焼畑に慈雨を

杜松の実

焼畑に慈雨を

 血肉がこびりつき、赤黒く汚れた岩盤が眼下に横たわっている。この頃には早くも、従順にしている方が痛みが少なく済むことを、畔倉あぜくら重四郎じゅうしろうは知っていた。促される儘に片足を載せる。当然岩盤は、今しも火の内よりでたるが如き熱さで、残酷な痛みが足裏を焼き、無遠慮に駆け上がる。畔倉は堪らず呻き声を上げた。また片足を上げ、岩盤に立つ。膝を折り、両の掌をついた。もはや己が叫んでいるのか分からぬ程、勝手次第に咽が張り裂け、目から鼻から汁が止まらなかったのだ。

 俯せになる。畔倉はこのとき素っ裸であった。陰茎が焼けるのが一等こたえた。顔面を岩に当てるのは、恐ろしくて出来なかった。そこに今度は上から岩盤が載せられた。全身の骨が軋んで、次々と砕けてゆく。肺は潰れたのか、息が吸えない。頭蓋も割れ、畔倉の視界は赤く染まる。

「今、載っているのは一枚だ。次は五枚載せる」

 岩盤を用意する地響きののち、五枚もの岩盤が加えられると、一瞬にして畔倉の身体はぺしゃんこになった。畔倉にしてみれば、世界が無音無臭、無色の底にでんぐり返ったかのように様変わりし、ただ激痛と息苦しさだけが残された。そのまま幾ら経っても開放されない。痛みに慣れることは無く、蓄積されて増していく実感に、この先の痛みを考えて猶泣きたくなった。苦しさは休まらず、事切れてしまえぬことに、苛立ちを覚えた。

 ようやく載せられた岩盤が引き上げられ、己も岩盤にこびりついて宙吊りになっているのが分かる。体の多くは下の岩に焼き付いている事も、目が効かなくとも何んとなしに分かった。初めに刑場の血腥さが戻る。身体の復活に快感はなく、終わりのない絶望に最も近づく、極めて残忍なる時間であった。五体満足に戻ってしまうと、また一枚載せられた。

「今度は一枚ずつ載せていく」

 鬼の宣言通り、二枚、三枚と加重され、先ほど六枚載せられた痛みを知っているだけに、畔倉は泣きに泣いて恐怖に抗った。

(ちくしょう。死んだら消えて無くなるんじゃ、ねえのかよ)

 そんな呵責は二六時中続けられ、夜となった。

 尤も、日のない地獄に朝も夕もなく、鬼が呵責を止めて何処ぞへと帰る砌を、亡者の間で夜と呼んでいるに過ぎない。あちこちに盛る業火から空は茜に染まり、煤霞すすかすみの向こうに真黒い●こんな円が在る。亡者らはそれを、地獄の太陽と呼ぶか、地獄の太陰と呼ぶ。どちらにしても、その真黒い円は日周運動をしない所か、彼らの遥か直上から一寸も動かない。

 辺りを見回してみても、ここには火と岩があるばかりだった。それらに阻まれ地平線を臨めないばかりか、煙の為に一町先さえ見通せない。煙は毒となって畔倉の身を虫食み、吸う息の熱に咽は焼かれる。

 地獄に名ばかりの夜が訪れようと、実在の身体を持たぬ亡者に睡眠は必要なく、必要のないものは悉く手に入らぬのが地獄である。

 その日、畔倉は一人の亡者と出会った。その亡者は僅かの長髪を残して禿げているだけでなく、あまつさえ脳髄を覗かせる様に頭が欠けていた。如何に亡者と言え、呵責を受けても立ち処に治ってしまうとしても、ほんの微々たるきずは癒えずに残る。それを百年二百年と重ねてゆけば、この様な荒らされた屍然とした姿に仕上がる。亡者は畔倉目当てに近づいて来た。

「確かにね。綺麗な顔をしている。お兄さんは、こちらに来たばかりなのでしょう? お名前は?」

 畔倉は初めこそ、ぎょっと面食らっていたが、相手がこれでも人だと分かると、気が大きくなる。

「名前か……。地獄で名が必要か?」

「お兄さんが人と交流を持つのなら。付いて来て。ひとりでしょう」

 畔倉は生前にも刑場に居た。そこには当然の如く囚人内にヒエラルキが存在し、新人はいびられていた。ヒエラルキを構成するは、銭や物資、それから暴力であった。畔倉は盗られる物など何も持っていないが、ストレスの捌け口として徒党組んでなぶられては我慢ならない。じっと警戒して亡者を睨む。

「大丈夫よ。ここは地獄よ。争いはございません。さ、色男さん。一緒に行きましょう」

 亡者はひしゃげた足を不自由にして岩場を先導しようと、二三歩を進める。

「おい、待て。お前、名は?」

「周りからは、あねさんと」

 畔倉は飢えの為に歩く気力に乏しいが、なんとか姐さんに付いて行く。地獄では睡眠と同じく食事も要らないので、本質的な飢餓はない。畔倉を襲うは、食事を取れぬ心の飢えであった。一度、地獄の野犬を捕って食おうと、拾った人骨片手に手向かったが、たとえ太刀や槍矛を以てしても渡り合える筈もなく、あっけなく食われた。

 姐さんに案内されて来たは、岩場の窪地で、二三十の亡者がつどっている。二人が姿を見せると、「おお、来た来た」「それが例の男かい?」と迎え入れる。亡者の様子は区々まちまちで、畔倉ほどとは言わないまでも顔形のはっきりとした者から、姐さんまでに朽ちた屍の如く化け物然とした者まで、グラデエションに富んでいる。姐さんは畔倉のことをただ色男と紹介して、そこらに座るように勧める。そうして自身は高座となる岩の上に坐した。

 二本の人骨を左右に構え、そいつを張扇はりおうぎに見立て、カタンカタンと打ち付け講釈を始める。それが、全く見事なものであった。二三の笑いでこころ弛ませ、迫り来るような達者な話芸で亡者たちをずいっと引き込んだ。

「何だ、これは」

 思わず畔倉は漏らした。素人太夫こそ見たことはあっても、文化芸術とは縁遠い生涯を送った畔倉にしてみても、姐さんの芸が只者では無いことは肌で分かった。

「何なのだ」

 ネタは姐さんの人生であった。幼くして戦乱に巻き込まれ住む家を追われ、程なくして母が死に、女郎屋に売られたと言う。その時分は客を取れる年嵩にも至っていなかった為、膳を運び入れるなど、雑事に使われた。粉雪がちらつく京町の片隅に、手を揉みしだきながら姉さん方の衣を洗う可憐な少女が、ふっと目に浮かぶ。畔倉は知らぬ間に前屈みになって話に聞き入っていた。

 しかし姐さんは、「では、この話の続きは明日みょうにち申し上げるといたしましょう」と閉めてしまう。「もっと聞かせろ」と野次れるほど畔倉も馴染んでいない。周りを見ても、誰も彼も神妙に俯いている。畔倉はまだ気づいていないが、夜が明けたのだ。

 どこからともなく鬼が現れる。畔倉は咄嗟に逃げようとしてしまった。そこを鬼に脛を掴まれる。熟れ切った果実を握りしめるみたく、鬼の指がぐじゅぐじゅと食い込むものだから、畔倉は耐え兼ね叫んだ。畔倉だけでなく、そこかしこから叫び声が上がる。畔倉はそのまま引き摺られ、顔を打っては鼻を折り歯が欠ける。手近な岩を掴むも鬼の力に敵う筈も無く、却って指が明後日に曲がった。そうしてまた一日、鬼の呵責を受けた。

 日の無い地獄の、その晩。今度は己の意志で窪地に向かった。途中、迷ったために遅くなったが、待っていたようで丁度昨日の続きが始められた。

 それから幾夜も掛けて、姐さんはその生涯を語り尽くした。女郎となり、京で一二を争うと言わしめる程に名を馳せた。年季が明けると、身請けの話が多く舞い込んだが、女郎屋の主はそれを撥ね退け、姐さんも望まなかった。姐さんは男を騙しては金子を巻き上げ、男が騙されたと気が付き面倒になると、別の男を誑かして殺させた。一度は自らの手で毒を盛ったこともあった。しかし、京にも乱が起こり、女郎だけでは食っていけなくなった。そこで姐さんは干した蛇の肉を干魚として売るようになった。ある時、仲間を連れて歩く偉そうな侍がその干魚もどきを自慢げに美味いと言って食うものだから、そいつは蛇だよと大袈裟に笑って見せた。姐さんは怒った侍に嬲り殺された。

「応仁の女郎、ご清聴承りまして、誠にありがとうございました」

 姉さんがつむりを下げると、場は拍手喝采で包まれた。畔倉もすっかりその一員である。

 翌夜に座に着いたのは饅頭と呼ばれる亡者であった。この亡者は生前、落語の修行の身であったらしく、大いに場を沸かせて、身の上話を魅せる。饅頭の語りもまた幾日とみなを楽しませ、後に他の亡者たちが続く。その者らは、先の二人と比べれば劣る者の、毎夜の姐さん仕込みなだけあって、随分聞いていられる。それに語るは己の過ぎたる人生であるから、骨は掴んである。中にはどうにも下手で、一夜の時間さえ持て余す者もいたが、それと周りが「あの後はどうなったんだっけか?」「こんなことがあっただろう。それで?」と促してやる。

 皆が語り終え、いよいよ畔倉の晩となった。畔倉は滔々と話し出す。生前、散々人を殺めたその傍らで、恵比須の様ににこにこ笑顔浮かばせて堅気に成り済ましていただけあって、話しは上手い。だがそれは身を偽るすべであって、芸ではなかった。芸として見るだけならば、ここらの亡者に引けを取る。

 しかし、その話が凄かった。稀代の大悪党として名を残す畔倉重四郎の悪事の数々、人を殺しては「ああ。消えちまった。あっけねえなあ」などと己でやっておいてのたまう様は、地獄の住人にとっても鮮烈に映った。畔倉もまた一夜で語ってしまえたが、そこに茶々入れる者は居なかった。姐さんだけは、惜しいという思いを胸に秘め、畔倉の生涯を一本の講釈とする算段を練っていた。

 それから数年が経ったある盆の頃。地獄の釜の蓋もあくと言われるだけあって、亡者たちは一人残らず現世に繰り出し思い思いに羽を伸ばす。姐さんは毎年欠かさず、寄席やら講釈場やらを見物し、畔倉も何度か供をした。ただ、この年は様子が違った。

 というのも、姐さんの語る『畔倉重四郎』が、烈々たる大反響を呼んでいた。噂は千里を駆け巡り、例の窪地へ集う亡者の数は日を追うごとに増していった。そして、その噂がまた亡者を呼ぶ。ほんの二三十人から始まったものが、とうとう千人に達したのだった。

 地獄は広い。亡者はまだまだ居る。饅頭の案で、鬼の呵責のなくなる盆に、姐さんのリサイタルを催す運びとなった。話は瞬く間に八大地獄全土に広がり、亡者たちは昼に呵責を受け、夜は傷付いた体に鞭打ち窪地を目指して歩いた。

 文月十三日。窪地には万を超える聴衆が集まった。その晩、姐さんが高座に着くと、岩の大地が響動どよめくほどの喚声が起こる。亡者共は窪地の底を中心にぐるりと取り巻いている。端の者など、煤に煙にと、姐さんの姿は見えやしない。それでも、ぐわあっと大盛り上がりであった。

 姐さんは左右に携える人骨を張扇さながら、カタンカタンと鳴らす。すると、場は水を打ったように静まり返った。みなが皆、息を呑む。

 口上も程々に、『畔倉重四郎』が掛けられる。それが実に能弁であった。亡者たちは、その余りの達者振りに、うっとりと聞き惚れる。姐さんが人骨を張扇よろしく、タンタンタンタン! と一所懸命に打ち込めば、亡者らは声にならない声を響かせて、恍惚を顔に表す。多くの初めて見た亡者らは、「何だ、これは」とパニックに陥り、中には泡吹いて倒れる者まで出た。姐さんの『畔倉重四郎』は、盆の暮れる十六日の明け方まで、休みなく続けられた。

 物語は終盤。畔倉重四郎が大岡越前守忠相の計略に嵌まり、最後の悪事を認めた。大岡は畔倉に向かって、「最後に言い残すことはあるか」と尋ねる。

「ふっ。おめえら、俺を人非にんぴみてえに見やがって。冗談じゃねえ。よおく、聞きやがれ。おらあ、好きなように生きて来た。美味い酒がありゃあ酒を飲み、抱きたい女が居りゃあ女を抱き、博打がしたけりゃした。人だって好きに殺して来たさ。それがおめえらはどうだ。好きに酒を飲む金はねえ。金が無ければ、女も買えない、博打も打てない。金があったってする度胸はねえだろうがよ。好きな女が居ても、口説けずに下を向いて通り過ぎる。嫌いな奴には、精々陰口たたくもんだろうがよ。そのまま老いさらばえてから、こうしておけば良かった、ああしておけば良かった、なんて枕濡らしても、後の祭りなんだよ。おめえらは、俺が地獄に落ちると思っているんだろうがよ、俺から言わせてみれば、お前さんらの方がよっぽど地獄に居らあ。歴史に名を残すのは、おめえらみてえな、びくびく規則守ってる奴じゃねえ。俺だよ。おらあこれからも、歴代の中でも悪行三昧重ねた稀代の大悪党として、後世まで語り継がれて行くんだ。おめえらは精々、その間抜けな薄っぺれえ惨めな生を全うしやがれ。あっはっはっ。

 それを聞いた大岡越前守は一言、「さようであるか」と。その一言が、今も畔倉の耳に、残っているとか。

 長きに渡って申し上げて来ました畔倉重四郎。一話目の「悪事の馴れ初め」に始まり、三日三晩、みなさま大変なご苦労でございました。最後の「重四郎服罪」をもちまして、この度は『畔倉重四郎』、大団円でございます」

 言わずもがなの拍手喝采、万の聴衆の歓声が怒号のように大地を揺らす。亡者たちの大熱狂の声が後から後から重なるものだから、終わりが見えない。ここ地獄において、文化が花開いた瞬間であった。

 そこにぽつりと、煤で汚れた黒い雨が落ちる。ぽつぽつと数が増え、今しもざざあと本降りに変わった。地獄で雨など、誰も見たことが無ければ、聞いたことも無かった。雨の正体はかねてより亡者が口々に地獄の太陽だ月だと言って来た、あの真黒い円であった。あれはどうやら煤に汚れた水の塊であったらしい。それが亡者共の声に作用されてか、あるいは偶々か、このタイミングで弾けて雨となった。流石に業火は消えぬが、そこかしこに燻っていた火種は鎮まり、焼けた石の如き岩場の刑場も、多少は過ごしやすい景色に収まる。亡者たちは火照った体が冷めると共に、何だか傷まで癒えた気になって、歓喜の余り、哄笑にぶっ倒れる者や踊り出す者となった。

 そんな喧喧囂囂たる狂乱の中を黙々と進む一行があった。一行は迷い無く直進し、姐さんの前で止まった。姐さんに群がる亡者の一人が、一行の先頭に立つ痩身の鬼人を目にして、「あっ」と声を漏らすと、他の亡者たちも次々に思い出した。その鬼は裁判の折に閻魔の傍に控えていた補佐官の一人であった。

「お梅さん。刑期満了となりました。御勤めお疲れ様でございました。お梅さんは特別に、閻魔殿へご招待いたします。どうぞ」

 と連れられて行く。周りの亡者たちが、なんだなんだと付いて行こうとした時、痩身の鬼人が振り返り、

「言い忘れていました。今年の盂蘭盆は終了しました。皆さま、通常業務にお戻りください」

 すると、雨けぶりの中から、わらわらと鬼が現れ、逃げ惑う亡者を捕らえ容赦なく金棒を振るう。亡者たちは初めて地獄に落ちた日のように、鮮新に呵責を受けて泣いた。

 お梅は閻魔の元へ引き出された。閻魔は裁判の時とは打って変わって、実ににこにことしている。玉座から下り、お梅の肩に、包み込んでしまうほど大きな手を置いた。

「お梅さん、どうもありがとう。貴女のおかげで、あの亡者らも、次に人に生まれ変わった時には、どんな苦境の中でも希望を見出し、悪事に逃避することのない、天国に導かれる魂になれる筈だ。いやあ、めでたい。めでたい」

 お梅は何を言われているか分かっていないが、凛として顔で「はい」と答えた。閻魔は猶も嬉しそうに、黙ってうんうん頷く。

「そこでだ。貴女の魂は既に天国に導かれる基準に達しておる。がんばったね」

「そんなっ」

「いやいや。貴女の頑張りだよ。よくやった。さあ、お行きなさい」

 お梅は自らの足で天国への門を通った。

 そして、全てと渾然一体となり、個としてのお梅は消失し、ただのエネルギーとなった。

 神が何の為にそのようなエネルギーを求めるのかは分からない。しかし、人は、エネルギーを質良く増幅させる装置であることだけは、門を通る刹那、お梅は理解した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

焼畑に慈雨を 杜松の実 @s-m-sakana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ