林檎破殺拳 THE RED FIST

電楽サロン

第1話

 扉を開くと紫煙が主より先に出迎えた。

 書斎で男は机に向かっていた。解きかけの新聞のクロスワードパズルを隠しきれなかったのは、俺が突然入ってきたからだろう。視線を上げるなり男は煙草を落としかけた。

 俺は構わずビニール袋を投げる。

 袋が放物線を描く。ペルシャ絨毯にワンバウンドする。袋の中身が転がった。

 女の生首だった。眉間に穴をあけ、女はひどく曖昧な表情を浮かべている。男が驚いている間にも冷凍がとけ、切断面が絨毯を黒く染めつつあった。

「"血の女王"で間違いないな」

 俺は尋ねる。

 男はおそるおそる確認し、頷いた。

「本当に戻ってくると思わなかったか?」

 俺の問いに男は狼狽した。

 男の依頼はありふれたものだった。

 妻と娘を殺した女を殺してほしい。

 この仕事が長ければ、この種の依頼は掃いて捨てるほど聞く。

 だが、相手がアメリカ最高の刑務所に収監されているなら話は別だった。スーパーマックス刑務所。"血の女王"マヌエラはそこにいた。ロッキー山脈のアルカトラズ島とも呼ばれるその刑務所は、一日のほぼ全てを独房に拘束される。脱獄した者は建設以来だれひとりとしておらず、殺人とはほど遠い場所だった。

「なんと……お礼を言えば……」

 ようやく男は言葉を発した。

「約束は守ってもらおう」

 男は一枚のメモ用紙を差し出した。紙にはいくつかの数字の羅列がある。

「エル・ブランコの隠れ家だ。この座標で間違いない。私がDEAにいた頃から出入りしていたからな。ミスターシノウ、あの老人は末期のガンだ。目を離していてもいずれ死ぬ。一体彼に何の用が」

「その質問は仕事に含まれない。確認が済んだなら首はこちらで引き受ける」

「最後にいいかね……、ミスターシノウ。これは私の老婆心にすぎないが、化物屋敷には決まって人喰い猿がいる。近づくのは賢明ではない」

「忠告痛み入るよ」

 俺は振り返らず、書斎を辞した。

 夕暮れで空が赤く染まっていた。秋風が通りを抜ける。銀杏の葉が道に黄色い風を巻き上げた。それは見えない誰かが歩いた跡のようにも見える。案外、幽霊は夜ではなく夕暮れどきの誰もいない道を闊歩しているのかもしれない。

 気がつけば仇討ち屋めいた稼業も10年続けていた。その忍耐がようやく実を結ぶ。俺は柄になく感傷に浸っていた。

 車に乗り込むと、彼女が待っていた。口元にはいつもの笑みを浮かべている。

「話し合いは終わった?」

「ああ」

「あの人、いい人そうだったわ」

「いい人だったよ。人喰い猿についても教えてくれた」

 彼女は言葉を紡ぐ前に、ひと呼吸置いた。

「やはり生きていたのね」

「そのようだ」

「おばあちゃんは、また笑えるかしら」

「……きっとな」

 俺はエンジンをかける。低音と振動が身体を包んだ。

 おばあちゃん。その言葉がやけに遠い過去に聞こえた。アップルパイを殺人拳に練り上げた俺のおばあちゃんが生きていたあの頃は15年前に遡る。

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