終章 ある家族について - 2

 イヴェーナ区。第三児童公園。

 閑静な住宅地のなかにある広場では、子供たちがサッケルというボール遊びに興じている。転がるボールを楽しげな声が追い駆ける。

 そんな光景を、木の影から遠巻きに眺める二人の少女の姿があった。


「ウル、だいじょうぶだよ。きんちょうしてる?」

「うーはへいきでやがる、です。ねちゃんこそ、かおこええです」


 金髪の少女と異見子の少女は緊張をほぐすように、互いの強張った頬を引っ張ってみる。

 やがて一人の少年が強く蹴り出したボールが明後日の方向へと飛んでいく。芝のくぼみで不規則に跳ねたボールは幸か不幸か、少女たちの元へと転がってくる。

 金髪の少女――ネロイカはそのボールを拾い上げた。


「ったく、どこ蹴ってんだよーっ!」


 ボールを追ってきたのは片腕をギプスで固定している少年。少女たちより少し年上な分、身体つきの大きい少年はネロと、その隣りにいる異見子の少女――ウルチロを見止めるや、楽しげな顔を引き攣らせた。それはウルの姿が忌むべき〈異貌〉に似たそれであるから、というわけではない。

 何を隠そう、この少年――ケイニス・ミカトレアは以前、この年下の少女二人の手によって、病院送りにされている。今こうしてギプスをする羽目になっているのも、そのときに骨折したからだった。


「な、なんだ、お前ら……邪魔しにきたのか……」


 ケイニスがネロたちを睨む。ネロは小さく息を吐き、ぶんぶんと首を横に振った。その表情から滲む気迫と緑の目に宿る決意に気圧されて、ケイニスは肩を強張らせる。


「じゃ、じゃあ何だよ」


 ネロとウルは二人でボールを抱え、ケイニスに向かって大股で踏み込んだ。ケイニスが怯えて肩を震わせるのを無視して、小声で「せーの」とささやき合う。


「このまえは、ごめんなさいっ!」

「このまえは、ごめんなさいです」


 声は揃わなかった。だが二人はケイニスに向けて頭を下げ、持っていたボールを差し出す。ケイニスはようやく状況を理解できたのか、過剰な警戒を僅かに解いた。


「ウルのこと、ばけものっていわれてむかついて、けがをさせちゃってごめんなさい」

「う、うーも、おまえがねちゃんをいじめやがるから、ぶったけど、ぶってごめんなさいです」


 ケイニスはしばらく躊躇って、それから二人の差し出すボールを受け取った。


「お、俺も、……バケモノって言ってごめん」


 まさかケイニスのほうから謝ってくるとは思っていなかったネロとウルは驚いて顔を見合わせる。それからほんの少しだけ困ったように、だけど溢れる嬉しさを表情に滲ませて、へらと笑った。

 だが驚きはそれだけに留まらなかった。ケイニスは無事な手のほうで頬を掻きながら、ネロとウルに言う。


「……お前らも、やるか? サッケル」

「え? ……いいの?」

「べ、別にいいよ。ちょうど人数足りてないし。数合わせに入れてやるよ」

「やった! さっけるやる!」

「さっけるやりやがるです!」


 ネロとウルは両手を合わせて飛び跳ねる。ケイニスはそんな様子を眺めながら、緩む頬に力を込めたせいで苦虫を噛んだような顔になっていた。


「俺はケイニス。お前らは?」

「あたしネロ」

「うーはうー」

「何だよ、それ。うーって変な名前だな」


 ケイニスが笑う。だがにっとこぼれた白い歯に、もう侮蔑の感情はないように思えた。


   ◇◇◇


 ボールを追って走り回って、気がつけば日が傾いていた。少年たちと二人の少女は遊び疲れて芝に寝転ぶ。そよぐ風が火照った身体に心地よく、どこか誇らしく、満ち足りた気持ちだった。


「けいにすたちは、いつもここであそんでるの?」

「いつもってほどでもないな。でもよく来る」

「そうなんだ」


 見上げる空は鮮やかなオレンジ色で、普段ウルと二人で見上げるよりもずっと綺麗な気がした。


「またうーとあそびやがれ、です」

「別にいいけど。なあ?」


 ケイニスが他の少年たちに呼びかける。ばらばらと肯定の言葉が飛び交った。その言葉の響く心地よさに耳を澄ませ、風に身を預けてネロは目を閉じる。

 スオウがネロたちの元からいなくなって一カ月が経った。

 いや、というのには語弊があるのだろう。ネロとウルはインマオから、二人が気絶している間に起きたことの顛末を聞かされている。

 スオウがプルウィア市を、ネロとウルを守って死んでから、一カ月が経っていた。

 だがスオウとともに過ごした日々は、最後にくれた言葉は今もまだネロのなかで生きている。目を閉じれば埃っぽい家の景色が浮かび、耳を澄ませば不機嫌そうな怒鳴り声が聞こえた。何より、抱き締められたあの感触を、まだしっかりと覚えている。


「ありがと」


 きっといつまでも忘れはしないだろう。教えてもらったことは少なく、過ごした時間はそれほど長くはなかったかもしれないが、それでもネロは、ネロたちは、スオウのことが大好きだ。


「あ、なんか言ったか? お前」


 どうやら声が漏れていたらしい。立ち上がったケイニスが、上からネロを覗き込んでいた。


「ううん、なんでもないよ」

「ふーん。まあいいけど。そろそろ帰るぞ、俺ら」

「うん。あたしたちもかえる!」


 ネロは立ち上がる。ちょうどウルも寝返りを打って身体を起こし、芝に座り直していた。


「じゃあ、またな」

「うん。またね。きょうはたのしかったよ!」

「またさっけるしやがれです!」


 ケイニスたちと手を振って別れる。彼らは自前の自転車に乗り、籠にボールを突っ込んで颯爽と公園から出ていった。


「わたしたちもかえろっか」

「かえりやがれです!」


 ウルの手を引っ張って立ち上がらせる。そのまま手を繋ぎ、ネロとウルは歩き出す。小さな二人の歩幅はいつもよりほんの少しだけ大きく、そして軽かった。


「――やるじゃねえか。お前ら」


 公園の出口に差し掛かったところで、不意に声が聞こえた。

 ネロとウルはその場で立ち止まり、金縛りにでも遭ったかのように固まった。この二週間、いつだって二人のそば支えてくれていた記憶のなかの声を、聞き間違うはずはなかった。

 オレンジ色の街並みが涙で滲んだ。すぐにでも振り向きたいのに、振り向きたくなかった。振り向いたら蜃気楼のように、確かに聞こえた声さえも消えてしまうような気がした。

 だが黙って立ち尽くす二人に、声のほうから近づいてくる。


「…………その、なんだ、悪かったよ」


 静かな足音。微かな息遣い。見ていなくてもいると分かる、大きくて強い、確かな存在感。

 二人の頭を交互に、分厚くて骨張った固い掌が優しく撫でた。

 そこでようやく、ネロとウルは後ろを振り返る。

 立っていた。

 少し気恥ずかしそうに。らしくもないぎこちなくて曖昧な表情を浮かべながら。

 吹いたそよ風に腕の通っていない左袖が靡く。少し痩せただろうか。

 それでも確かに、スオウ・アララギがそこにいた。


「すおー…………?」


 消え入りそうなネロの声が差し込む夕陽に溶けていく。


「待たせたな」


 しゃがみ込んだスオウが右腕一本でネロとウルを抱き締める。目いっぱいに浮かべながらも堪えていた涙がとうとう溢れ出した。


「すおー、おまえ、どこ、いってやがっだんでずーっ」


 ウルも声を上げ、鼻をすする。ネロたちはスオウの不恰好な抱擁に応えるように、その身体を抱き締め返す。

 あのときはできなかった。ただ抱き締められるだけだったから。

 もう離れてしまうことがないように、今度は互いに強く、きつく。


「――ただいま」



【第1部・了】

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義父と義娘と義娘のボンド やらずの @amaneasohgi

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