エピローグ

 高円寺駅を南口から出ると、冬空が広がっていた。雲ひとつない青が続く。私はなんの責任もなく「さあ、笑って」と空から言われているように感じた。晴れた空が大嫌いだ。

 ちょうど3週間前、夫が出張する日も同じような空だった。商社に勤める彼はサンクトペテルブルクが行き先だと言った。

「じゃあ、気をつけてね」

「うん。……あ……」

「どうしたの」

 彼は玄関に置いていた新聞紙から広告を抜き、白い裏面にペンを走らせた。

「これ」彼が私に渡したのは店の名前と、ある単語だった。

「3週間して戻らなかったらここに行って品名を言うんだ」

「え……?」

 いつもとは違う翳りのある夫の表情だった。嫌な予感が脳に触れる。

「頼んだよ。じゃあ、行ってくる」

 そう言って彼は扉を閉めた。夫はそれきり連絡が取れなくなった。

 あの時、嫌な予感がした時点で止めていれば、夫を問いただしていれば。後悔の念を青空は嘲笑う。

 駅を出て、南へ歩く。アーケードを抜け、私はルック商店街に入る。色彩鮮やかな雑貨店、古本屋、古着屋が軒を連ねていた。客が入っていないのか、店先で店主が煙草を吸い、隣の店を覗いている。食いつめた大学生が300円セールの古着を漁っている。時間がこの街だけゆっくり流れている気がした。

 私はスマホの地図に従い、商店街の途中、花屋のある角を曲がった。そして、家屋と中華料理店の隙間を抜ける。道とも呼べない隘路だった。私は半身になって通りすぎる。

 視界が開けると、その店はあった。深い緑色を基調としたモダンな佇まいだ。オーニングテントが赤と白のストライプで日陰をつくっていた。メモを見直す。間違いない。ここが「White Velvet」だ。扉の前には〈OPEN〉の看板がぶら下がっている。私ははやる気持ちを抑えて入店する。

 ケーキ屋さんの匂いがした。クリームやバター、パイの焼けた幸せな香りが鼻腔に入る。

「いらっしゃいませ」

 店内から声がした。アップルパイが並ぶガラスケースの後ろから滑るようにして女性が現れた。

「座ったままでごめんなさいね」と、女性が言う。車椅子に座った彼女は全身を黒いドレスに包んでいた。不思議と陰鬱には感じなかった。顔の上半分を覆う黒いベールの下で微笑む口元がそう感じさせるのだろう。

「お探しのものはあるかしら? 今日はシナノゴールドで作ったアップルパイがおすすめよ」

「あの……、『おばあちゃんのとっておき』をひとつ」

 それはメニューにない品名だった。女性の笑みは変わらない。私は少し動揺する。

「申し訳ないのだけれど、お店の看板を〈CLOSE〉にしてくださる?」

「ええ」

 私は言われたとおりに、店頭の看板を裏返す。女性は私を店の奥に案内した。キッチンは通らず、女性が日々暮らすリビングのような場所だった。

「お掛けになって」

 木製のテーブルの前にある一脚に座る。女性は私から見て右側についた。

「アップルパイは好きかい」

 私は声のする後ろを振り返る。先程通った廊下から男が現れた。エプロン姿でも筋肉の引き締まりがわかった。短く刈りそろえられた前髪に整った眉、女性同様、若く見える。左頬には痛々しい傷があった。

 男が私の前にトレイを出す。その上には焼き立てのアップルパイがのった皿と、紅茶があった。

「食べながらの方が話も進むだろう」

 私は黙って頷く。

 男が向かい側に座り、前に乗り出した。

「要件を聞こうか」


【了】

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