ある殺戮オランウータンの犯行
南北東西瓜
ある殺戮オランウータンの犯行
◇ある少年の記憶
犬が鳴いている。アレは僕が可愛がっていたポチだ。
いつもの甘える様な愛らしい泣き声ではなく、キャウンキャウンと悲痛な鳴き声を上げている。
人型の何かがポチを首を絞めている。
人間ではない、あんなものが人間でいい筈がない。
悪い大人の命令を受けて、人型の何かが僕のポチを絞め殺している。
アレはなんだ。いや、僕は知っている。
僕の記憶の中の、最近読んだ小説の一枚の挿絵を元にその人型の姿が明瞭になっていく。
アレはオランウータンだ。殺戮オランウータンだ。
殺戮オランウータンの腕の中でポチが泡を吹いて動かなくなった。悪い大人たちが良くやったと殺戮オランウータンを褒めている。
殺戮オランウータンがポチを殺しているのを、僕は泣きながら見ている事しかできなかった。
◇ある青年の述懐
真っ暗な室内にポツンと鉄で出来た檻がある。
鉄格子の奥でギラリと光る二つの瞳は、狂気を伴った殺意の色をしていた。
ぎし、と床を軋ませながら一歩踏み出す。
檻の方からは、ひた、と平たい何かが金属の板に触れた音と、僕の方に一歩ぶん何かが近づいた気配。
ごくりと喉が鳴る。この部屋は熱くも冷たくもない筈なのに、喉はひりつくようにカラカラだ。
理性がこれ以上は進むなと警鐘を鳴らす。
そう、まだ引き返せる。
一時の気の迷いだ。
アレを解き放てば僕はもう終わりだ。
今まで何とかやってこれたじゃないか。
そう呼びかけているのに、僕の足は止まってくれない。
ぎし、一歩だけ前へ向かう音がする。
ひた、一歩だけ前へ向かって来る音がする。
ぎし、ぎし、ぎし、ぎし、ぎし。
ひた、ひた、ひた、ひた、ひた。
鉄の檻と僕の距離が、檻の中のアレと僕の距離がみるみるウチに縮まっていく。
ガチガチと硬いものがぶつかり合う音が口の中から僕の頭蓋骨を伝って聞こえてくる。
恐怖の感情が僕の歯を震えさせて打ち合い擦れ合っているのだ。
ああ、だというのに僕の足は止まる気配を見せてくれない。
止まれ。
止まれ。止まれ。
止まれ。止まれ。止まれ。
止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ。
お願いだから、止まってくれ。
涙ながらに懇願したって、それは所詮は無駄な足掻きに過ぎなくて。
抵抗も空しくとうとう僕は檻の前にまで来てしまった。
息が詰まり、荒くなる呼吸。
規則的かつ等間隔に設置されている鉄と鉄の隙間から、子供の頃の記憶と全く変わらないオランウータンが僕を見つめている。
ヌッと赤い毛に覆われた二本の腕が伸び鉄檻の柱を掴む。
睨みあげる様な視線が見下ろす僕の視線とぶつかった。
ガタガタとオランウータンが檻を揺らす。
人語を介せない赤毛の怪物が視線だけで『開けろ』と僕を強請る。
こいつを檻から出したらどうなるか。フラッシュバックしたのはこいつがポチを殺したあの光景だ。
僕は理解してしまっている、殺戮オランウータンが自由になれば始まるのは止める者なき殺戮である。
だから、僕はこいつを檻から出す訳にはいかないのだ。
ああ、だというのに震える僕の腕が次第に殺戮オランウータンを封じ込めていた檻の錠前へと伸びていく。
急かす様に殺戮オランウータンが檻を動かす勢いが激しくなった。
もう駄目だ、止められない。僕はもう限界だったのだ。
ガチャリと何かが開いた音、続いてカランと乾いた金属音がして解錠された錠前が床に落ちて転がる。
重く軋んだ音を響かせながら檻が開いていく。
闇の中から素早く伸びた赤く長い腕が、伸びて開かれた五本の指が、僕の頭をむんずと掴んだ。
僕を掴む指の隙間から見えるのは、嘲る様な殺戮オランウータンの歪んだ笑顔。
悲鳴をあげる暇すらなく僕の体は檻の中へと引っ張り込まれ、そこで意識は暗転した。
◇ある刑事達の後日談
「こんな事件もあるもんなんスね」
取調を終えた二人の刑事が待合室で一息ついている。
先程まで行っていた奇妙な事件の取調を終え、若々しい容貌の刑事が苦い感情の混じったなんとも言えない表情で壮年の刑事に話かけた。
彼らの受け持った事件のあらましはこうだ。
ある資産家の家で殺人事件が発生した。
犯人はその資産家の跡取りである一人息子の青年。被害者はそれ以外の家人全員。
たった一晩のウチに家にいた5人を青年は素手で惨殺したのだという。
5人の家族を殺害した青年は血塗れの姿のまま警察に通報し、駆けつけた警官によって逮捕された。
事情を聞いた警官に青年はポツリとこう答えた。
『殺戮オランウータンが皆を殺した』と。
「……アメリカの方でも似たような事件はあったろ。あっちは強姦事件だが」
「そうは言ってもあっちの事件、23人はいても動物は一匹も混じってなかったじゃないスか」
取調の結果、一つの事実が判明した。
青年は解離性同一症、いわゆる多重人格であったということである。
彼のいう殺戮オランウータンというのは分裂した彼の人格であったのだ。
事の始まりは彼の幼少期にある。
厳格で抑圧的な両親に黙ってこっそりと捨て犬を拾い育てていた彼だったが、それがある日、両親に露見した。
この時に両親が取った常軌を逸した行動が今回の悲劇へと繋がったのだ。
自分達に隠し事をし反抗的な態度を取った息子への懲罰として両親はその捨て犬を息子の手で殺す様に強制したのだ。
彼は逆らうだけの自立性も性根の強さもなく、涙ながらに可愛がっていた犬を殺さざるを得なかった。
そこで彼の精神は分裂した。親の言いなりのままに愛犬を自らの手で殺す自分を自分自身と認めることが出来なかったのだ。
そしてその人格は少年の知識から導き出された『殺戮を行うオランウータン』というテクスチャを纏う事で殺戮オランウータンという自己の存在を確立してしまった、という経緯である。
「人間、何があるかは分からねえってことさ。ちょっと道を捻じ曲げられりゃ猿の人格……人格? まあ人格でいいいか。それが生まれることだってあるだろうよ」
「そんなもんスか?」
「そんなもんなんだよ、こんな仕事してりゃそんな事件は山ほど見る事になる」
壮年の刑事が腰かけていた椅子からゆっくりと立ち上がり缶コーヒーをゴミ箱に捨てる。
それに続く様に若手の刑事も飲み干した缶を捨てた。休憩はそろそろ終わりということらしい。
「そういや彼の証言が本当なら、あの殺戮オランウータン?っていうの、まだ人格として残ってるってことなんスよね」
「まあ、そうなるな」
「大丈夫なんスかね、また目覚めたりとか。危なくないスか?」
「そりゃあ……」
壮年の刑事の言葉を遮る様に、彼らが先ほどまでいた取調室から何かを叩きつける様な轟音が響いた。
突然の出来事に音のした方向を向いて絶句するしかない若手の刑事を尻目に、壮年の刑事は溜息を一つ吐きながら慣れた手つきで拳銃へと手をかける。
「市民の安全を守るのは俺達の仕事なんだ。止めるしかねえよな」
そう言って、壮年の刑事が固まる若手の刑事を尻目に猿を連想させる叫び声が響く取調室へと向かっていく。
彼にとってこれは、山ほど見た事件の中で稀ではあるが、慣れっこになってしまった事態の一つに過ぎないのだ。
ドアが破られる音、そして数発の銃声。
翌日のニュースでは、資産家一家惨殺事件の犯人が一人息子であることだけが報道された。
ある殺戮オランウータンの犯行 南北東西瓜 @tabetaro_Panta
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