5.
予定通り、満月の日、夕方になっていたが、ミルファたちは無事に砂漠渡りの聖地に辿り着いた。
しかし、そこには何もなかった。白い砂が視界の果てまで広がり、乾いた風が微かに吹き抜けていくだけだった。
「……あの、ミルファさん……」
橙色に萌える地平線を呆然と眺めていたミルファは、ラマダンから降りたジェーンにそう話しかけられた。
はっと我に返った彼女が振り返ると、ジェーンは不安そうな瞳でこちらを見つめている。
「場所が、間違っていたのでしょうか……?」
「――いいえ、ここで合っているわ」
「でも……」
ジェーンは下を向いたが、何が言いたいのかは分かっていた。アルベルトも、信じられないという表情で、辺りを歩き回っている。だが、彼の行為が無駄だということは、彼女自身が気付いていた。
ミルファは、出来るだけ穏やかに笑おうとした。手の先が冷たくなり、小さく震えていたけれど、それを背中に隠した。
「オアシスが枯れてしまうことは、よくあることなの。特に、人が来なくなった場所はね」
「……」
かける言葉を失ったジェーンは、ミルファから目を逸らした。その目線の先、東の紺色の空には、楕円の満月が登り始めている。
「……ミルファさんは、今日、聖地に辿り着きたいと言っていましたよね?」
「ええ」
微かに頷いたミルファを、縋るようにジェーンは射竦めた。
「何か、理由があるのですか?」
「砂漠渡りは、長月が満ちる日に聖地に行くと、決まっているの」
「それなら、夜まで待ってみません?」
思いもよらぬ提案に、ミルファは目を丸くした。
決意を固めた様子のジェーンの後ろ、ラマダンの反対側をうろついていたアルベルトも、その言葉が聞こえたようで、足を止めた。
「夜になると、何かが変わるかもしれません」
「……そうね、言い伝えには、必ず意味があるはずね。そうしましょう」
ミルファは、疲れた様子で頷いた。どのみち、日が沈むのだから、ここを野営地にしなければいけなかったという理由もあった。
ただ、ジェーンはそれには気付いていないようで、無邪気に笑っていた。
⦿
夜空には、星の光も吸い込んでしまいそうなほど、眩い満月が浮かんでいる。三十日間だけ、縦に長く歪んでいるその月を、ミルファは見上げていた。
彼女は、言い伝えで砂漠渡りの聖地がある場所に立っていた。月の下には、天幕が張られていて、その内側にはジェーンとアルベルトが座り、心配そうにミルファを眺めている。二つの天幕の間には、ラマダンがこちらを向いて座っていた。
夜が深くなっても、聖地には何も変化が無かった。白い砂の一粒一粒に、じっと目を落としていたミルファは、溜息をつく。
ずっと砂嵐の中にいるように、ミルファの心はざわついていた。そんな時はと、服の内側から取り出した首飾りの、水晶を月に翳す。
透明な水晶越しに、月の光を見つめていると、天幕の中から、「あっ」と息を呑む声が聞こえた。
ミルファが目線を下に向けると、天幕の中から、ジェーンとアルベルトが出てきていた。二人の慌てた様子につられて、ラマダンも立ち上がる。
「ミルファさん、手はそのままにして、後ろを見てください」
両手を前に出しながらジェーンがそう言ってきた。ミルファは小首を傾げつつも言われた通りに振り返り、二人と同じように息を呑んだ。
水晶が集めた月光が地面に落ちていた。それが、砂の中の何かと反射して、白い光の柱のように立ち上がっていた。
「……何かしら?」
「下に、何か埋まっているようです」
ミルファの隣まで走ってきたジェーンがそう返した。アルベルトが前に出て、光の柱の根元を掘り出す。ミルファとジェーンもそれに続いた。
後からゆっくり歩み寄ってきたラマダンが見守る中、三人が砂漠を彫ると、すぐに、石の板に行き当たった。その表面には、ミルファの首飾りに付いているような、水晶の欠片が目一杯敷き詰められている。
しばらくして、ミルファたちは一枚の石の板を掘りだした。それは、大人が数人も寝転べるほどの大きさだった。
幅の広い横は一部が窪んでおり、その中に、一本の棒状の石が入っている。これが取っ手代わりだということが分かったが、アルベルトが引っ張ってみても、持ち上げられない。
「……ちょっと待って」
ミルファは天幕の中に戻り、荷物を括り付けていた長いロープを持ってきた。その端を取っ手に括り、もう一方をラマダンの鞍に括る。
ラマダンがミルファに誘導されながら、前へ歩くと、重々しい音とともに、細かな砂を落としながら、石の板が前にズレていった。そこから覗いたのは、四角い穴と、月の灯りが届かない底まで続く石段だった。
「ミルファさん……どうしますか?」
「降りてみるわ」
不安そうに尋ねたジェーンに、ミルファは力強く返した。
三人は話し合い、ミルファとラマダンが先頭に、その後ろから松明を持ったアルベルトとジェーンが続く形で降りることになった。
ラマダンが首を下げないと進めないこと以外は、特に不便な点は無かった。横壁も、階段や入口の板と同じ石で出来ている。その荒い表面に触れながら、ミルファはそろそろと進んでいく。
階段は、地面を掘り進めていくというよりも、横に滑っていくような勾配で続いていた。月の光は届かなくなり、松明の橙の炎で足元を照らしていると、それとは違う光が、下の方に見えてきた。
階段の終わり、その先には、四角い横穴が開いていた。白い光は、そこから零れ落ちている。
ミルファは、生唾を飲み込んだ。この先に、追い求め続けた砂漠渡り達の聖地がある。彼女を落ち着かせるように、頬へ擦り寄ったラマダンを撫で、後ろで控える硬い表情のジェーンとアルベルトに目配せをして、ミルファは穴を潜り抜けた。
そこは、三階建ての建物くらいの高さのある、広い空間だった。地面は、現在彼女たちの立っている出入り口の石以外は、ミルファが見たことのない緑の短い植物で覆いつくされていて、天井は、地面のと同じ植物が淡く発光している。
空洞の真ん中には、透明の水晶が数本、突き刺さるような形で鎮座していた。その前には、石棺が置かれている。
真ん中へ行こうと、植物の上に一歩足を乗せたミルファは、靴を通して伝わった冷たい水の感覚に驚いて足を戻した。
その様子を見ていたアルベルトが、ラマダンの隣に来て、その植物をそっと押してみる。じわっと水が浮かび上がってきた。
「どこから水が湧いていて、地面を湿らせているから、苔が生えているようですね」
「これ、苔って言うのね。上に生えているのもそう?」
「ええ。光る種類もありますよ」
北の大陸にある苔について、アルベルトは教えてくれた。その間、ミルファと同じようにジェーンも感心した様子で聞いていた。
三人は、靴と靴下を脱いで石の上に置き、ラマダンと共に苔の上に降り立った。冷たい水が素足に流れていく感覚に慣れないと思いながら、ミルファは水晶と石棺の元へ向かう。
一番大きな水晶は、ラマダンも見上げるほどの高さだった。一方で、ミルファやジェーンの掌に載るほど小さいものがある。小さい方は、何かで削った跡が見えて、ミルファは自分の首飾りの水晶がここ由来であることを察した。
その前に置かれた石棺へ、ミルファは目を落とす。蓋の一箇所だけ、除き穴のように長方形の穴が開いていた。
ミルファは、自身の背嚢から、簡単に曲げられた羊皮紙を取り出した。それを開くと、白い髪が一束入っていた。
隣にいたジェーンは、それとミルファの顔を不思議そうに見比べていた。
「ミルファさん、それは?」
「半年前に亡くなった、おじいちゃんの遺髪なの」
遺髪を手に取ったミルファは、それを、棺の蓋の穴に落とした。そして、両手を重ねて、目を閉じる。
ジェーンとアルベルトはミルファの行為に戸惑いながらも、両手を組んで、目を閉じた。
「汝、砂漠を渡る風と共に、我らを見守りたもれ」
祈りの文言を告げると、ミルファは目を開けた。
まだ神妙な面持ちをしている彼女に、ジェーンはおずおずと話しかける。
「あの、この棺は、ミルファさんたちの一族のお墓なんでしょうか?」
「ある意味、そうね。昔、砂漠渡り達は定住せずに、砂漠中を旅して回っていた。その旅路の途中で、誰かが亡くなっても、砂漠に埋葬するしかなかったの。代わりに、遺髪だけ持って、この聖地に弔っていた……そう、おじいちゃんから聞いたわ」
ミルファは、後ろを振り返る。オアシスでも見たことのない濃い緑が、地面いっぱいに広がっている。天井の苔の光を受けて、透明な水も静かに輝いている。
ラマダンは、手綱が伸び切る先まで離れ、首を下げて水を飲んでいる。尻尾がゆったりと左右に揺れているので、この場所に安心しているだろうとミルファは思った。
「……病床のおじいちゃんは、聖地のことをよく話していた。明言はしていなかったけれど、自分も、家族と同じ場所で眠りたいと願っていたと思う」
「おじいさま、お礼を言っていると思いますよ」
「うん。ありがとう」
ジェーンの穏やかな言葉を聴いて、ミルファも微笑みながら頷き返した。
⦿
「ここまで付き合ってもらって、ありがとう。色々振り回しちゃったね」
「いいんですよ。私達も、素敵な光景が見れましたから」
聖地と地上を繋ぐ階段を上がりながら、ミルファはふと後ろを振り返り、改めてジェーンとアルベルトに礼を言った。隣では、ラマダンがこつこつと石段の上に蹄の足音を鳴らす。
ジェーンは笑いながらそう言い切ってくれて、アルベルトも、真剣な顔で頷き返した。
「そう言えば、あなたたちの目的地は訊いていなかったわね?」
「あ……私たち、とくに行きたい場所があったわけじゃないんです。遭難した形なので……」
急に、ジェーンは気まずそうに、目を逸らした。嘘をつかなければならいというのを、心苦しく思っているのは、表情だけでも伝わってきた。
遭難したというのなら、地図を持っていなかった理由も分かる。しかし、ここの言葉が完璧なのは、どうしてなのだろうか? ミルファは疑問を抱いて、内心首を傾げていたが、それを尋ねることはしなかった。
三日間を共に過ごし、ジェーンとも、言葉数は少ないがアルベルトとの間に、絆が生まれていた。ただ、卵の殻のように、薄いが頑丈な壁が、自分との間に残っているとミルファは感じている。
それを無理に壊さなくてもいいと、ミルファは考えていた。きっと、言葉では説明できない事情が二人の間にはあるのだろう。だからこそ、自分はそこに立ち入り、無理に引っ掻き回すべきではないと分かっていた。
ミルファは、階段を上りながら、金の腕輪に目を落とした。ジェーンを信用しているから、もうこれは返してもいいのだが、彼女の誓いを無下にできないので、このまま持っていようと思った。
そうこうしている間に、聖地の出入り口の穴を潜り抜けた。先程よりも、高い位置に登った長月が、静かにこちらを見下ろしている。
「今夜は休みましょう。明日、ここから一番近い街まで、あなたたちを送るわ」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
振り返ってそう言うと、ジェーンは嬉しそうにそう返してくれた。アルベルトも、顔を綻ばせて、頭を下げる。
自然と、三人は横並びになって、穴を背にして立っていた。白い砂が寂寞と地平線まで続いている。あの長月が無かったら、不安に押し潰されそうな景色だと、ミルファは思った。
ラマダンが、小さく「ブルルン」と鳴き、ミルファに擦り寄る。
「眠たいのね。あともう一仕事、やってくれる?」
聖地の出入り口を、ラマダンの力で閉めてもらわないといけない。それを告げると、ラマダンは不承不承ながらも、尻尾を振って応えてくれた。
ジェーンも、「今日は大変だったね」と言いながら、ラマダンの首を撫でる。アルベルトは始めて、恐る恐るながら、ラマダンの胴にそっと触れた。
穏やかな夜風が後ろから、三人と一頭を包み込むように吹き抜けていった。
砂漠渡りと長月 夢月七海 @yumetuki-773
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
箇条書き日記/夢月七海
★31 エッセイ・ノンフィクション 連載中 1,665話
ぐうたら旅行記・仙台編/夢月七海
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 2話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます