第2話

「言ったろう? アップルパイは殺人拳なのさ」

 春の風が頬を撫でる中、庭でおばあちゃんが僕から5回目のノックダウンを取り、そう言った。

 僕は再び立ち上がる。右足で地面を蹴り、宙返りの要領で、左足をおばあちゃんの脳天に叩きつける。

「サクサクのパイ生地はフェイントそのもの。歯応えで満足させたら本命のリンゴを鳩尾にくれてやる」

 おばあちゃんは右手で僕の足を掴み、引き寄せる。その瞬間、僕は呼吸ができなくなった。麺棒で身体がのされるような感覚が襲う。遅れて、自分の鳩尾におばあちゃんの掌底がめり込んだことが分かった。

「身体の力を抜きな。全身がパイ生地のスカスカな虚になった風にイメージするんだ」

「ふっ……ふぅっ……」

 意識して呼吸すると、少しだけ身体が軽くなった。それでも、起き上がる気力はなくなっていた。無力感が全身を包む。また負けた。毎日、鍛錬の最後はいつも倒れ伏して終わっていた。

「こんなんじゃ……メイコを守れない」

 知らないうちに言葉が漏れる。おばあちゃんはニンガリと笑う。

「そうだよ。あんたは何もできない。妹を守るなんざ夢のまた夢。せいぜい努力するんだね」

 僕を立たせ、続ける。

「身体を洗っておいで。おやつにするよ」

「またアップルパイでしょ」

「おにーちゃーん!」

 滑らかなソプラノの声がした。車椅子を転がし、メイコがおばあちゃん家の玄関先まで出ていた。

「アップルパイ焼けたよー!」

 おばあちゃんは黄色い歯を見せて笑った。

「飽きたんだろ? メイコにゃ悪いが、アタシが全部いただくとするかね」

「バカ、食べる。食べるに決まってるだろ……」

 おばあちゃんは愉快そうにヒャヒャヒャと笑った。



 シャワーで体を流したあと、僕は椅子に座った。最初の頃こそ稽古のあとは擦り傷と打身で動けなかったけれど、今はもう慣れっこだ。

 すぐそばでコンロの赤いポットが湯気をたてている。

 おばあちゃんがポットを傾け、紅茶を淹れる。

「上手くできてるといいけど……」

 メイコがオーブンを開く。パイ生地の香ばしい匂いが部屋を満たす。

「いい匂い」

「僕がやるよ」

 メイコの代わりに鍋つかみでパイを取り出す。

「もう。それくらいできるのに」

「火傷してからじゃ遅い」

 メイコは困ったように眉を寄せる。そうだ。妹はこのくらいもうできる。そう思ってもやめられなかった。

 皿の上にはアップルパイが鎮座している。小鹿のような薄茶色の生地をバターの輝きがコーティングしている。ホールで作るパイはいつも誇らしげで、私を食べられるかしら、と僕に問いかけているように見えた。シナモンとリンゴの香りが鼻腔を満たす。反射的に僕の口内は唾液で満たされた。

「早く机に出しな」

 おばあちゃんが急かす。

 僕は洗いたての花柄のテーブルクロスにアップルパイを置く。

「たまには切らせてよ」

「だめだね。アタシにも勝てやしない坊主がナマ言うんじゃないよ」

「パイくらい切れるって」

「はっ、黙って席にお座り」

「いつになったら子ども扱いやめてくれるんだよ、ばあちゃん」

「ふふ、おばあちゃんはお兄ちゃんが心配なんだよ」

「そんなわけないだろ」

 おばあちゃんがアップルパイを切り出す。ぱりっ、ざくざく、ざくざく。半分に切ったアップルパイから熱々のリンゴが湯気をあげ、ペンダントライトを撫でた。シナモンの芳醇な香りが部屋に広がる。

「さあ頂くとするかね」

 全員分を取り分けると、おばあちゃんは手を合わせた。

「いただきます」

 メイコが作ったと思うと、なんだかもったいない気がした。だが、疲労した身体は無遠慮に栄養を要求していた。

 パイにフォークを刺し、思いっきり頬張る。口いっぱいに広がる果実の甘みとバターの旨み。

「……うまい」

「よかったぁ……」

 メイコが安心したようにため息を漏らす。おばあちゃんも一口かじる。咀嚼とともにニタァっと笑みを浮かべた。

「やるじゃないか」

「おばあちゃんの教え方が上手だからよ」

「そりゃそうさ。アタシほどアップルパイと向き合った女はいないからね」

 おばあちゃんは決まってそう言う。だから最初の稽古の時に聞いた。

「ばあちゃんはパティシエだったんでしょ。なんでそんなアップルパイ好きになったの?」

「人にはね、運命ってのがあるんだ。たまたま、アタシの場合はアップルパイだったってだけだよ」

「へぇ、でもなんでそんな強いんだよ」

「ひろし。好きなものを突き詰めた奴は強くなるんだよ。好きなものはずっと見てても飽きないだろ? 中国にはカマキリや鶴を真似た拳法がある。アタシが思うに、はじめに考えた奴は相当それが好きだったんだろうね」

 おばあちゃんはひと笑いすると、僕を見た。

「アンタには好きなものはあるかい」

「……」

 この時、僕は答えに窮した。おばあちゃん家に来る前、両親は事故で死んだ。未だにふたりの死にすら向き合えない自分が好きなものを持っていいのだろうか?

「僕は……」

「まあいいさ。すぐに見つけられなくていい。……そうだ。好きなものが見つかるまで、ばあちゃんと一緒にアップルパイを好きになりな」

「え?」

「三人でアップルパイ専門店でガッポガッポよ!」

「メイコもかよ!」

 きっとおばあちゃんは、元気づけるために言ってくれた冗談だったのだろう。でも、いつしかアップルパイは僕の中でかけがえのない存在になっていた。

「ひろし! アンタが食わないならばあちゃんが全部食っちまうからね!! へっへへ!」

 無遠慮におばあちゃんがフォークを伸ばしてきた。こういう時のおばあちゃんは本当に食べようとしてくるから油断ならない。僕はちびちび食べるのをやめにして、一口で頬張った。

 メイコが僕を見て笑う。おばあちゃんが心底悔しそうな顔をつくる。いつもの食卓、いつもの景色があった。

 僕はこの時間が永遠に続くものだと思っていた。

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