第5話
暖炉の薪がパチパチと音を立てている。部屋の調度品は暗い茶色で統一されていた。
俺は部屋の中央に視線を移す。白いシーツに埋もれるようにして男は眠っていた。枕元まで歩く。白くなった髭は守り人によって整えられ、浅黒い肌にはいくつもの皺が彫り込まれていた。この皺の数だけ死線をくぐり抜けてきたのだろう。
これが、おばあちゃんを雇っていた男──エル・ブランコ──か。
事前に見た写真ではでっぷりと太っていたが、今の彼は病に冒され血管が浮き出るほど痩せていた。
ふと、エル・ブランコが目を覚ます。
「……やはり来たか」
「俺を知っているのか」
「隠遁していても、名くらいは聞く。ミスターシノウ……。私を殺すのかね?」
「愚問だ」
老人は乾いた笑い声をあげる。
俺はおもむろに懐から包丁を取り出す。
「これが何か分かるか。あんたが大事にしていたパティシエが最後に俺たちを守るために使った包丁だ」
包丁は煤にまみれていた。その消えない黒ずみは、おばあちゃんの執念が移ったようだった。
ひらりと逆手に持つ。
俺は間髪入れずに、エル・ブランコの胸へ突き立てた。老いた胸骨は、主人を守ることなく刃先を心臓に導いた。
エル・ブランコの目が見開かれる。ごぼ、と喉が音を立て、血液が口からあふれ出る。
一代で城を築いた男の最後にしてはあっけなかった。
そう、あまりにあっけなさすぎた。まるで、こうなることを見越していたように。
俺は耳を澄ませる。コンクリートを反響する足音。いま自分がいるのが3階だ。足音は廊下の先にある階段を駆け上がっていた。
「退いたとはいえ、私はカルテルの従僕だ。ミスターシノウがここにくる、と教えたら、喜んで始末屋を差し向けてくれたよ」
エル・ブランコは切れ切れに言った。
足音は粗く数えて10人以上いた。重さや足取りから考えても、おそらく全員が重武装でいるのは間違いなかった。
「いくら拳が強くても、銃には勝てんのだよ……。憎い老骨と骨を埋める覚悟はできたかね」
廊下の向こう15メートル。覆面をつけた男たちが現れる。彼らは俺を見つけると、銃口を向け走ってきた。
その足音に混ざり、大型の蜂のような音が聞こえた。それは次第に近づいてくる。男たちの耳にも届いたのだろう。音の出所である廊下の窓へ振り向いた。
「あいにくだが」
男たちの間を黒い物体がすり抜ける。すると瞬時に上半身と下半身が分断され、乱れ飛ぶ。反射的に響く銃声。物体は弾丸をはじきながらUターンすると悲鳴が上がった。切り離された頭部が天井にぶつかり、廊下が臓物と血に彩られる。
「それは叶わない」
血煙から、黒い塊が突進してくる。
正面からは歪んだ「X」が迫ってくるように見えた。「X」は駆動音を迸らせ、眼前の空中で静止した。
黒いドローンだった。上下にカーボンブレードが搭載された機体は血しぶきもあいまって殺意の権化のように感じる。
「もう、無茶ばっかり」
ドローンを浮かせるファンの音に混じり、内蔵スピーカーからメイコの声がした。
「世話をかけるな」
「毎度のことじゃない」
妹が笑う。
何回目かの仕事の時、物好きなエンジニアがいた。彼は妻の仇を始末したお礼にと、妹にこのドローンを制作したのだ。メイコが傷つくのは見ていられない。俺は反対したが、彼女は「最後くらいは看取らせて」と聞かなかった。
妹は俺より強くなった。聴覚による索敵と脳内で地図を構築する能力がずば抜けていた。俺が対象の建築物を説明し、事前に周囲の環境音を聴かせるだけでドローンによる襲撃は精密になった。
その間にも、窓からは複数ドローンが侵入する。駆動音が離れ、次々と迎撃に向かう。ほどなくして階下からは銃声と叫び声がこだました。
エル・ブランコが充血した眼で俺を見上げる。呪いを全身に浴びせかけるようなその視線を掌で遮る。俺は柄まで包丁を押し込んだ。
「もたつく暇はないわ。ついてきて」
俺はドローンの先導で廊下を駆ける。階段の手前には生き残った始末屋がいた。俺を見るなり襲いかかる。円形の構え。ナイフの右フックを捌く。肘を腕と膝で挟み、折る。始末屋が絶叫する。俺は左脚のホルスターからナイフを取り出し、首を掻き切った。
下階からは銃声と足音が迫ってくる。迷っている暇はない。階段を一段飛ばしで駆け上がる。4階から上に続く階段から光が差す。見上げると屋上に続く扉があった。小さな窓からは青空が広がっている。
エル・ブランコと猩々を排除した後、屋上で待ち、メイコのドローン四機にハーネスを繋いで俺は脱出する。それが計画だった。
このまま出れば、無事に戻れる。作戦は成功だ。
だが、意に反してドアノブにかけた俺の手が止まる。エル・ブランコは死んだ。猩々もまた死んだ。もはや殺すべき人間はいないのに、なぜ。
──カルテルが残っているだろう。
もういないあの人の声が聞こえる。
──美味しいアップルパイは最後まで食べてナンボだよ。ひろし。
屋上にぽつんと小柄な背中を幻視する。あの人の思念が見せたのか、それとも俺の妄執がそうさせたのか。
「早く、兄さん」
「メイコ……、このままで本当におばあちゃんは笑ってくれるかな」
「それは……」
メイコの声が詰まる。俺は階段を駆け降り、カルテルからの刺客たちと対峙する。狭い通路のためライフルを捨て、大振りのナイフ、ナタを手にした。目の前には8人。下階からも続々と数を増やしている。想像以上の動員数だ。翻せばそれほどカルテルは脅威に感じているのだろう。俺は笑う。
男が二人同時に斬りかかってくる。
飛翔音ともに、狭い階段の通路を黒いドローンが通り抜けた。
「分からない……。でも、兄さんが笑わないというなら」
メイコは言葉を切る。尋常の神経では可能にできない操作に集中するためだ。
ドローンは一陣の風だった。ひとりの股下にカーボンブレードを走らせる。旋回とひねりを加え、急角度の方向転換を行う。もうひとりの鼻を削いだ。一瞬の隙。俺は顎を掌底で撃ち砕く。
「もう少しだけ付き合ってくれるか」
「ええ。笑う日まで」
俺たちは再び動き出す。
刺客が死ぬか、俺が死ぬか。それまでこの城は赤く染まり続ける。おばあちゃんの家が燃える日を忘れるまで、俺は拳を振るい続ける。
アップルパイを食べ終わるには、まだ遠い。
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