第5話 生きる意味について
ゆっくりと、確実に、死が訪れるこの感覚。
お腹が空いていた時とはまた違った苦しみ。
心労がかさむ。
何より、めちゃくちゃ怖いのである。
これにはあの先輩犬も参ったらしい。以前よりも精神的にすさんでいるように見受けられる。人が入ってくるとよく吠えた。
末っ子犬はいつも檻の隅っこで丸まって、怯えている。
私は、恐怖に打ち震えながらも、何とか凛とした態度を取り続けようと試行錯誤している。
何故、そんなことを。
どうして、最後まで尊厳ある態度を貫こうとする。
どうせ、近いうちに死ぬのに。
……「力への意志」という言葉を思い出していた。
存在することへの意志こそがそのものを存在せしめているという視点。
ニーチェが提唱したテーマだ。
存在。存在……。
ニーチェはこう言った。
なぜ生きるかを知っているものは、ほとんど如何なる「どう生きるか」という問題に耐えうると。
より幸福になろうとする「力への意志」こそが人生において重要なのだ。
弱者であってはいけない。人生はつらく苦しく無意味に思えるものだが、それを受け入れた上でなおも幸福を追求するような強き心を持て。
そう……どうせ死ぬとか、そういうことは問題ではない。人生はずっと私の前に存在し続けている。
ニーチェに影響を受けたフランクルはこう言った。
我々が人生からまだ何を期待できるかが問題なのではなく、人生が我々に対して何を期待しているかが問題なのだと。我々が人生の意味を問うのではなく、人生が我々に対し常に意味を問いかけているのだと。
人生は最後の時まで私に問いかけ続ける。お前はこの人生をどう生きるのかと。私は答える。最後まで堂々と生きる。決してくじけたりしない。
私は考え続ける。そして立派な「私」として最後まで生きる。それが私の生きる理由であり、意味だ。
近づきつつある死を静かに受け止めながらも、希望を捨てることなく前を向いて生きていこう。
私は一日一日を丁寧に生きた。エサを食べ、尻尾を振り、他の犬の匂いをかぎ、よく眠った。
死が怖くないわけではない。ただ粛々と受け入れるしかないのだ。だから、怖くても、精一杯生きることに集中したい。
この小さな狭い殺風景な檻の世界の中でも、私にはできることがある。
少しでも哲学を学んでいて本当に良かったと心底思った。
お陰でこうして立派な人間として人生を謳歌できた。
強くあることができた。
哲学は自分が何者かを教えてくれるし、生きる術も教えてくれるのだ。
ある日、また部屋に保健所の職員が入ってきた。今はエサの時間ではないから、また一匹、仲間が死ぬのだろう。犬たちは不安がってキャンキャン悲鳴を上げた。
ああ、今回は、誰だろうか。
……と思っていたら、何と人間の手で、私の檻が開けられた。──私の檻が!
「ワオン!?」
私はおどろいて鳴き声を上げた。
順番が違う。まだ私の番ではない。
私はなるべく尻込みして、人間から逃れようとした。
だが、人間は有無を言わせず力尽くで私を引っ張り出してしまった。
私は動揺していたが、なるべくキリッとした顔をしてみせた。
運命などに、私を挫けさせることはできない。
私の、最期まで強くあろうとする意志が、砕けることはない。
かかってこい。
私は立派に生きてみせるぞ。
……建物の外に出された。
そこで待っていたのは、ラフな格好をした、ひとのよさそうな人間だった。
「こんにちは、仔犬くん」
人間は言った。
「大変だったね。もう大丈夫だからね」
私はぽかんとし、それから、徐々に、奇跡が起きたことを理解した。
私は殺されるのではない。
この優しい人間が、私を引き取りに来てくれたのだ。
私は恐る恐る、人間の方へ歩み寄った。
「あれ! 意外と人懐こいな。もっと拒絶されるかと思ったのに」
普通の犬なら人間不信に陥ってもおかしくない境遇だが、私はもと人間なので話が違うのだ。
私は尻尾を振って人間を見上げた。
「可愛いサモエドですね」
人間は、保健所の職員と何か喋っている。
私は、親兄弟が心配になって、後ろを振り返った。
彼らとは離れ離れになってしまうのだろうか。
私だけ助かって、彼らはこのまま殺されてしまうのだろうか。
私の意図を察したのか、人間は「大丈夫だよ」と言った。
「君の仲間も、僕の友人たちが手分けして引き取るからね。心配はいらないよ」
私は目を輝かせて、ぴょんぴょんと人間の膝にとびついた。人間は「ははっ」と笑った。
「おかしいな、この子は。言葉が分かるみたいだ。名前は……そうだな、モフオにしよう。モフオ、お前は賢いな」
「ワフ! ワフ!」
私は狂喜乱舞してぐるぐると駆け回る。
これからの生活はきっと、悪徳ブリーダーのもとでの生活よりも、保健所での生活よりも、ぐっとよくなるのだと、そんな確信めいた予感がして、胸が躍った。
この優しい人間は、他にも何匹かの仲間を施設から連れてきた。中には先輩犬と末っ子犬もいた。
私たちは車に乗せられて、新天地へと旅立った。末っ子犬は不安そうに震えていたので、私は大丈夫だということを伝えるため、母親の代わりに背中をなめてやった。
こうして私の本当の犬生が始まったのだった。
──おわり
転生哲犬~人間は考える葦だと言われているが、そのことについて考える私が犬に転生してしまった件について;私の本質は犬なのか、それとも人間なのか~ 白里りこ @Tomaten
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