私の手も声も

おおきたつぐみ

私の手も声も

 ――真夜中。

 レースのカーテンの隙間から漏れる青白い月光が白いシーツに横たわる早紀さんの身体に降り注ぐ。早紀さきさんは眠っているけれど、まぶたと長いまつげが時々震えている。


 また夢を見ているの? ――あの人の夢を。


 横に座る私は無言で彼女を見下ろしている。

 月の光にほのかに照らされた早紀さんは、高い鼻梁の影が頬に落ち、まるでギリシャの彫像のようだった。

 つい先刻まで熱い肌で私を抱いていたのに、今だってすぐ横で体温を感じられるのに、彼女は目をつぶれば瞬く間に遠くへ行ってしまう。時も場所も越えて、その脳裏に深く刻まれた昔の恋人に会いに行っているのだ。


 こんなに愛しているのに、決して私のものにはならない人。


 でも、私にだけ、できることもある。

 だから私はこんな時間に起きて早紀さんの震えるまつげを見つめている。

 彼女が何を見ているかを想像し、胸がかきむしられるように思いながらも。


 次第に早紀さんの眉間に皺が寄っていく。目をつぶったまま、美しい顔が歪んでいく。

「ん……ん、う……なつ……」

 漏れる声、乱れる息。強ばって薄く開かれた唇の間から歯を噛みしめているのが見える。

 うなされている彼女の顔に私は静かに手を伸ばす。

「大丈夫よ、早紀」

 少し汗ばんでひんやりとした額を手のひらで何度も撫でる。母親が幼子をあやすように。彼女の形のいい額を、眉から前髪の生え際まで何度も、何度も。

「私はここにいるから」

 小さく低く繰り返す私の声は普段の私の声とは違う。その声が、言葉が、いつかのどこかの記憶を彷徨う早紀さんに届き、表情が次第に和らいでいく。そろそろと伸ばされる手をしっかりと握ると、安心したように早紀さんも握り返す。

「大好きよ、早紀」

 うん、と早紀さんはかすかに頷く。

「わ……も」


 ――私も。


 私は泣きたくなりながら、そっと唇を重ねる。早紀さんの少し乾いた唇は私の衝動に応えることはなく、やがてそのまま、また規則正しい寝息へと落ち着いていく。

 嬉しくも……悲しい。私の声と手なのに、私ではない、早紀さんを苦しめるその人の幻に早紀さんは救われている。



 私の手と声に、過去の恋の傷に追われてうなされる早紀さんを落ち着かせ、眠らせる力があると気づいたのは、二ヶ月ほど前のことだった。

 私と早紀さんはタイミングが合えばデートし、身体を重ねる関係だけれど、付き合ってはいない。早紀さんが決まった恋人を求めていないから、私も同調したふりをしている。


「私、重たい人って苦手。束縛されるの大嫌い」

 初めて一緒にバーに行った時、マティーニを飲みながら早紀さんはそう呟くように言った。その口調の強さにはっとした。私の知らない早紀さんの姿だった。

 早紀さんは同じ会社の先輩で、たまに仕事で絡む程度だったけれど、私はずっと彼女が気になっていた。基本的にひとりでいる人で、仕事帰りにグループで飲んだり、週末に連れだってアウトドアに出かけたりする人たち――社内で目立つ人たち――からは距離を置いていたけれど、いつも冷静で仕事は正確だったし、やるべきことは率先して行う人だったからみんなに一目置かれていた。ショートボブに一重の目が鋭く、クールな美人だったから話しかけにくいけれど、予想外に気さくに応じてくれるからファンになった人も大勢いる。私もそうだった。ただ仕事で必要な話をする以上に踏み込むのを許さないような雰囲気があり、退勤後や週末に誰と何をしているのだろうとたまに噂になるような、ミステリアスな人だった。だから私はただただ、遠くから見つめるしかできなかった。

 二年前、早紀さんが転職することを知った。私は彼女の会社のメールアドレスと携帯電話番号しか知らなかったから、早紀さんが退職したらもう二度と会えないと思い詰め、散々悩んだ挙げ句に断られることを前提で思い切って飲みに誘った。早紀さんは少し驚いた顔をしながらも、あっさりと「じゃあ、さっそくだけど今夜はどう」と言ってくれたので、私はとっておきのバーに案内したのだった。


 重たい人が苦手――。もう何年も密かに早紀さんへの思いを募らせていた私は充分に重たいだろう。彼女は隠してきたつもりの私の恋心に気づき、けん制しているのだろうか、と怖くなった。

「束縛は……嫌ですね」

 迷いながら一般的な相づちで様子を見る。

「まあ、かといって軽い人が好きってわけじゃないけれど」

 ふ、と笑って早紀さんはマティーニを飲み干し、グラスをカウンターに置いた。さっと受け取りに来たバーテンダーに、早紀さんはお代わりと囁いた。

「神田さんはちょうどいい感じだよね、サバサバしているから一緒に仕事していてもやりやすかった」

「……光栄です」

 舞い上がりたくなるのをなんとか抑えたけれど、早紀さんを好きだという気持ちが――ずっと好きでいた気持ちが薄暗い照明の中でも蜻蛉かげろうの羽のように透けて見えていたのかもしれない。カウンターに並んで座っている早紀さんはじっと私を見た。

「ねえ、こうやって誘ったってことは私のこと好きなの?」

 息がかかるほどの近さでそう言われ、身体の芯がゾクゾクした。

 頬杖をついた早紀さんはいたずらっぽい表情を浮かべていたけれど、瞳は冷静に私を見定めようとしていた。重くない女なのか、面倒なことをしない女なのか、そして後から思えば――早紀さんの古傷をえぐるようなことをしない女なのかを。

「……仕事の先輩として尊敬しています」

「それだけ?」

 私は平然とした顔を装いながら必死で早紀さんが求める正解を探した。好きです、なんて言ったらいけない。重くない女だと、これからもたまに会ってもいいと思わせるようなことを言わなくてはならない。

「もっと素の早紀さんを知りたいです……」

 なんとか絞り出したのは平凡な言葉だったけれど、早紀さんは満足したようにきゅっと口角を引き結んだ。

「私、束縛されたりこじれたりするのが嫌だから、決まった恋人って作りたくないの。だからひとりに絞らずに常に何人かの女の子とデートして関係を持ってる。どう、会社でのあなたが尊敬する私と全然違うでしょ? 引かない?」

 早紀さんは私が憧れていたようなただの仕事ができる冷静な先輩ではなかった。したたかで、女の扱いに慣れ、相手に困らない女だった。私の手に負える女性ではない。近づけたとしてもきっと私はこの人に振り回される。このバー限りでいい思い出にしたほうがいい。

 わかっている、それでも――私は彼女に近づきたかった。おそらくこの時、早紀さんへの思いは「憧れ」から「恋」へとはっきりと変化したのだろう。振り回されてもいい。彼女にとって多数の中のひとりでも構わない。それはどうしようもない強い衝動だった。

 早紀さんは冷静に私の反応を見ている。

 それならば、私も演じるしかない。私はスクリュードライバーを一口飲んで言った。

「いいえ、私も似たようなものですから。固定した関係より、タイミングが合う時に会いたい人と楽しむほうが気楽ですし」

 それは精一杯の強がりだったけれど、早紀さんがクスクスと楽しそうに笑うのを見て、明らかな失敗ではなかったとほっとした。

二度目に同じバーで飲んだ日、私たちは朝まで一緒に過ごした。


 実際に早紀さんには私の他にも何人か会う女の子がいた。バーで最初に聞かされた時はそれでもいいと思ったのに、実際に私といる時にその子たちと連絡を取られたり、次に会う約束を濁されたりすると胸の中が煮えるように苦しくなった。しかも「自分も同じようなものだ」と言った手前、何を聞かされても見させられても平然としていなくてはならないのだ。私はすぐに後悔したけれど、ふたりで会うようになって見せてくれるようになった屈託のない笑顔や、名字ではなく名前で――「真白ましろ」と呼ぶ時の甘い響き、吸い付くような肌の感触に後戻りできないほど好きになっていたからこその苦しみであることも理解していた。一緒にいる時は胸が高鳴り、離れた途端に涙が出るほど恋しく、食欲もなくなってしまう。こんなに好きになっては離れるなんて無理だった。私は懸命に嫉妬も恋心も顔に出さないよう演じ続けるしかなかった。

 一方で近くにいるうちにいつか特別な存在になれるかもという期待を捨てられず、肌や体型管理を欠かさず、私の家で会う時には好みに合う料理を作ったり、居心地がいい部屋になるよう隅々まで掃除をしたり、さりげなさを装ったプレゼントを用意したりした。でもどんなに努力しても早紀さんは新しい女の子と出会いを求めたし、お気に入りの子ができるとしばらく連絡が途絶えた。そのたび、砂を噛むような思いをしながら、同じように別に会う人がいるように振る舞い、ひとりでひたすら耐えた。

 好きになればなるほど辛くなる。このまま連絡が途切れたら別れられるのに、そのほうが楽なのに。今度こそ別れる。そしてちゃんと私だけを好きになってくれる人と付き合う。――そう思う頃に早紀さんから久しぶりに会わない? なんて連絡が来ると、喜びをひた隠しにしながら飛ぶように彼女の元へ行ってしまうのだった。


 そんな途切れ途切れの関係が二年続き――他に会う子たちの顔ぶれが二回りほど変わっても私だけは早紀さんと会い続けていることに気づき、少し自信を持った頃――「彼女」が現れた。

 ずっと早紀さんの心の奥の奥に潜んでいた初恋の彼女、なつみさんが。


 再会のきっかけは高校時代の友だちが自分の結婚式に早紀さんを呼ぼうと探したことだった。グループ内の別の友だちと同じ部に異動してきた先輩が、偶然にも大学時代に早紀さんをかわいがった先輩とSNSで交流があり、早紀さんに繋がったらしい。早紀さんは二つ返事で結婚式への出席を決めた。なつみさんもまた出席すると知ったからだ。

 私はその偶然をひどく恨み、長年音信不通だったにもかかわらずまだ切れていなかった早紀さんとなつみさんの縁の深さに震えた。自信など持った自分の思い上がりに、早紀さんに忘れられない存在がいることにも気づかなかった浅はかさに失望した。

 なつみさんたちと繋がった早紀さんはしばらくうきうきした様子だった。私が一度も他の女の子たちへの嫉妬を表に出さなかったので気を許していたのだろう、自ら初恋の思い出を話し、私は何も感じていない顔をしながら聞いた。


 公立の女子高校に入学して間もなく、同じクラスでいつも行動を共にする五人グループができた。そのうちのひとり、長い髪をポニーテールにしたテニス部のなつみさんのことを好きになった。グループにはなつみさんに片思いする同じテニス部の友だちがいたけれど、なつみさんは早紀さんを選び、その友だちのことは振ってくれた。初めての恋人。ふたりは互いに夢中になった。親に内緒で東京に遊びに行き、それが両親にバレて散々怒られたこともある。何かを感じた親の勧めで進路を変え、東京の大学に入学した早紀さんに対し、予定通り地元の大学へ進学したなつみさんは少しずつ距離を取り始め、まもなく連絡を絶たれた。同時期に早紀さんの父が九州へ転勤となり、その地との縁も切れた。

 

「はっきり、嫌いになった、別れたいって言ってくれたらまだすっきりできたのに、何も言われずにただ音信不通になったから変に引きずったみたい」

「それはそうですね」

「一対一で付き合って、どんなに好きでいてもだんだんとどっちかの気持ちが冷めてバランスが悪くなっていくものでしょう。それなら互いを縛らずにその時々で会いたい人と楽しく遊べたほうがいいと思うようになった」


 他人事のように言う早紀さんだけれど、なつみさんがしたことと同じようなことを私にしているのではないだろうか。新しい蝶を見つけたら私の前から前触れもなく消え、やがて飽きたら戻ってくる。私を選んでいるわけではない。嫉妬しないから、うるさいことを言わないから、都合がいいから、独り寝が寂しいから。いくつかある理由のひとつひとつは泡のように儚く、ひとつでも私が破ればすぐに放り出されてしまうだろう。

 きっと他の蝶たちは、不特定多数のひとりとして扱われるのは嫌だ、自分だけを見てくれと真っ向から訴え、結果として早紀さんから捨てられたのだろう。けれども、今の私とどちらがましだろうか。私の最奥まで貫きながらも彼女の目は私など見ていない。遠い時間、遠い場所にいるなつみさんの面影だけを追っているのだ。そんな早紀さんを愛していないふりをしながら愛している私は最も空虚だ。

 なつみさんと早紀さんが再会をきっかけにまた付き合う可能性は大いにあった。そう、いくら努力しても私では最初から無理だったのだ。早紀さんはたったひとり、なつみさんだけのために特別な椅子を空けていたのだから。こんな何も生み出さない関係もとうとう終わりを迎える時が来たのだ。それならば、いっそ自分から去った方がいい。そう思っても、口を開けば止めどなく愛と恨みがこぼれてしまいそうで、私はただの友人のような顔をして早紀さんの話を聞くしかなかった。


 しかしそんな頃だった、早紀さんがうなされるようになったのは。

 達すると私はいつもそのまま気を失うように眠りに落ちるけれど、ふと真夜中に物音を感じて目を覚ますと、横で眠る早紀さんが顔をゆがめ、苦しげにうめいていた。

 驚いて飛び起きた私はすぐに早紀さんを起こそうとしたけれど、その形のいい唇から「な……み」と聞こえた時、手が止まってしまった。

 ――なつみさんを呼んでいる。彼女の夢を見て、苦しんでいる。

 ずっと忘れられなかった人とようやく再会できるのに、代わりに苦しむようになったのは皮肉だった。深層心理でまた振られるかもと怯えているのだろうか。

 かわいそうにとも思ったけれど、どこかほっとしている自分もいた。その苦しみは――私を捨てようとする罰なのだと。私だって恋しくても愛されない苦しみに何年も苛まれているのに、あなたが私にかけた枷のせいで何も感じていないふりをしなくてはならないのだから。

 早紀さんだって苦しめばいい、そう思ってもやっぱり私は早紀さんを好きだった。関係が深まるほどにどうしようもなく好きになっていった。だから私はうなされる早紀さんに手を伸ばした。

 私がなつみさんになってあげる。演じることなんていつものことだもの。

 左手を握り、右手で優しく頬や額を撫でる。いつもの私の声で大丈夫よと何度か囁いても、早紀さんの眉間の皺は深まるばかりだった。なつみさんはどんな声だったのだろう。低めの声でゆっくり囁くと、強ばった表情が少し和らいだ。そのトーンで私は囁き続けた。大丈夫、私はここにいるから。安心して、もうどこにも行かないから。

 早紀さんが私の手をぎゅっと握る。

「大好きよ、早紀」

「わ……も」

 私も。そう呟くと、早紀さんは安心したように脱力し、落ち着いた寝息をたて始めた。


 なつみさんを演じた私の手と声が、早紀さんを落ち着かせた。

 早紀さん。今のは、なつみさんじゃないよ。私の手と声だよ。でも早紀さんが気づくことはないんだね。たとえ気づいても、私が演じてきた嘘が明らかになって、重たい女だと遠ざけるんでしょうね。ううん、どちらにせよ、なつみさんと再会したら私なんて綺麗さっぱり忘れるんでしょう?

 ――私はどうしたらいいの。涙が溢れてきて、声を殺して泣いた。


 早紀さんが結婚式へ出発する前夜。私はなかば強引に早紀さんの家に行ったけれど、彼女もまた緊張で落ち着かなかったらしく、話し相手にいいわと言って受け入れてくれた。もちろん話すだけでは終わらない。今でも忘れられない人に会う前日に別の女を抱くなんてどういう神経なんだろう、そう思っても、これが最後かもしれないと思うと私は夢中になっていた。

 そのまま眠ってしまい、ふと目覚めると早紀さんは私に白い背中を向けてスマホをいじっていた。

「……ん、早紀さん起きていたの? 元カノ?」

 私は決してなつみさんの名前は口に出さない。

「ごめん、起こしちゃった?」

 早紀さんが私に向き直り、トーク画面を見せてくる。思った通り、なつみさんを含めたグループトークだった。一対一ではやりとりをしていないと言っているけれど、本当だろうか。でももう明日ふたりは再会するのだから、どうでもよかった。早紀さんは結婚式後に一泊するのだ。日帰りできる時間帯にも関わらず。

「なんで今日移動しなかったんですか?  そしたら元カノさんともゆっくり会えたでしょうに」

「そうなんだけど、結婚式前に二人で会おうとか言えなかった」

「いつも強気の早紀さんが弱気になるなんて、よほど好きだったんですね」

「うん、まあ。振られた身としては、どう接したらいいのかわかんない」

「でも結婚式の後なら誘えるかもって下心でホテル予約しているんですね」

 早紀さんはいささかむっとしたようだった。

「そこまで狙ってないよ、かえでが一泊取ってくれるって言うから」

「はいはい。うまくいくといいですね」

 そして私とも終わるんですね、と言いかけてまた私は口をつぐむ。

 その代わり、何か考え事をしている早紀さんの耳たぶを軽く噛み、舌を耳孔に差し込んだ。早紀さんは耳が弱い。どこが良くてどこが弱いか、もう身体の隅々までわかっているのに、結局私のものにならなかった人。でも今は、今だけは私だけを見て欲しかった。

「せっかく二人で起きたんだし、もう一度しよ?」

 気だるげに私を見る早紀さんの目が濡れてくる。その唇を唇で塞いだ。



 翌朝、空港へ向かう早紀さんを駅の改札で見送った。それで終わり、のはずだった。

 ずっと早紀さんと途切れ途切れの関係を続けていたせいで、私は恋の終わらせ方を忘れてしまった。どんな関係だって、始めるより終わらせるほうが難しいというのに。

 早紀さんは今後どうするとも何も言わなかったし、私も何も聞かず、言わなかった。ただ、好き、早くまた会いたい、という気持ちが瑞々しく私に残っていた。このままでは再び早紀さんからの連絡を待ち続けてしまう。早紀さんは今日、なつみさんと再会して私のことなど忘れるのに。

 どうしたら私は早紀さんを諦められるだろうか。どうしたら早紀さんを忘れられるだろうか。どうしたら早紀さんへの溺れそうな思いから抜け出せる?

 恐ろしく長い一日が過ぎ、夜、今頃なつみさんとふたりでいるかも知れない、と思いながらメッセージを送った。

〈元カノとうまくいきましたか? 素敵な夜を過ごしてくださいね〉

 しばらくして既読になったけれど、予想通り返信はなかった。


「最後くらい、今までありがとうとか、もう会えないけれど元気でねとか言えないの? どこまで自分勝手なの? 用なしになったらただ連絡無くなるだけじゃ、こっちが引きずっちゃうでしょ。それって元カノのやり方と全く同じじゃない」

 ブツブツ呟きながら部屋を歩き回った。

「私は、元カノを引きずり続けてまともな恋愛ができなくなった早紀さんみたいにはなりたくない。いい人と出会ってちゃんとした恋をする。だから嫌いにならせてよ」

 返信のないトーク画面を閉じた私が開いたのは――航空券の購入サイトだった。

「ちゃんと私を振ってよ。何が決まった関係は面倒だから、よ。ただ単に元カノが未だに好きだってことでしょ。それなら幸せになったところを私に見せなさいよ。それがせめてもの優しさでしょう。私の気持ちをなんだと思ってるの。さんざん好きにさせたのはそっちのくせに」

 出発時刻を調べると、朝一番の便に乗れば早紀さんの泊まるホテルのチェックアウト時間に間に合いそうだった。こんなの馬鹿げてる、高いお金払ってわざわざ失恋の刻印を自分に刻みつけに行くなんて、自傷行為もいいところだ。でもそうでもしなければ私のこの二年間で募りに募った思いの行き場所がなかった。私は泣きながら決済した。


 

 翌朝9時少し前、私はホテル前に到着した。

 朝5時に起きて7時半の便に乗り、空港からバスで市街地まで出ると、早紀さんから聞いていたホテルはすぐに見つかった。怒りと勢いを抱えたままやってきたけれど、いざロビーに入ると足が震えた。早紀さんは休みの日には朝寝坊する人だったから、チェックアウトはギリギリになるだろう。なつみさんの顔は知らない。早紀さんは彼女の思い出の写真は全て捨てていたし、グループトークで写真がやり取りされることもなかったからだ。早紀さんが忘れられなかったのはどんな女性なのかずっと想像してきたけれど、初めて目にするのが早紀さんと一夜を共にした顔だなんて。何か言ってやりたいと思いながら来たけれど、ロビーを行き交う人の顔を緊張しながら見ているうちにそんな気持ちはすっかり萎み、エレベーターがかろうじて見える所にあるソファに座りこんだ。何か話しかけるなんて無理だった。気づかれないでいい、影からこっそり確認できたらそれでいい。私が現実を受け入れるために必要なのだから。それにたぶん、ふたりを前にしたら私は何も言えずにただ泣くしかできないだろう。幸せになった彼女たちに同情されるのは心底嫌だった。

 だから、まもなく10時になろうという時に疲れた表情の早紀さんがひとりでエレベーターから出てきた姿を見た時は、呆然とした。

 どういうこと? ひとりだったの? それとも先になつみさんが出て行った? でも、早紀さんの顔色は悪く、幸せな様子ではなかった。それなら、なぜ私のメッセージは無視したの? 結局、私のことは切り捨てるの?

 矢継ぎ早に出てくる疑問符に自ら打ちのめされそうになりながら、歩いてくる早紀さんを見ていると視線を感じたのか彼女も私に気づき、えっ、と驚いて立ち止まった。なんで? とその口が言っている。

 それは私が聞きたかった、なんでひとりなの? なんで幸せそうじゃないの?

 私は弾かれたように立ち上がると彼女の前に近づいた。もうどうにでもなれ、という気持ちで。

「な、なんでここにいるの」

 早紀さんの目がひるんでいる。そりゃそうだろう、ただ寝るだけの関係の女が前触れもなく旅行先にまで現れたら立派なストーカーだ。でも私もここで引き下がるわけにはいかなかった。どんな思いをしてここまで来たのか、どうしてここまで来なければいけなかったのかを伝える必要があった。

 ――もう演じたくない。本当の自分を見せて、終わるならそれでいい。

「早紀さんこそ、なんで一人だったのにメッセージ既読無視したんですか!?」

「なにそれ、重っ!」

 早紀さんが素っ頓狂な声を上げる。重い、そんなの自分でもわかっている。わかっていながら、今までどれだけ私がそう言われないようにしてきたか、何もわかっていないのは早紀さんだ。

「そうですよ、私は本当は重たいんですっ! 早紀さんが恋人は作らない主義だって言うから、合わせてドライなふりをしてきただけです!」

 呆気にとられた様子で早紀さんは呟いた。

「――あなたってそんなキャラだったの?」

「悪いですか? 私の本当の性格なんて知ろうともしなかったでしょ」

 声が震える。泣きたくないけれど溢れてきてしまう涙を拭っていると、慌てた様子の早紀さんが手を引いてロビーの隅のソファへ連れて行ってくれた。

「あの、つまり、真白は私のことが好きなの?」

 その言葉に、初めてふたりでバーに行った夜を思い出す。


 ――ねえ、こうやって誘ったってことは私のこと好きなの?


 あの時、早紀さんは私を試していた。私も早紀さんに選ばれようと演じた。

 でももう私は演じない。


「もともと一緒に働いていた頃から、早紀さんのことは憧れていたんです。二人で会うようになって、どんどん好きになりました。早紀さんはいろんな子と出会おうとしていたけれど、なんだかんだいっても一番側にいるのは私なんだろうと思って、私も誰かと会っているふりをして待っていました。

 でも、元カノさんが出てきてから早紀さんが変わっちゃって。もしかしたら本気で私を切って元カノさんとやり直すつもりなのかと思うと怖かった。だけどそれが早紀さんの選択なら仕方ないから、実際にふたりでいるところを見たら諦められるかもと思って今朝の飛行機で来ました。引きました? 引きましたよね」

早紀さんの顔を見ないようにして一気に言うと、早紀さんの手が、膝の上で握りしめたままの私の手にそっと重なり、慈しむように包んだ。

「引かないよ。何なら嬉しいくらい。だって私、本当は好きになったらかなり重い女だもの。重いほど好きになって毎回振られてきたから、誰のことも好きにならないように決まった相手を作らなかっただけ。私が全力で好きになったら、むしろ真白が引くかも知れないよ」

「引きません! もう二年近く早紀さんのこと好きなんですよ、私」

 反射神経のようにそう言って、あれ? と思う。今早紀さんはなんて言ったの? 私の気持ちが嬉しいと言った?

 早紀さんは瞳を少し潤ませながらも微笑んでいる。

「私、もう振られたくないの。ずっと私と一緒にいてくれる?」

「だから、それが私の望みなんです――って、あれ?」

 言葉に理解が追いつかないでいると、早紀さんがふっと近づくと共に、頬に柔らかく温かいものが触れた。キスだ。こんなキスをされたのは初めてだった。顔に血が上る。私と一緒にいてくれる? って、それってまるで……

「私も真白が好きってこと。覚悟してよ、私の愛は重たいよ」

 考えるより先に抱きついていた。早紀さんもぎゅっと私を抱き締めてくれる。

「元カノは……もう、いいんですか?」

「実際に会ってみて、私たちに残っているのは初恋の呪縛だとわかった。きちんと友だちになってお互い自由になろうって話したの。今の私は真白が好き。でも今度は真白に依存してしまったら振られるんじゃないかと怖くて、返信しなかったの。心配させてごめん」

「……早紀さんのバカ」

「なつみがね、ドライな関係を演じるなんて私らしくないって。私らしさをそのまま受け止めてくれる人と幸せになってねって言ってたよ」

「早紀さんも演じてきたんですね」

「そう。でももうそんなの終わり。素の真白も見せてね」

 立ち上がった早紀さんが私に手を差し伸べた。

「おいで。チェックアウトしたら私の故郷を案内してあげる」

 私は頷き、愛しい人の手を強く、しっかりと握った。

                  終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私の手も声も おおきたつぐみ @okitatsugumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ