マリアの心中

マリアの心中

美しい緑の丘と瀬戸内海の穏やかな海を背景に、自分――サイトウ・Tは大きなため息をついて重い口を開いた。

「‘本土’に行きましょう先輩。……いえ、正確には先輩とその実験しているオランウータンとです」

 先輩――タナカ・Mの手には、小さな雌のオランウータンが抱かれていた。

「まあ、君がそう言ってくるだろうとは思っていたよ」

 タナカは整った顔をくしゃっと苦笑させた。オランウータンは賢そうな目をぱちくりとさせていた。


***


 かつて本州の霊長類研究センターでタナカは優秀な研究者だったが、今は裕福な資産を使い、この瀬戸内海の小島でひっそりと研究を行っていた。同じ研究センターにいた後輩のサイトウは表向き休暇と称して訪問していたのである。

「先輩、そんなのんびりと言わないでくださいよ。あなたには――いえ、あなたとそのオランウータンには嫌疑がかかっているのですよ⁈」

「この子はマリアっていうんだ。ほらマリア、ご挨拶なさい」

 小さなオランウータンはタナカから渡されたタブレットを使い、〈こんにちは〉と打ち込んでサイトウに見せた。

「噂通りですね……」

 サイトウは苦々しく言った。

「どういう噂なんだい」

「あなたが――いえ、その、マリアが帝国総司令官を殺害した噂です」

二人と一頭の間に生暖かい風が吹いた。

「言いがかりだろう」

「いえ、先輩。あなたは厳重にデータを破棄していましたが、あろうことかこんなアナログな失態をしていたのです」

 サイトウはポケットから小さな黒い手帳を出した。中身も黒い紙で、文字などはまったく見えない。不自然に波打ってボロボロであり、すぐにでも捨てられそうである。

「先輩の机の奥底から出てきました。で、これは水に漬けると文字が浮かび上がる紙です」

 無造作に足元の水たまりに落とすと、紙に細かい文字と数字がびっしり浮かび上がってきた。

「解読してみると、帝國総司令部のマザーコンピューターのパスワードでした。よくもまあこんなにめんどうくさい暗号を作りましたね?」

「楽しかっただろ?」

「ふざけないでください!」

 サイトウは水たまりを勢いよく蹴った。水が跳ねてマリアにかかり、少し怯えた声を出した。

「で、そのマザーコンピューターが不自然にいじられた跡があったので辿ってみると、なんとニッポン産遺伝子組み換えオランウータン021……マリアに繋がっているではありませんか」

 タナカは続きを、というように目で促した。

「マリアは毒物耐性の実験をしていました。研究データを確認すると実に様々な毒物を飲み込み、溜め込んでいます。体内で新種の毒を生成していることも……そして先日、帝国総司令官が変死しました。解剖と検死の結果、未知の毒物が検出されました……それは、マリアが体から作ったものと同種だったのです」

「ふむ、よくわかったねえ」

 サイトウは感情をぐっと抑えた。

「当日のマリアの行動履歴と総司令官の接触はありません。……しかし、マザーコンピューターと毒物のリンクがわかった以上、先輩とマリアを本土に送らねばいけません」

「だって。どうする?」

 マリアは〈仕方がない〉と二人に見せた。

「じゃあそうするか」

「……いいんですか」

 サイトウは信じられないという目をした。

「だって、もう船は待っているんだろう?」

 タナカの背後からボオー……という汽笛の音が聞こえてきた。

「待たせちゃあ悪いからな」

 サイトウはタナカの肩をぽん、と優しく叩き、マリアを優しく抱っこしてスタスタと浜に降りて行った。


***


 浜へ着くと伝馬船から屈強な帝国軍人が数人降り、サイトウめがけて接近した。

「あなたがタナカ博士ですね? 皇帝からのご命令で、あなたを帝国本土へ護送するようにとのことです」

 と強面の見た目からは想像がつかないほど、意外に丁寧なニホン語で声をかけてきた。

「わかったよ。マリアもだろう?」

「はい。しかしこちらに入れていただきます」

 電波障害装置のかけられた透明な箱を兵士が差し出した。

「ごめんねマリア。ちょっと窮屈な思いをするけど」

 とタナカが小さなオランウータンを箱に入れようとした。マリアも一瞬おとなしく従って入る素振りを見せた――がその瞬間、箱を持っていた兵士が倒れた。

 バシャッ、と波打ち際に沈んだ顔は気味の悪い紫色に変わっていた。オランウータンは敏捷な動きで次々と帝国兵士たちを襲い、あっという間に首筋から血を流し、顔色を変色させて倒れた。

「マリア! なんてことを――」

 タナカが叫んだが、彼もマリアに噛みつかれ、変色し、倒れた。パクパクと声を出したが、言葉になっていなかった。マリアはくるりとサイトウに向かった。

「ヒッ……」

 この惨状を見ていたサイトウは体が動かなかった。しかしマリアはタブレットを操作して見せた。

〈タナカはイカセマセン イッショニシニマス〉

 アッ、と声を出したがもう遅かった。マリアは自分の牙を海水に浸し、ぺろりと舐めるともがき苦しんで倒れた。タナカに覆いかぶさるようにして、そのまま動かなくなった。

 サイトウはしばらく波の音を聞きながら、死体に囲まれて呆然とした。



***


 数年後、サイトウはある一体の雄のオランウータンを作り出すことに成功していた。マリアの凍結卵子から誕生したニッポン産遺伝子組み換えオランウータン166――通称ヨハンである。

 タナカの残した暗号にはマザーコンピューターのパスワードの他に、さらなる強力な能力のあるオランウータンを作り出す計画が記されていた。サイトウはその意志を受け継ぎ、マリアの子を誕生させたのである。

「〈殺戮オランウータン計画〉……帝国を壊滅せしめ、我が母国ニッポンを取り返す計画か……」

 世界統一をほぼ統一した帝国のレジスタンスとして、オランウータンを使った世界規模の戦争が開始される5年前のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マリアの心中 @kuroaka27

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ