第3話
夜空に餓鬼が舌を伸ばすように炎があがる。
次の日、おばあちゃん家は炎上した。
夕食どきだった。突然おばあちゃんは顔色を変えると、僕たちをクローゼットに押し込んだ。何がなんだか分からないまま、息を潜めていると、何人もの足音が聞こえた。
扉の隙間から見えたのは、全身黒ずくめでサブマシンガンを持った連中だった。おばあちゃんは逆手に包丁を持ち、次々と黒ずくめの首筋や股の腱を切り裂いた。テーブル、絨毯が赤く染まる。おばあちゃんは表情ひとつ変えない。僕との練習の時とは違い、全てを奪い去る死神が所作のひとつひとつに宿っていた。
突然、銀色の光芒が閃いた。
間一髪で、おばあちゃんが上半身をしならせる。頬から血が流れた。背後のカレンダーには柳葉形のナイフが刺さっていた。
「さすがはアカネさんだ」
暗い響きの男の声だった。声色と同じく、容貌も暗い。髪は長く、後ろに結んでいる。もみあげとつながる髭は整えられ、眼は憂いを帯びている。全身は深海を彷彿とさせる藍色のスーツに身を包んでいた。
「猩々……、こりゃなんの真似だい」
「心当たりはあるでしょう……。エル・ブランコは貴女を必要としている」
「あの男には片目で許してもらったはずだがね」
「彼があの世界に君臨し続ける理由は分かるでしょう。たかが片目で貴女ほどの人材を手放すわけがない」
「買い被られたもんだよ」
「それで、答えは」
「答えはね」
おばあちゃんがキッチンを背にする。菜箸を手に忍ばせるのが見えた。
「これさ!」
じゃっ
という音とともに、おばあちゃんの右手が宙に上がった。同時に猩々の右手も上がる。
続けざまにおばあちゃんはテーブルをくぐり、距離を縮める。刃物が擦れあう短い金属音が響く。不意に音が止んだ。おばあちゃんと猩々が間合いを開き、互いに牽制しあう。おばあちゃんは、円形の構えをとった。アップルパイのホールの形から着想を得た防御の型だ。猩々が薄く笑うと、再び鋭い音が鳴った。
クローゼットの視界、ギリギリの所でふたりが戦っているのが見えた。おばあちゃんが包丁で突く。それを猩々のカランビットナイフが受け流す。猩々が包丁をもつ手首を掴み、関節を決めようとした。だが、おばあちゃんはそれを許さない。右脚で猩々の膝を蹴り体勢を崩す。そのまま、猩々の頭をテーブルに何度も打ちつけた。がんっ、がんっ、がんっ。鈍い音がオーク材の天板に響く。もらった。僕はおばあちゃんの勝ちを確信した。
「……ぐっふぅううう」
苦悶の表情を浮かべたのは、おばあちゃんの方だった。腕を離し倒れると、血の塊を吐き出した。一瞬だが、頬の傷が黄色く膿んでいるように見えた。
「貴女の歳じゃ即死の毒なのに」
「小狡さは変わっちゃいないね……」
血塗れの猩々がおばあちゃんの脇腹に蹴りをいれる。
メイコが叫びそうになる。僕は口を押さえるのに必死だった。
「弟子だったあの頃とはもう違う」
猩々が沈んだ声で言い、右手のカランビットナイフをにぎり直した。そして、左手を開く。掌には二つに寸断された菜箸があった。おばあちゃんの投擲を見てから右手のナイフで切断、破片を左手で掴むという芸当をして見せたのだ。
「貴女も、今じゃ敵わない」
「それはアンタの速さに合わせてやっただけさ」
「減らず口を」
「試してみるかい?」
猩々がおばあちゃんを仰向けにする。カランビットナイフが閃く。正確に心臓を刺し貫いた。
「おばあちゃん!!」
メイコがついに叫んだ。猩々がこちらを向いた。
だが、僕は次の光景に目を見張った。おばあちゃんの土色の腕が猩々に絡みつく。カッと目を開き、おばあちゃんは叫んだ。
「ひろし! ガス栓を開けな!」
僕は跳ねるようにして指示に従う。
「さあ、行きな!」
「でも……!」
「メイコはアンタが守るんだよ」
必死に猩々を押さえつけているはずなのに、おばあちゃんはいつものようにニンガリと笑った。
「さあ行くんだよ! 大丈夫。辛くなったらおばあちゃんのアップルパイを思い出しな」
メイコを背負い、裏口に駆ける。メイコがおばあちゃんに手を伸ばす。僕は振り返らなかった。機関車のように足を動かす。一歩でも距離を離すことが唯一おばあちゃんに報いる手段だった。
おばあちゃんとの記憶がフラッシュバックする。いつも強かったおばあちゃん。アップルパイを頬張るおばあちゃん。テーブルをみんなで囲んで笑うおばあちゃん。
おばあちゃん!
一瞬、振り返ろうとした。その瞬間に爆風が頬を炙った。焦げくささと同時に背中に衝撃を受ける。僕は無意識にメイコを庇っていた。
胸にメイコを抱いた体勢で、家を見上げた。
天高く燃えている。童話の鬼たちが家を囲んでいるような赤の暴力。吹き飛ばされ、家までは20メートルほど距離があった。それでも顔全体がチリチリと焼けつくような炎の熱さを感じた。
「ばあちゃん!」
僕は叫んだ。家を覆う灼熱で、はじめておばあちゃんの喪失を実感した。どうにもならない。そう分かっていても何度も叫んだ。
「おにいちゃん……」
メイコが呻く。
「メイコ……、どこも怪我してないか」
「分かんない」
「痛いところは」
「ううん」
メイコは首を振る。僕は最初、否定するために首を振ったのだと思った。
「お兄ちゃん。どこ?」
じくり、と左頬が痛んだ。先ほどの爆風で皮膚が焼け焦げていた。
あの時、後ろを見ていたメイコの顔半分は赤く焼け爛れていた。
僕はメイコを抱きすくめる。
「大丈夫。ここにいるよ」
メイコが伸ばした手が僕の左頬に触れる。
「怪我したの?」
「ちょっとね。でもばあちゃんの稽古に比べたらへっちゃらさ」
「また強がって」
メイコがくすくすと笑う。胸の中で声を聞きながら、僕は声を押し殺して泣いた。唇から漏れる音は、メイコの笑い声と似ていた。
笑っているのか、泣いているのか、分からなくなる。僕はこのまま、図工の水彩絵具のようにメイコと混ざり合ってしまうんじゃないかと思った。
力が抜けていく。メイコの体温が眠気を誘う。瞼が開かない。
意識を失うまでの間、僕は「猩々」「エル・ブランコ」の名前を思い出していた。
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