤時間帯の先頭車両は女性専用であると思い込んでいる人が一人でもいたら、根拠にした断り書きを私は説明できない。説明し切る勇気が無い。自分が正しいと思っている相手に私は自分の正しさを言い出すことが出来ない。怖いからだ。相手の視線、口の動き、使う言葉。根拠にしていた壁の断り書きは見えなくなり、女性専用という大義名分の誤解が迫って来る。私は受け身でいるしかできない。その炎上は日が改まっても私の身体の内部で何かの拍子に発生し、何度も繰り返される。その脆弱な心の対処のために無難に最後方車両を乗り続けている。

 立ち位置を決めている。車掌室と客室を区切る壁とその上部にある羽目殺しの窓を左目に見て、その壁と直角に続く、進行方向に対して右側の壁に背が着く位置に立つ。右を向くと進行方向、左が通り過ぎた方向となり、通り過ぎた景色を眺めるのが好きだった。通過する駅のホームに並ぶ人々や、駅を通り抜けた直後の踏切は私が乗る電車が通過するとすぐに開き、踏切内を渡る人々を何とはなしに見る。鉄橋を走り抜ける最中に見る多摩川、雨が降っている時の土手、土手に続く緑地に三つだけあるホームレスのダンボール小屋、を見えなくなるまで見る。京兆電車は直線が長く続く場合、最速120Km/hで走り抜ける。近辺を走る他社線が90Km/hと110km/hであるので「赤い彗星」と言われる。赤の車体が彗星の如く、停車しない駅では減速せずに疾走する。

 しかし、一昨日から楽しめなくなった。彼は横浜から乗り込む乗客だった。私はいつも通りの立ち位置でつり革をつかみ、つり革の延長線上に床とぶつかる配置で右足を置いていた。これもいつもの所作だった。彼は車掌室を背にして、進行方向に対してやや右寄りに立つ。私とは直角に視線がぶつかり、彼は右寄りに立つので、私の位置に近い所に陣取る。陣取り終えると右足の挙動に揺らぎを見た。そもそもつり革に伸ばす彼の視線を空振りさせ、小競り合いを未遂に終わらせた時点で不審さを感じずには入られなかった。私はつり革をつかんで離さない。このつり革は「お前のではなく俺のだ」。しかしそれは結果的に彼のフェイントだった。彼の右足のつま先が私の右足の内側、土踏まずの側面に接触していた。革靴側面の角度が緩いラインとスニーカーのつま先、半楕円形に近いライン、曲線と曲線が接する最大幅で密着された。パーソナルスペースとしての私の領域に踏み込んでいる。電車は空いていて背を付ける壁も座れる席もある。なぜここで密を作る?それで右足を引っ込めた。それが一昨日。

 昨日は、退かないと意識して乗り込んでいたのに結果としては連敗した。密着を上回る圧着を喰らった。一昨日と同じく私の右足内側に彼の右足つま先が密着していて、私はその状況を無視した。一昨日とは違う。つま先を見ないのだ。強さを可視化されると、強弱の人間関係が進んでいく。強者が幅を利かせ弱者の肩身は狭い。その成り行きに乗りたくない。どこまでも乗ってしまうからだ。しかし無視できたのは二秒間だけだった。つま先に集中されている力を感じた。体感した途端に引いてしまった。彼の右足が私の右足をどけようと力を込めている。蹴り払われるまでには至らないけど、確実につま先で押している。私は右足を引っ込めた。敗北した私は彼が青物横丁で降りるまでずっと見ていた。見せられていた。彼は壁に背を着け胸の前に掛けたリュックに顔を近づけて埋める姿勢で目を瞑っていた。青物横丁までの120Km/hが遅い。

 今日は目にもの見せてやる。下を見ない。前も見ない。何があっても足を見ない。相手の出方は分かっている。接着、密着、圧着の攻性。予定通り彼は乗り込んできた。つり革の小競り合いから始まるパターンも想定の範囲内。圧着まで進んだ。つま先で押されている。知ってる。分かっているよ。身体は強張っていない。しかしここからは未知の領域、未だかつて経験したことがない男の戦いだ。圧着が二秒を過ぎ、通過駅の一駅が過ぎ、最高速120km/hに差し掛かったところで接点が0となった。右足に感じていた圧力を感じない。つま先で押すのを止めた?諦めた?勝った?と思った瞬間、私の右足の甲に軽い圧を感じた。


「ちょっと、踏んでる」


「ばらんすぉぉぉぉ」


私は足を引き、彼の足は床に着いた。そしてリュックに顔をうずめ、青物横丁で降りていった。この間の最高速は何かを超えたような、どこにも進んでいないような、通過駅にいる私を何ともなしに見た感覚があった。私の向かいの壁に寄り掛かっている乗客も私を見た。

 彼は障害者か?バランスを取りたいから足をそこに置きたいということか?そうだとしたら今までの男の戦いは弱い者いじめだったのか?そういえば、青物横丁に着いて乗降ドアから改札口に歩き始める彼の歩き方は片側の肩が一定のリズムで微小に下がっていた。身体障害者か?そうならばなぜ足を踏む?そういう発想に障害は関係あるのか?知的障害者ならばあり得る事なのか?障害者に対して健常者は協力の一択だ。けど納得がいかない。足を踏まれないとならない理由は何?

 そうして毎朝、足を踏まれた事を思い出していた。答えを見つけるまではその電車に乗れない。対処できなければ繰り返して腹が立つからだ。右足を一歩譲る、ではなく一本ずらして青砥行きの快速電車、最後方車両に乗ることにした。

 何日か過ぎたある日、地下にある三田駅で車いすに乗ったお客が乗るというアナウンスに気付いた。車掌室と客室を分ける壁の左上部に開閉が出来る窓がある。マイクを使って放送するにも関わらず、案内放送をする時は開けているのをよく見た。三田に着いて乗降ドアが開く。駅員と車いすのお客が電車に乗ろうとしている。開いた窓から「お客様ご案内中」と放送される。ドアを背にしてすぐ左の手すりがついている広めのスペースにそのお客は向かう。「乗車完了」と聞こえるとドアが閉まり、電車は大門に向かって動き出す。

 そのお客は三田で乗って次の駅である大門で降りる。降りるときは「降車完了」であった。そしてその一連の行為は週に三日ぐらいある。次第に気にならなくなって「ご案内中」から「降車完了」まで一度も文庫本から目を動かさなくなった頃、大門から新橋へ向かう途中の車内放送で「外見からは分かりにくくても、身体の内部に障害のあるお客様もいらっしゃいます。乗務員からの呼びかけがありましたら、席をお譲り頂きますよう、ご協力をお願いいたします」とあって、まあそうだよね、とこの時もあまり気にならなかった。その直後「障害がある人の中には声に出して話せる人もいますが、相手の声は聞こえていない場合があります」と案内された。それに対する感想はすぐには浮かばなかった。新橋に着いてドアが開く。車両とホームの間隙を越えた時、「答えがあるんかい」と声が出た。


 今、思うと声が出ていたかどうかが分からない。もしかして聞こえていなかったのかも知れないし。

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車内アナウンスはかく語りき 鈴木松尾 @nishimura-hir0yukl

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