病葉不思議帳条々

五百蔵カイコ

逃げ水

 風が吹いた。

 夏のじめじめとした空気にはそぐわない、爽やかな風だった。風は辺りに広がる丈の高い草を揺らし、溶けるように止んだ。

 私は岩石の標本を採集するために、S農学校の近くの丘へ登っていた。

採集と言っても、高い志からしている訳ではない。ただ、珍しい石を見つけて、受け持ちの生徒に見せてやろう、という心持ちであった。

 しかし、鉱石に明るくない小学校の一教員が少しばかり探したところで、火山弾だのが見つかる訳もない。一通り物色したところで、私は標本の採集を諦め、その辺りの手頃な石に腰掛けて昼食を取ることにした。


 異常に気付いたのは、二つ目の握り飯に手を伸ばしかけた時だった。

 さっきまで私しかいなかったこの野原に、続々と人がやって来たのだ。

 立派な身なりの紳士がいると思えば、野良仕事の合間に抜け出して来たような者もいた。また、うら若き乙女がパラソルをさしている横に、齢百に手が届こうかという老婆もいるという具合であった。鉄道の駅からも遠いこんな場所に、いつの間にこんなに集まったのか。

 さらによく目を凝らすと、獣面の者、鬼に似た者、毛むくじゃらな者、よく分からない者などもいる。およそ人ではない、異形の者たちだ。夢を見ているのかとも思い、何度も目を擦るが、目元が土で汚れるばかり。有毒なガスでも吸って幻覚でも見たか、と目を閉じて深呼吸をしても眼前の光景は変わらない。現実とかけ離れすぎた光景に、怖いというより戸惑うしかなかったが、集まる人々が何やら浮かれていることは分かった。

 丁度、私の隣に普通の人間らしき男がやって来たので、ふわふわした心地のまま何故ここに来たのかを尋ねてみた。

「なに、蜃気楼を見に来たんです」

 男は微笑みながら、不思議そうな顔をするでもなく、至極当然だと言うようにそう答え、背負っていた荷物を地面に置いた。

 ――しかし、蜃気楼とは自然現象ではなかったか。

 確か、遠くの風景が虚像として見えるというようなものだった気がする。決まって見られるものでもなし、そんなものをこぞって見物に来るなどおかしな話だ。

 私が不思議そうな顔をしているのに気付いたのだろう。男はどこか楽しそうに、人々が目を向ける先を指した。

「あちらをご覧なさい。海が見えるでしょう。五十年に一度、ここに大蛤がやってくるのですよ」

 確かに野原の彼方には青々とした海が広がっていた。大きな岩がごつごつと鎮座し、波しぶきが当たって散った。しかし、ここは内陸も内陸、海が見える場所ではなかったはずだ。やはり、幻覚かもしれない。しかしこんなにはっきりと見える幻があるだろうか。

「大蛤、ですか」

「ええ。ただの大蛤ではありません。幾百年、幾千年も生きた蛤です」

「はあ」

 私は気の抜けた返事しか出来なかった。何しろ、荒唐無稽な話であった。まるで想像することができないし、いい大人が顔を突き合わせて話すことでもない。子供向けの御伽噺だ。たかが蛤、大きくなっても上等の吸い物にでもなるのが関の山ではないか。そもそも、それが蜃気楼とどう関わりがあるのかも分からない。

「で、蜃気楼とはどういう」

「そこですよ。あの大蛤がここに何をしに来るか、貴方分かりますか」

「分かりません」

「――息を吐きに来るのです。私達は皆それを見に来ているんですよ。いや、そうじゃないな。蛤の吐いた息を見に来ているというと、すこし趣が違う」

 男はそう言って紙巻煙草に火を付けた。風に吹かれながら、ゆらゆらと煙が上ってゆく。薬のような、花のような、珍しい香りが鼻腔を擽る。

「まあ、見れば分かります」

「はあ。そういうものですか」

「ええ。そういうものです」

 一通り話を聞いてみたものの、何が何だか分からない。大法螺を真面目に吹聴しているという訳でもなく、真面目な話を茶化して話しているという訳でもない。この男は、喋りも所作も、どこかゆらゆらしていて、どうにも掴みどころがない。

 狐狸に化かされているかのように感じ、もう帰ってしまおうか、と考えたその時、周りの群衆からどよめきが上がった。

 皆と同じ方向を見て、私は確かに驚いた。

 ――それはまさに大蛤であった。

 山のように大きな蛤が、水しぶきと轟音と共に海中から現れたのであった。

 そして、ごおん、と鐘を鳴らすような音を一つさせて大蛤が口を開けると、真っ白な雲を吐き出した。

 欠伸をするように、長閑に、ゆるゆると吐き出された雲は、辺り一帯を覆って暫く滞留していたが、やがてその白色は薄れて霧のように半透明になった。

 雲母を刷いたように僅かに煌めくそこに、何かが浮かび上がっている。

 驚くべきことに、それは巨大な楼閣であった。

 遥か昔の、唐国に聳えていたような、異国情緒に溢れる絢爛豪華なものだった。壁は朱く、屋根の鳥は金に、美しく日に照らされている。軒に吊るされた真っ赤な飾提灯は淡く光り、欄干にしなだれかかる女の頬をそっと染めた。

 蛤の吐き出す雲はどんどん広がり、やがて楼閣の周りの街並みや人が見えるようになった。天秤棒を担いで瓜の行商をする男、薄絹で着飾った女、そして路地を駆け回る子供など、市井の人々は生き生きと動いている。

 私はまるで新しい玩具を手に入れた子供のような心持ちで、貪るようにそれらを眺めた。動く絵巻物というものがあったら、こんな具合だろうか。眺めている間にも雲は広がり、街の入口の大きな門の外、雄大な大河が流れる横に広がる田畑、空へ突き出すように延びる奇岩群なども見えた。


 どれくらいそうしていたのだろうか。

 絶壁に建つ山寺の堂の中、若い僧侶たちが並んで座禅する様子が見えたところで、不意に突風が吹いた。

 風は辺りの草を激しく揺らし、小石を巻き上げ、少し離れた所に立っていた蛙顔の紳士の山高帽を吹き飛ばしてから、ゆっくりと止んだ。

 雲の上に形作られた幻の街は溶けるように消えてしまった。大蛤はこれで終いと言わんばかりに、最後に虹を一筋吐き出すと、再び鐘を鳴らすような轟音と共に海へ帰っていった。

 鐘の音の響きは暫く木霊し、やがて波の音に溶けていった。その波の音もついには遠ざかり、それを頃合いとばかりに、辺りの人々も一人、また一人と去っていった。

 あらゆる音が止み、草を揺らす音がさわさわと響くだけになったところで、私と、傍らの男だけが最後に残ったようだった。

 男は新しい紙巻煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。そして、にっこりと破顔し、言った。

「どうです。良いものが見られたでしょう」

「――ええ。本当に」

 これは本心からの言葉だった。幻覚か、夢か、何かは分からなくとも、素晴らしいものを見たことに変わりはない。私の短い人生の中で、最も美しい風景であったことは確かだった。

 男は、わが意を得たりという風に頷き、横に置いた荷物を背負い直した。

「では、私はこれで。貴方もお気を付けて」

 私が軽く頭を下げると、男はもう一度にこりと笑って、丘の頂上を超えた先、北側に連なる山々の方へと歩いていった。

 私も空の標本箱を抱え直し、丘を下った。暫く歩き、S農学校の校舎が見えた所で、私は丘を振り返った。そこにはやはり海も、岩も、何も無かった。

 ただ、夏の夕暮れに草が揺れ、波に似た音をたてるばかりであった。

 ――あれらはみな、やはり幻だったのだろうか。

 何となく寂しい気持ちで歩いていると、こつん、と靴先に何かが当たった気がした。拾い上げてみると、古い貝の欠片のようだった。表面はがさがさと荒れ、幾度も風雨に晒されたようだったが、裏側はつるりとして、複雑な光彩を放っていた。螺鈿細工よりも、あまりに鮮やかなそれは、大蛤の吐き出した虹の色にどこか似ていた。

 思いがけず、夢の欠片を拾ったような心持ちであった。これを見せながら、今日の出来事を語ってやったら、子供たちはどんな顔をするだろう。まあ、子供騙しの御伽噺よ、と笑われるのが関の山とは思う。それでも、この世の隙間にそんなこともあるのだと、誰かに話したい気分になった。

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