第一章  新月

一日目

 少女はぼんやりと微睡む夜空を見上げていた。


 辺りはどこまでも静寂が広がり、時折冷たい風が彼女の頬を撫でていった。ここは住宅街の奥に隠された、高台に佇む小さな公園。ブランコ、砂場、シーソー。だんまりを決め込んだ遊具の中で、たった一つ、少女のシルエットを背負ったジャングルジム。晩秋の寒空の下、寒さに対して明らかに薄着の少女の身体は、ただの冷たい鉄屑と化したジャングルジムと相まって、すっかり冷え切ってしまっていた。


 しかし、そんな些細なことなんて彼女にはどうでも良かった。


 期待もない、孤独もない、とうの昔に諦めてしまった無の世界で、少女はその頂上に座り、無意味に足を交互に揺らした。


 少女の頭の片隅で微かに流れるメロディー。幼い男女の歌声、かつて耳にしたことがあるのだろうか。この公園にやって来ると、何故か少女の頭の中で再生される音楽。この曲の思い出なんて持ち合わせていないのに。


『まいごのまいごのこねこちゃん……』


 耳奥で響くメロディーに煽られて、少女は白い息を吐きながら歌を口ずさんだ。それは無意識の行動。途端に右目から一筋の涙がすっと頬を伝っていった。


 哀しみなんて心のどこにもいないのに、この場所でこの曲を歌うと自然と涙が零れる。その度に少女は自分のこの反応を面倒に感じた。夜の公園なんて自分一人しかいないのに、誰にも見られる心配のない涙一粒にさえ苛立ちを覚えた。


 まるで自分が見えない何かによってまだ縛られたままのようで――。





 翌日も。


 翌々日も。


 少女は毎夜、この寂れた公園を訪れた。


 郊外から少し離れた場所に位置する、丘の上に開かれた公園。街の明かりは遠くにあるため、園内に設置された外灯だけでは灯りが足りず、もうすぐ冬を迎えようとするこの時期は隣にいる人の姿さえもよく見えない。


 けれど、その暗さが却って少女には心地良かった。


 この世界には自分一人しか存在しないのではないかと錯覚させる暗闇。余計な喧騒は耳に入らない遮音性の高い立地。それらが逆に、何ものにも代え難い安らぎを少女に与えていた。


 今宵は新月。


 いつもの定位置、ジャングルジムの特等席に腰を下ろした少女。その冷えた金属の感覚を味わった瞬間、彼女の心に熱い想いが込み上げてきた。今日も無事に儀式が執り行われるだろうという強い確信。


 そして今日もまた、彼女の耳にはあのメロディーが。聴こえるはずのない、幼い男女二人の可愛らしい歌声。今夜も心が赴くまま、少女は漆黒の空を見上げて口ずさんだ。


『まいごのまいごのこねこちゃん――』

『あなたのおうちはどこですか』


 返ってくるはずのない歌声が一つ。今この場に少女以外の何者かがいる。その瞬間、無に等しかった公園内で一気に緊張が走った。


「――誰!」


 恐怖が入り混じった震える声。正直少女は、自分でもこんな声が出せるのかと内心驚いていた。けれど今はそれどころではない。少女は身を縮めて身体を強張らせながら、じっと暗闇を見つめた。周囲にはそれらしい動きはない。目に見えない誰かは鳴りを潜めているのだろうか。


「……驚かせてごめんね」


 ビクッと大きく揺れる少女の身体。それは少年の声だった。割と早く声をかけてきた点から、特に隠れようとしていたわけではないらしい。


 少女はすぐさま特等席から地面を見下ろし、姿なき声の主を見つけようと辺りを見回した。その声は近くから聞こえてきたが、真っ暗闇に包まれたこの公園では、相手の居場所をすぐに把握することができない。


 そこで少女はハッとした。改めて突きつけられた、今この公園に自分以外の人間がいるという事実。自分にとって重要なこの儀式を、初めて他人に見られてしまったという羞恥心。今まで無でしかなかった少女の表情が、この数分間で様々な色を見せた。


 混乱に陥っていく少女。不意に近くで地面の砂を踏みしめる音がした。少女の繊細な感覚を脅かす他者の音。少女の身体はまたもやビクッと震えた。


 すると何かを察知したのか、足音の主はピタリと動きを止めた。


「……大丈夫、これ以上は近づかないから」


 黒い視界から声だけが聞こえてくる。声の主の表情は疎か、姿さえも未だ確認できない状況。今の少女にとって、これ以上の恐怖はない。


「……お願いだから、怖がらないで」


 それなのに、そっと語りかけるような優しい声。――それでも少女には最早限界だったようだ。


 突然、カンカンカンと慌ただしい金属音がその場に鳴り響いた。聞いたことのある音だったはずなのに、謎の声の主はその音の意味を理解するのに手間取ってしまった。それはほんの小さなミス。そして、そのミスに気づいた頃にはもう手遅れだった。


「待って!」


 真っ暗闇に反響した必死の懇願。しかし相手は無情にも、乾いた足音だけを残してその場を去っていってしまった。夜の公園に取り残された声の主のシルエット。それはどこか、言いようのない哀しみに暮れているような気がした。

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【書籍化】淡い輝き、満ちる時 愛世 @SNOWPIG

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