第4話
グアテマラの中央の湖畔にその白い城塞は建っていた。コンクリート壁が外側を囲み、有刺鉄線が張り巡らされている。見張り台は5つあり、各台に重機関銃ブローニングM2が設置してあった。過剰な防衛設備は周りの自然と溶け込むことを拒否しているようだ。それは、城主の生き方そのものを表していた。
城主──
その手腕は天職とも言える。しかし、彼は麻薬カルテルの一線から退いた。理由はいくつかあった。そのうちの一つにカルテルの求める水準のコカイン精製が出来なくなったことが挙げられる。中国からの安値で膨大な量のコカインの流入に太刀打ちするには、より品質を高め、顧客を満足させる必要があった。15年前のことだ。その年は、おばあちゃんの家が燃えた年だった。
おばあちゃんはカルテルのパティシエだった。コカイン精製に貢献し、エル・ブランコに財をもたらした。だからこそ、彼は再びおばあちゃんの手を借りようとした。
それが、あの日猩々が来た理由だった。
そしてもう一つだけ、分かったことがあった。
おばあちゃんがカルテルをやめた日。メキシコで50人いた運び人のうち49人が撲殺された。現場には夥しい血がまき散らされていたのにも関わらず、偽装用のアップルパイには一滴も血が付着していなかったという。
そこで俺は回想をやめた。
エル・ブランコの隠れ家。廊下にはスーツ姿の男が立っていた。後ろにまとめた長髪が白くなっている。15年前と変わらない出立ちだ。しかし、顔の右半分は白い仮面が覆っており、否応にもあの日の炎を思い出させる。
「刺客なんて珍しい。ここは時代に乗り遅れた者の憩う場所だよ。外に見張りがひとりもいないから分かっただろうに……」
男は陰鬱な響きで言う。
「俺には関係ない」
「ふふ、話のわからない奴だね。それより……、通りたいのかい」
男の背後には扉があった。外側のコンクリート壁と同様、壁は白い。使い込まれた木製の扉がその背景から浮き出しているように見えた。
「まだ通らない」
「ほう」
「お前を殺す。お前の血がついた手で俺は扉を開ける……、猩々」
俺は右脚を後ろに後退させて半身になる。両腕を前に構え、円をつくる。アップルパイがホール一個分入るほどの円だ。
猩々は顔を歪める。笑ったのだ。
「あの時の子供か。もうひとりいたはずだが……」
「いまは俺に集中した方がいいぜ。志能アカネの無念、ここで晴らさせてもらう」
そう言い終わる寸前、猩々の腕が銀光を放った。咄嗟に重心を下げる。頭上数センチ、柳葉形の刃が通過する。同時に猩々は距離を詰めていた。左拳が顔面を狙う。予想以上の速さだった。俺は打撃を避けようとする。
──辛くなったら、おばあちゃんのアップルパイを思い出すんだよ
唐突におばあちゃんの言葉を思い出した。反応が遅れ、左拳を顔に受ける。血の味が口に広がり、後ろに下がる。眼前で猩々の右腕が弧を描いた。
「運がいいな、君は」
猩々が右手のカランビットナイフを回す。今の左拳はフェイントで、躱した喉元に斬撃を浴びせるつもりだったのだ。
「次はないよ」
互いに構え合う。猩々の放つ殺気は間合いの酸素を殺しているかのようだった。僅かな動作が命の取捨につながる。足裏を擦り、じりじりと円を描きながら間合いを詰める。
窓から見える空は、ガンメタルの色味を帯び、中南米の日光をことごとく貪りつくしていた。
曇天の隙間から、ゆっくりと陽光が差しはじめた。その瞬間、俺は中段に蹴りを放った。パイの縁を模した鋭い足刀。猩々はそれを流し、腱を切ろうとする。その動きに合わせ、猩々の右腕に脚を絡ませた。重心が崩れる。猩々が膝をついた勢いで手からナイフが離れた。俺が脚で締めつけると、腕はみしりと軋んだ。
「ぬうっ」
どこにそんな力があったのだろうか。猩々は右腕を振り、俺を壁にぶつけた。背中でコンクリートの硬さをもろに受ける。もう一度、逆側のコンクリートにぶつける。頭からぶつかった。一瞬視界がブラックアウトし、絡ませた脚を放してしまう。
追撃を避けるため、廊下を転がる。革靴の爪先が脇腹にめり込む。肺の空気が押し出された。
──全身がパイ生地のスカスカな虚になった風にイメージするんだ
おばあちゃんの言葉を思い出す。
全身の力を抜く。咄嗟に頭を上げ、構えなおす。猩々の連撃が素早さを増した。左拳、右拳、右ローキック。死の暴風がまとわりつく。
円形の構え、アップルパイの円。それはあらゆる暴力を受けきる絶対防御の構え。俺は降りそそぐ打撃群を受け流す。さらに速度は速くなるが、受け続ける。
アップルパイが焼き上がるまで、オーブンから出さないのと同じだ。腕に擦り切れる痛みを感じながら、俺はその時を待つ。
猩々の動きが乱れた。
一気に肉迫する。俺の右肘が猩々の顎を打ち抜いた。ひとつ。左拳が肋を砕く。ふたつ。右の掌底が喉仏を打つ。みっつ。
ほぼ同時に打った三撃。これは、アップルパイの中身であるリンゴのコンポートから発想を得たものだった。バラバラなリンゴの欠片でありながら、まとまりを持って味覚を刺激する。そこに流れるような連撃を放つヒントがあった。
猩々が痙攣とともに膝から崩れ落ちる。だが、その双眸に敗北の色はなく、静かに俺を見据えていた。
「なあ、きみ」
潰れた喉で猩々が言う。
「あかねさん、の、あっぷるぱいは、うまかったかい」
「……」
「はこびやをしてたときも、わたしは、さいごまで、たべられなかったからね。気になったんだ」
「……ばあちゃんのは、いつでも最高の味だった」
「そうか……、いっかいでいいから食べてみたかったな」
猩々がうつ伏せに倒れる。
おばあちゃんの家が燃えた日を思い出す。
あの日以来、探し続けた男を俺は倒した。
おばあちゃんは笑ってくれるだろうか。強くなったね、と褒めてくれるだろうか。とりとめもない考えが浮かび、俺は嗤った。
──ひろし。
ふと、幻想の炎の中に小柄な黒い影を見つける。
──ばあちゃん。
──あんたは、とんだ大馬鹿者だねぇ。
──え……?
──あたしの話を聞いてたのかい?「サクサクのパイ生地はフェイントそのもの。歯応えで満足させたら本命のリンゴを鳩尾にくれてやる」、だよ。
炎の中から意識が呼び戻される。猩々が倒れ伏す。
その時だった。猩々の右足が吊り上がり、サソリの針のごとく俺に向いた。銀光が閃く。
猩々は常人を逸したバランス力と体幹によって爪先で投擲したのだ。
鳩尾、数センチ手前で俺は柳葉形のナイフを止めた。おばあちゃんを毒で死に至らしめた切先には触れず、柄を握れたのは猩々のわずかな動きのズレに気づけたからだった。
猩々が左半分の顔で微笑する。
「やるね」
「本命のリンゴ。しかと受け止めた!」
俺は返す手でナイフを投げる。回転を加えた一閃は、猩々の眉間を貫き、後頭部から脳漿を爆ぜちらす。持ち主を失った仮面がからりと落ちる。扉が朱に染まった。
猩々の吊り上がった右足が痙攣し、怪物の尾のごとく地に横たわる。宿敵が再び立ち上がることはなかった。
窓の外は、晴れ間が差し込んでいた。青い空が灰色の雲に亀裂をつくる。
もうすぐ全てが終わる。その時には空は晴れているだろうか。
俺の答えは全て扉の向こうにある。
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