市民とテロリスト

ここ最近、忙しい。平日は仕事に追われ、休日は友達と遊ぶ。入り込む隙間はほとんどない。


だけど私は忘れていない。私が望むものが何なのか。なんの為なら喪失感を感じない努力ができるのか。人生を終われせない理由があるのかという厳粛な審議を。


皆、その答えは異なるのか、同じなのかはわからない。しかし、私はそれを見つけ始めた。私の取った方法は何かに傾いた思想を人生に当てはめていくという消去法だったので随分、時間がかかってしまった。


私にとって答えは2つある。

1つ目は一体感だ。

私の口に出すことに人がその人自身を見つけられる。そして、人の口に出すことに自分の存在を見つけられるということだ。

幸せ、友情、愛情、楽しさ、優しさ、大きな手、水の入ったグラス、少なめのワイン、暖かい目、別れと再会。そういうものだ。

私はおそらく他の人と同じような明るい世界を望むただ善良な市民なのだ。


もう一つは空虚だ。

目の前に明るい世界が広がっている。努力をすれば確実にその世界がある。友達はその戸を軽く叩き、家族は温かいシチューを作って席に着くように声をかける。


しかし私はてこでも動かない。その人達が実は場合によっては私の悪口を言い、私の顔を見て顔を見合わせ、笑っていることを知っている。私がいかに無礼で気が利かず、無能であるかを得意げ話ているのを知っているのだ。


だから私は動かない。じっと動かずにそれが過ぎ去るのをじっと睨んでいる。そしてどうにかしてそれを壊そうとする。全てを壊して私が1から作り直すか、私を壊してこの下らない芝居を終わらせるか、それか両方か。


それを実行するか迷い、それに振り回され、それに轢かれ、それに突き落とされ、坂道を転がり落ち、疲れ果ててしまったとき、僕は空虚が何だったかを知ることができる。


私の人生はこれの繰り返しだ。これまでも、そしてこれからも。しかしこれは決してこれまでそうだったから私が望んでいると考えているわけではない。


私の存在がそうなのだ。私はこの衝動の被害者を演じて社会に改善の見込みを持ってもらっている。そうしなければ僕はこの現代社会で淘汰されてしまうだろう。大昔であれば口減らしのために後ろから岩で頭を殴られている。


僕は善良な市民であり、模範的なテロリストである。それを繰り返すことが私の理想的な人生だろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

病院の探し方 @arup

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る