16・ふたり

 1・『名前1』

 午睡まどろみからの目覚めのような、気だるい微睡を感じる。俺は薄っすらと目を開けた。薄暗い中、蛍のような小さな光の点滅がぼんやりと見えた。ぼんやりとしているのは視覚だけではない。規則的なモーター音と電子音、消毒液の匂い。聴覚、嗅覚から入ってくる五感全ての情報が、薄い膜が被さったように明瞭な輪郭を持っていなかった。

 やがてモーター音は俺の呼吸と同期していることに気付いた。その時初めて自分の口の周りに透明な呼吸器がとり取り付けられていることが分かった。

 ――あぁそうか

 事態が理解できた俺は、両手に力をこめ十指を意識的に動かそうとした。だがその反応は鈍く、自分の腕がとてつもなく長くなっていて、指を遠隔操作する感覚だった。ようやく神経が行き渡った指は関節が固まっていて、曲げようとする度鈍い痛みが発生する。俺は指を動かすのを諦めた。徐々に身体の感覚が戻って来たが、胴体四肢の全てが拘束され、固定されているのが皮膚感覚で分った。顔の側方には壁が密着していて顔を動かすことも出来ず、首も喉元のあたりで冷たい金属によって拘束されていた。

 ――クスリか

 身体の全てが重く感じられるのは、拘束されていることもあるがクスリが投与された影響だろう。自分が殺されず生かされていることを確認すると、薄い笑みを浮かべ再び目を閉じた。

     ◇

 次に目覚めたのはそれからどれくらい後かは分からないが、俺は自分の名を呼ばれ重い瞼を嫌々開けた。

「お目覚めのようですね」女の声だった。

 室内は明るかったが目が痛まない程度に輝度は落とされている。身体がふわりと浮く感覚になった。ベッドがゆっくりと立ち上がっていく。ベッドはやがて身体が滑り落ちない角度で止まった。天地の感覚が戻り、正面の少し離れた場所に声の主が居た。ぼんやりとしたその姿がオートフォーカスで明瞭に浮かび上がる。

 女は礼装の姿で椅子に座っていた。黒のジャケットにタイトスカート。スカートから伸びる細い脚は綺麗に斜めに揃えられている。

 右肩から金色の飾緒が下り、胸には4本の線が刻まれた金バッチがあった。

 ……警察官?

 女の正体を確認すると同時に、ピっと電子音が鳴った。

「さすがですわね、もう視覚が回復しましたか」

 女の声はスピーカーを通じて聞こえた。

「自己紹介させていただきますわ。内閣府警察庁付国家安全保障対策課課長宮島梓と申します。お目にかかるのは人特研以来ですわね。覚えていらっしゃいますか? 」

 狭い視界ではあったが、女以外の周囲も段々と明瞭になってきた。そこは見覚えのある空間だった。死刑の執行が行われるまで拘束され収監されていたあの部屋だ。

 ――いい趣味してやがる

 俺は小野寺葵の声を出そうと、声帯を振るわせた。

 あの……

 言いかけて言葉を呑んだ。

 宮島に表情の変化を気取られぬよう勤めたが、内心驚いた。呼吸器は無かったが、声帯から発せられた声は、聴きなれない皺枯れた女の声になっていた。

 クスリの影響か……

 声帯を擬似的に動かし脳の中で声を再生するが、どうしても葵の声にならない。聴覚の変調も疑ったが神経の繋がりが重く、耳が蓋で塞がれているようだった。俺は諦めその皺枯れた声を出した。

「覚えているぜ、右手の調子はどうだ? 」

 違和感ある声に不快を感じる。宮島は微笑みながら、包帯が巻かれた右手を俺に見せた。俺は笑おうとしたが、顔の表情筋が固まっていて上手く笑えなかった。

「念のためもう一度お聞きしますが、あなたは佐村了さんでよろしいですか? 」

「知っているなら聞くなよ。小野寺葵の姿だけどな」

 宮島は微笑みながら満足そうに頷いた。

「いつから自衛隊は警察の実行部隊になった? 」

「色々と事情がありますの」

「俺を殺さなかったのも色々と事情があったんだろ? 」

 俺は引き攣る表情筋を無理矢理動かし口角を上げた。

 俺は目覚め、殺されていないと分かったとき全てを悟った。

 超人的な肉体と超感覚を持ち、心臓移植による人格転移が可能の俺は、神に近い絶対不可侵な存在になっている。

 生命体の究極進化形である俺を、奴等は殺せない。昔の様に研究素材として扱われるだろうが、それも時間の問題だ。クスリは何時か切れる。あの心臓の動きがなければタカチホブラッドの真の力を解明する事は出来ない。

 そして研究素材である俺に絶対に物理接触をしなければならない。その時を待てばいい。

 だが、ぎこちない笑みの裏にある俺の思考を、宮島はあっさりと言い当てた。

「あなたはこう考えていますね、自分は特別な存在であるから殺されない。それが我々の事情。そして囚われの身をなっても、クスリによる制御は何時か切れる、その時を待てば良いと」

 見透かされた?

 俺は宮島を睨んだがすぐにそれを解いた。多少頭の回る奴なら簡単に帰結する答えだ。特に目の前のこの女なら当然のことだ。

「そうだとしたらどうする、宮島さん」

「我々の事情はそのご理解で良いですわ。ですが佐村さんにお知らせしたいことがございますの」

 そう言うと宮島は背もたれに身体を預け、揃えていた脚を組み脚に変えた。

「確かに、あなたはTBの大いなる謎と可能性を解明するには欠かせない存在ですが、あなたの研究データは全てリモートによる遠隔監視のみで行います。人的接触は一切ありません。そのために合計64個のマイクロチップを、あなたの身体の各所に埋め込ませて頂きました」

 ――なに?

「チップの中には心拍抑制剤も内蔵されていて、あなたの心拍の急激な変動を感知して体内に放出することも可能です。疑いになるのでしたらお試しになっても構いませんが、老婆心ながら今試すのはおよしになった方がよろしいですわ。因みに薬剤の内蔵量は後藤君の残してくれたデータを基にして、念のため約50年分の量が内蔵されております。心臓の動きが通常なら、超常の力をフルに使えない事はお分かりですよね」

 俺は黙ったまま宮島の言葉を聞いていた。

「そんな状態でもあなたからリアルタイムで大変興味深いデータが送られており研究に多大な貢献をしておりますのよ。感謝いたしますわ」

 宮島は両えくぼを作ってニッコリ微笑んだ。

 それにつられ俺もニヒルな笑みを作った。

「おいおい、それじゃ小野寺葵はここで監禁かよ。ハゲや後藤はどうする、あいつ等は俺が葵だと知っているんだぞ。それともあいつ等まで処分して隠蔽する気か? それに小野寺家はどうする? 秋臣が孫可愛さで想定外の行動をしたら、秋臣まで殺す気か」

 宮島は、これ以上無い満面の笑顔に変わった。

「その点については全て法的にも道義的にも適正に対処いたしましたわ」

 俺はせせら笑った。

「つまんねぇ冗談だなぁ」

「何故そう思われます? 」

「裁判もせず、14歳のガキを一生監禁するのが法的にクリアできる訳ねぇだろうが」

「ではあなたは小野寺葵の姿をした佐村了だと仰るのですね」

「最初からそう言っているだろ」

「その言葉、本当にお聞きしたかったですわ」

 そう言うと宮島は、ジャケットのポケットから携帯端末を取り出し、それに人差し指を当てた。

 突然、俺の目の前に白いノイズと共にスクリーンが浮かび上がった。それは俺と宮島を隔てている分厚いアクリルガラスに投影されていると思われたが、そのスクリーンに投影された動画に俺は自分の目を疑い、言葉を失った。

 そこには車いすに乗っている銀髪の小野寺葵と、その車いすを押している後藤の姿が映し出されていた。ふたりとも白い服を着て青々とした芝生の中の歩道を、ゆっくりと進んでいた。

 その動画は数秒間再生されると、また元に戻り最初からリピート再生された。

「過去の映像ですが、葵嬢は順調に回復していますわ」

 スクリーンの後から宮島の声が聞こえる。

 ……馬鹿な、そんな馬鹿な

「作り物の映像を見せてどうする気だ! 」

 俺はしゃがれた声で叫んだ。

「追加情報ですわ」宮島は変わらない調子で話を続けた。

「ご存知のように葵嬢は先天的に心臓に疾患がありました。病名は動脈管開存症と肺動脈閉鎖症。生後すぐに内科的治療で対応しましたが、それは応急処置であり根治するにはふたつの動脈へのカテーテル手術か心臓移植しか方法はありませんでした。しかし当時の葵嬢の動脈はまだ幼く、また疾患により衰弱しており、カテーテル手術は不可能でした。葵嬢の主治医は内科的治療で時間を稼ぎ、葵嬢の身体が外科手術に耐える年齢になった時に心臓移植をする判断をしました」

 ……そうだ、だから俺は小野寺葵の身体に自分を転移させることが出来た。

「ところで、臓器移植手術で怖れられている事がふたつあるのですが、無論ご存知ですよね? 」

 宮島は、包帯が巻かれた2本の指でVサインを作った。

「まずひとつは拒絶反応を起こす事。これは当然ですわね、他人の臓器を入れる訳ですから。そしてもうひとつ、その拒絶反応を防ぐために服用した免疫抑制剤を、移植手術が成功した後も長期間服用しなければいけない事です。ですがこれは両刃の剣です。服用を中止すれば拒絶反応が起きる可能性があり、服用を続ければ免疫不全に陥る可能性がある事です。葵嬢がTBの持ち主と謂えどもアクティブになるとは限らないし、アクティブになったとしても拒絶反応や免疫不全を克服するとは断言できない。ですから主治医は幼い葵嬢にある特別な手法を用いた心臓移植手術を選択しました」

 俺の目がメリメリと音を上げて大きく見開いていく。

 宮島は中指を折り、人差し指だけが残った。

「過剰な拒絶反応を防ぎ、免疫抑制剤を極力減らす事の出来る方法はひとつ。それは葵嬢の元々の心臓が、葵嬢の身体の中にあれば良い。主治医はあなたの心臓の後ろに、葵嬢の心臓を残す『異所性保存移植法』と言う残置処理を施しました。つまり小野寺葵の身体の中にはふたつの心臓が存在していました」

 見開かれた目には、何度もリピート再生される小野寺葵の姿が写っていた。

「もうお分かりですわね。あの作戦のあと、葵嬢の身体からあなたの心臓だけを取り出しました。今の葵嬢の心臓は、元々あった彼女の心臓です。余談ですが、葵嬢の心臓にあった疾患は無くなっており健全な状態に回復していました。本当にTBって神の御業ですわね」

 おい待て、と言いかけて自分の声が出ていない事に気付く。だが宮島は俺が何を聞きたいか分かっていた。

「では今のあなたは一体誰の身体になっているのか。それをお知りになりたいのでしょう? 喜んでお教えしますわ」リピート再生されているスクリーンの左隣に真四角なスクリーンが現れ、そこに乱れた白髪に眼が窪んだ皺だらけの老婆の顔写真が映し出された。

「小倉香苗さん。あなたと同じRH-ABのTB保有者ですわ。お気の毒にも長い間植物人間状態で政府管理の医療機関に入院されていました。回復の兆しも無いので、ご家族と話し合い延命措置の中止並びにご遺体を献体して頂く許可を頂きました。呼吸器を外し医師による死亡の確認後、正式に死亡届は受理されました。法的にも道義的にも小倉香苗さんは現世に存在しておりませんの。それらの手続きを全て終えた後に、葵嬢から取り出したあなたの心臓を移植しました。それにあなたはご自分で認められましたね、自分は佐村了だと。佐村も正式に死亡が確認されておりますわ。では今のあなたは誰なのでしょう」

 空間が歪み視界が真っ赤に染まる。俺は自分の心臓を探した。

「ちなみに小倉さんは享年86歳でしたわ」

 深紅の世界で、宮島は両えくぼで微笑んだ。

 俺は叫び声をあげ、心臓に意識を集中させた。ドクンと強く波打つと同時に、強烈な痛みが全身を襲う。堪らず仰け反り、身体が前に倒れて行った。

 ――拘束されていない?

 俺は無様にも顔面から床に倒れた。

 前歯が折れ鼻から血が噴き出す。感じた事のない屈辱と恥辱、激痛が身体の中を駆け巡る。

「動かないでと申し上げましたのに。でもやはりTBは神の御業ですわね。あなたの心臓を移植した直後から小倉さんの身体は再生を始めここまで復活いたしましたわ。その際とても興味深いデータが採取されましたの。それはアクティブのTBはその時の身体の肉体の状態を基準として再生している、つまり若返りではなくその時の肉体の原状回復のみ行っていると言うことです。現在あなたのTBは、全力をあげ86歳の身体の原状回復を行っています。まさに不老ですわ。それがどれだけの時間続くのか、研究者達は、それはそれは興味深く観察を続けておりますが、素材として今のあなたの価値は、その程度です」

 俺は油が切れたギアのような首を動かし、血だらけの顔を前に無理矢理向けた。

 低い視線の先には、立ち上がっている宮島の細い足首と、黒いハイヒールだけが見えた。

 閉じた口の中で鈍い音が鳴る。折れた歯の歯茎を押しのけ、新しい歯がゆっくりと生えてこようとしていた。

「あのふたりはTB研究の貴重な素材だけではなく、我が国の危機管理上そして国家戦略上重要な存在になっています。我々は過去の失敗例から学び、現在彼らとは緊張感を持った互恵関係を築いておりますの。我々に第2第3の佐村了は不要です」

 口を開けようとしたが、顎が床に貼り付き動かない。

「私が立ち去ったあと、この施設は地下に埋められ完全封鎖されます。長期間の断食にも耐えるあなたですが、念のためそちらの部屋に水と食料を100年分用意しておきました。その部屋で不老のまま永遠に近い時を過ごされてください」

 ハイヒールのつま先の向きが180度反転し、歩き始めた。

「それではごきげんよう」

 遠ざかっていくハイヒールの音。そしてドアが閉まる音がした直後、部屋の照明が落とされた。目の前のアクリルガラスが鏡面になる。そこにはリピート再生されている小野寺葵達の動画と、小倉香苗の顔写真、そして血だらけの老婆の顔が映し出された。


 2・『名前2』

 航空会社のホームページでフランス直行便の遅延が無い事を確認し、私はパソコンをシャットダウンした。朝の光が入らないよう窓のブラインドが閉じられた部屋は、ディスプレイの明かりが切れると途端に薄暗くなった。

 私は椅子から立ち上がり、パソコンの起動ボタンを長押しすると、緑のパイロットランプが細かく点滅した。

 それを確認し、キャリーバックを引いて薄暗い部屋から出た。

『ストーン法律事務所』と金色で縁取られたプレートが張られているガラスドアを施錠し、そのガラスドアに貼られた長期出張を知らせる告知文を確認して、誰もいない廊下を進んだ。日曜日の早朝、事務所が入居しているビルの中は人の気配すらなかった。ビルを出て歩道を歩く。証券や金融の本社が多いこの街は行きかう車も人も無く、死んだように静まりかえっている。歩道にはビルの影が落ちていて涼しく、ヘリコプターの飛ぶ音が遠くに聞こえる空は、秋の気配がしていた。ガラガラとキャリーバックを引く音がビルに反響する。碁盤の目のように綺麗に区分けされた区画のひとつを通りすぎようとした時、後ろから突然名前を呼ばれた。

「石澤先生」

 私は驚いて足を止め、慌てて後ろを振り返った。そこには禿頭の大柄な男性が杖を点いて立っていた。

「お久しぶりです。菱形です、覚えていらっしゃいますか」

「ええ、覚えています。どうなされたんですこんなところで。何か事件ですか」

 私は驚きつつも、ほっとした表情を作った。

「事件ではないのですが、少しよろしいですか」

 菱形は杖を点きながら向ってきた。

 その顔は柔和な笑顔だった。

「どうしました、その脚。お怪我ですか? 」

「何でもありません、気にせんでください」

 菱形は私から数メートル手前で止まった。

「今お時間をいただけますか」

「申し訳ないですが、今日はちょっと……」

 私はキャリーバックに目を落とした。

「ご旅行ですか? 」

「いえ、地方出張なんです。宜しければその後にでも」

「簡単な質問ですよ」

 菱形は私の言葉を待たず聞いて来た。

「石澤先生のご出身はどちらですか」

 私は眉間に皺を寄せたが、菱形の表情は変わらなかった。

「……長野です」

「御両親はご健在ですか? 」

「父は幼い頃に亡くなっていて母は私が高校の時に亡くなりましたが、それが」

「この写真に見覚えは? 」

 菱形は私に顔写真を見せた。そこにはおさげ姿のセーラー服を着た女の子が写っていた。

「よくそんなものを……私です」

「ええ、高校時代の石澤先生の写真です。でも不思議ですね、今のあなたとは似ていない。まるで別人に見えますが」

 私は答えなかった。頭上を低空でヘリコプターが飛び去ったのだろう、その爆音がビル郡に反響して増幅した。

 その残響は死んだような街に、しばらく鳴り響いた。

「警部、女性に対してその言葉はデリカシーに欠ける発言ですよ」

「気を悪くしたのなら謝ります。いえね、今の方がとても美人だと言っているんですよ」

「その言葉が、デリカシーを欠くと」

 菱形は私の言葉を遮って話しを続けた。

「長野の商業高校卒業後上京。飲食店でアルバイトをしながら大学に進学。そしてなんと大学2年の時に司法試験に合格。優秀な成績で卒業し、その後千代田区の弁護士事務所に就職し今は独立開業。いや凄い、さぞ猛勉強なされたのでしょうな」

 私は答えず睨んだが、菱形は続けた。

「大学に進学した前後から、地元の友人達とは音信不通のようですね。弁護士になったあなたを知っている友人は誰ひとりいませんでした。そして大学生時代から弁護士になった今まで、あなたの顔写真が極端に少ない。無いと言っていいくらいです。写真、お嫌いですか? 」

 睨んだまま黙っていると、菱形は質問を変えた。

「天海沙織、この名前に聞き覚えは? 」

 私は首を横に振った。

「精神科の医師で心理カウンセラーです。本当に聞き覚えは? 」

「……いいえ」

「天海も極端な写真嫌いでね、大学の同期に当たっても無かったんですが、予想外のところから見つかりました。天海はある学校で非常勤の保健医をしていた時期があったのですが、その学校の生徒がこっそり隠し撮りした写真がありましてね。これがまたいい構図で撮れているんですよ」

 菱形はもう一枚、写真を見せた。短髪に赤眼鏡、黄色いアロハを着て女子生徒と一緒に笑っている女性の写真だった。

「この写真とあなたの運転免許証の顔写真を顔認証システムに掛けると80パーセントの確率で同一人物と出ました。理論上、あなたとこの人物は同じと言う事になります」

「警部、これ以上続けると特別公務員職権乱用罪で告訴します。よろしいですか? 」

「そう睨まんでください」

 菱形は軽く受け流した。その時電子音が流れた。菱形は内ポケットから携帯を取り、ボタンを押すとそれを私に向けた。

「いいぞ星野。報告しろ」

「事務所と住宅で爆発物処理班が起動前の爆発物の解除に成功。それと2箇所から採取した指紋、遺留物からのDNA鑑定の結果、予想していた通りです」

 携帯から若い男の声が流れる。

「一致したんだな」

 菱形の声が低くなる。

「はい、全て一致。3人は同一人物です」

「分かった。周囲の状況は」

「涌井警視正から周囲5キロの完全閉鎖の指示が下りました。既に主要幹線は全て閉鎖、地下鉄及び在来線は駅で停車させています」

「よし、気ぃ抜くなよ。他にもあるかもしれん」

「了解です」

 菱形は通話を終えると、携帯をポケットに戻した。

「そういう事だ、そうです」

 爆音が真上で大きく響き、強い風が吹き降ろしてきた。乱れた髪を抑え私は後ろを振り向いた。

 両翼を垂直に立てたオスプレイがビルの谷間を降下し、広い無人の交差点の真ん中に着陸した。開かれた後部ランプから数名の隊員が飛び出し、私たちを囲うように大きく広がって展開する。

 素早い行動だった。30秒も経たず、オスプレイは飛び立っていった。

 強い殺気を感じ視線を菱形に向けなおすと、いつの間にか菱形の左右に2名、計4名の完全武装の隊員が銃口を私に向けて立っていた。

 菱形は目を閉じ、禿頭の後頭部にペタッと右手を置いた。

『狙撃班、位置に着いた。対象捕捉』右隣の隊員の胸にある無線から声が聞こえた。

「了解。その場で待機」隊員が告げると、ザっと雑音が鳴った。

「ここに居る連中は人特研の生き残りもいるし、殉職した隊員の同期もいる。俺はこいつ等の上官じゃねぇから抑えられねぇぞ、だから変な動きするなよ」菱形の口調が変わった。

「柏木とフランス人の野郎も空港で拘束する手筈になっている。諦めろ」目つきも鋭くなっている。

 私はふっと息を吐いて、穏やかな表情になった。

「……どうして、わかったの」

「まあそう聞かれると思ったぜ」

 菱形は内ポケットからノック式ボールペンを取り出し、数回ノックをした。カチカチと音が鳴る。

「良く気づいたわね」

 私は目を細めた。

「俺じゃねぇ。それに謎解き披露も俺の趣味じゃねぇぞ、上がやれって、うるせぇんだ」

「でしょうね」

 菱形は鋭い眼光のまま、ふんと鼻を鳴らした。

「何故佐村が小野寺葵の病気を知っていたか、謎だった。外部に協力者がいるのは明白だったが、佐村が居た環境で外部と綿密に連絡を取るのは不可能だ。だから佐村が部外者と接触した時の映像データを全て再検証した」

「マメだこと」

「捜査の基本だ潰せる所から潰す。だが逆に考えればそんな会話を普通に出来る訳が無い。全て記録されているんだからな。必ず暗号でやり取りをしていた筈だ。そう見方を変えれば、後は簡単だ。会話以外の何かを捜せばいい」

 私は肩を竦めた。

「佐村との接触で音声以外の音を発生させていたのはお前だけだ。お前が、佐村と接見したのはラボ時代も含め確認されただけで12回。その全てに、このノックの音に偽装した暗号化されたモールス信号が記録されていた。公判の時もやっていたとは、大胆すぎて驚いたぜ。そして佐村はそれに目の瞬きで返した。映像解析の結果、完全に双方向通信として成立している。決定的な物的証拠だ」

「全て解読されちゃったのね、お見事だわ」

「こっちにも頭切れる奴はいるからな」

 またふっと笑うと、掌を見せ、ゆっくり両手を上げた。

「投降するわ」

「動機は何だ。復讐か? 」

「それを言ってもどうしようも無いでしょ。でもそうね、あそこで私がどう扱われたかを客観的に検証すれば、それを理解してくれる人はいるでしょうね。でももうどうだっていいわ。それに私もそう時間が残ってないの、早く終わらせましょう」

「本物の石澤裕子はどうした? 」

「さあ、最後に会ったのは10年以上も前よ。どこかでお母さんにでもなっているんじゃない? 彼女意外と家庭的だったから」

 刺すような菱形の眼光の鋭さが薄れる。

「規則では名前と罪状を宣言してから逮捕する手順だ」

 菱形は、じっと私の目を見た。

「警官でなければ、俺はお前の運命に同情はしている。だから選べ自分の名前を」

「見た目と違って優しいのね」私は微笑んだ。

「久しぶりに本名で呼ばれたいわ」

 菱形は頷いた。

「秋川恵、爆発物取締法違反の現行犯及び組織犯罪対策法違反、不正アクセス禁止法違反、公印私文書偽造の重要参考人として、逮捕する」

 私は目を閉じ、他人から呼ばれた懐かしいその名前を、何度も頭の中で繰り返した。


 3・『ふたり』

 穏やかに波立つ大海原と水色の空が、日の光を受けた銀色の水平線によって分けられている。

 その壮大な眺望を一望できる丘の上にその平屋の建物はあった。

 昔ながらのいぶし瓦を葺いた日本家屋の柱や床は、重ねて来た年月で磨かれ、美しい飴色になっていた。

 縁側の引き戸は全て開け放たれていて、海からの潮風が居間に静かに吹き込んでくる。その居間で読書に耽っていた木田は、人の気配を感じて顔を上げた。縁側の向こう、藍色の海を背に月岡が立っていた。

「早かったね、もう済んだのかい」

「定期診断と言っても形式的な事ですから。彼も元気でしたし、あまり長く私が居ると彼女の方が」

 木田は目尻に皺を寄せて笑った。

「気にせんでもいいのに。ああ見えても最近は少しずつ人に慣れてきているんだよ」

「良い傾向ですね」

 月岡も優しく微笑んだ。

「うん、本当に少しずつだけどね。さ、上がりなさい。お茶でも出そう」

 月岡は頭を下げ居間に上がった。

 お盆に載せて来た湯呑と急須を座卓の上に置き、失礼しますと頭を下げ、若い家政婦が居間から出て行った。ふたりは青い香りの湯気が立つお茶を啜りながら、何も言わず自然と縁側の方を見た。縁側と庇で大きく長方形に切り取られた穏やかな海と空は、まさに1枚の美しい風景絵画のようだった。

「本当によい所ですね」

「ここはね、亡くなった妻が選んだんだ。別荘なら私は山の方が良かったのだが、妻は海辺の町で育ったから海が見える土地が良いってね。でも最初の頃は窓や床は潮でベタベタするし、車や洗濯機はすぐ錆びるし散々だったよ」

 月岡は笑みを湛えて耳を傾けた。

「それで良く口喧嘩したよ。でも最後は『海の近くなんだから当たり前でしょ』って必ず言われて、私の負けで終わる。全く理不尽だがね」

 ふたりの表情が綻ぶ。

「でも今は妻に感謝している。終の棲家として、これ以上の場所はない」

「まだ早いですよ」

「ああそうだった、まだ贖罪が終わっていないな」

「いえ、そういった意味ではなく」

「冗談だよ」木田は表情を崩し好々爺の顔になった。

「だがその気持ちを持ち続けなければならん。あまりにも犠牲が多すぎた」

 木田は柔和な表情のまま、どこか遠くを見るように言った。

「葵ちゃんの心臓は数年も経てば衰弱し機能を止める筈だった。その時にそれを摘出する予定だったが、健診の時、確かに動いている鼓動を聞くと……彼女の身体に再び傷を残す事を私は躊躇した。葵ちゃんの心臓が正常に動いているのであれば、佐村の心臓を摘出する決断をすべきだった」

 居間に吹き込んで来る風が、微かな潮騒の音を運んできた。

「私の判断の遅れが多くの人を犠牲にし、葵ちゃんだけではなく彼の人生までも狂わせてしまった」

 暫しの沈黙の後、月岡は静かに話した。

「それは彼が選んだ道です」

 月岡は自然と開け放たれた縁側を再び見た。

 海と空、邪魔するものが何もない広大で自由な世界が、どこまで続いている。

「誰もが望まない形で彼らはアクティブになりました。『アクティブは一生国家に監視され利用される』と佐村は言ったそうです。その佐村の一部がまだ彼の中にあり、その彼のそばに佐村と融合していた彼女がいます。ふたりが常に一緒にいる状況が監視者達の間に緊張感と均衡状態を生みだし、彼らの動きを封じています。それが彼女を守り、再び多くの犠牲を生まないための最良の策です」

 木田は、遠くを見ている月岡の横顔を見つめ、息を吐いた。

「本当に、罪深いことをした」

 木田の言葉は沈んでいた。

 ―覚悟が全て、ですね

 不意に月岡の脳裏に後藤の声が響いた。

 月岡は改めて思う。

 そうだ、覚悟が必要だ。それは後藤だけではない。

 我々も、そしてこの世界にも必要になる。タカチホブラッドの暴走した力を目の当りしながら、我々はその力の源を貪欲に知ろうとしている。それはかつて人類が原子の領域に踏み込み、核の火を手に入れた時と同じだ。人類の飽くなき探求心は、やがてタカチホブラッドに秘められた、大いなる力の根源に達するだろう。

 莫大な力が生み出す光と影。

 それに畏怖を覚えながらも、その先にどんな困難があるとしても、人類はその力を我が物にしようとする。

 それが人類、ヒトの本質なのだから。

 だがその時、人類に何が起きるか、誰も分からない。

 知的生命体の壮大なパラダイムシフトか、それとも滅亡の厄災か。その覚悟が試されている。

 予測不能な未来は、あのふたりだけに訪れるものではない。

 だから月岡は願う。今見えているこの広く美しい自由な世界は、彼らにも我々にも変わらない姿であり続けてくれ、と。

 月岡は、ゆっくりと視線を戻し、木田を見た。

「未来の事は誰にも分かりません」

 少し力のこもった月岡の言葉に、木田は伏せていた顔を上げた。

「もしかしたら私達の想像を超える未来を、ふたりが作るかもしれません。そして世界がそれを受け止め、正しい変革が起きるかもしれない。だから彼らを信じましょう、そしてこの世界も」

「楽天的だな、君は」

 木田は目尻に皺を寄せた。

「そしてとてもユニークな発想もする。君が葵ちゃんの元の心臓の事を聞きに来た時は心底驚いたよ。だが君のお陰で葵ちゃんは戻って来られた。改めて礼をいう」

 月岡は、いえと呟き首を振った。

「僕ひとりの力ではありませんし、あの時は僕も必死でした。心臓移植で人格転移が起こるなら葵嬢の元の心臓を戻せばいいと考えたまでです。TB保有者の心臓は貴重ですし、それに心臓は他の臓器と違い人工心肺装置を繋げておけば長期間動態保存が可能です。木田先生が葵嬢の心臓を研究用に保存している可能性に賭けました。結果、運が私達に味方しただけです」

 木田は驚いた表情のあと、ふっと笑みを漏らした。

「その発想自体、君の思考の柔軟性と冷徹な客観性を具現化しておるよ。医師ではなく研究者になるべきだったな、君は」

「恐縮です」月岡は微笑んでそれに答えた。

     ◇

 3杯目を飲み終え、それではそろそろと月岡は腰を上げた。

「もうこんな時間か、引き留めてすまなかった」

「いえ、また来月来ます。彼にもそう伝えてありますから」

「楽しみに待っているよ。年寄りの話し相手にもなってくれ」

「よろこんで」

 縁側に腰かけ靴を履こうとした月岡に、思い出したように木田が声を掛けた。

「そうだ、荷物になると思うが、少し野菜を貰って行ってくれないか」

「野菜、ですか? 」

「4人暮らしのこの家には多すぎてね、皆食が細い連中だから余ってしまう」

「家庭菜園でもなされているのですか? 」

 立ち上った月岡は縁側の周りに広がる庭を見渡したが、枝ぶりの見事な松と綺麗に剪定された生垣と芝生しか見えない。

「いや送られてくるんだ、こちらの事情お構いなしに」

 月岡は何処からと問質したかったが、木田の顔は心底ありがた迷惑な顔をしていた。

「構いませんが……野菜はなんです? 」

「トマトとナスだよ、美味しいのだが、何せ量が」

     ◇

 ふたりは、木田邸から少し下った場所にある海と空が一望できるテラスに居た。海へと下る斜面を緩やかに切り取り、平坦に均した場所にレンガを敷き詰めた広々とした空間には、贅沢にもベンチだけが置かれている。テラスの周りは柵を兼ねた低い生垣が囲んでいるだけで、視界を遮るものがない海と空の眺めは、母屋から見る風景とはまた別で、後藤は空に浮かんでいるように感じていた。

 海から吹いて来た風が変わった。乾いた冷たさが含まれている。後藤は空を見上げた。水色の空に、吹き流しのような数本の白い雲が描かれたように浮かんでいる。

 ――崩れるな

 後藤はベンチから立ち上がろうとした。

 その時、右袖を白い手が掴んだ。後藤は座りなおし、その白い手にそっと左手を置いた。

 ベンチの右隣には、車いすに乗った小野寺葵がいた。鍔の広い白い帽子を被り、緑色の細いストライプが入っている白いワンピースを着ている。

 帽子の鍔で葵の顔は隠れているが、葵の顔はまっすぐに海を向いている。そしてその帽子から伸びる光輝く長い銀髪が、風にさわさわと揺れていた。

「あの人は、大丈夫だよ、前にも、会ったこと、あるでしょ、僕と先生の、友達」

 後藤は、ひと言ひと言区切ってゆっくり話した。葵は前を向いたままだ。

「そう友達、月岡さん。木田先生と同じ、お医者さんだよ」

 葵はそのままの姿勢を変えない。

「そう僕と一緒に、君を助けた人たちの、ひとりだよ」

 葵の顔が動きゆっくりと後藤を向く。だが葵の顔は人形のように感情がなかった。

「うん、ここには誰も、君を、傷つける人は、いない。安心して。それより、身体が冷えるのは、よくない。お家に、帰ろう」

 その時、海からの強い風が吹いた。

 後藤が気付いた時には、白い帽子が既に宙に舞っていた。後藤は咄嗟に右手を伸ばしたが、気紛れな風は帽子を翻弄し、右手は空を掴んだ。帽子は後へと飛び去り、レンガの上を転がると斜面との際に植えられた生垣に引っかかり止まった。

 後藤は葵の乱れた長い銀髪を右手で軽く整え、車いすのブレーキがロックされているのを確かめてから立ち上がり、取って来るねと葵に告げた。

 白い帽子は風に微かに揺れていた。

 片膝を着き、手を伸ばして帽子を引っ張ったが、生垣の細かい枝に引っかかり、すぐには取れなかった。

 後藤は帽子の裏に右手を差し込み、生垣の中を探った。チクリと鋭い痛みが人差し指に走る。

 棘かささくれが指先に刺さった。指先に血が滲んでいるのが分かる。帽子に血を付けまいと、慎重に生垣から右手を抜いた。見ると指先にぷっくりと丸く赤い血が浮かんでいる。

 その時、後藤は息を呑んだ。心臓が一気に爆発する。久しく感じていなかったあの感覚が全身を貫く。

 後藤はゆっくりと息を吐き心臓の動きを抑え、自分の全てをコントロールし、ゆっくりと立ち上がり後ろを振り返った。そこには小野寺葵が立っていた。

 葵は光の無い瞳で、後藤に向け静かに両手を差し出した。その手は何かを掴もうとしている。それが何を意味しているのか、後藤は分かった。

 右手を葵に差し出す。葵はその右手を掴むと、後藤の吐息が掛かる程に近づく。海風が葵の銀髪を乱す。後藤の右手を優しく包んだ葵の両手は、やがて血が滲んでいる人差し指だけを掴んだ。後藤は乱れ髪の中で葵が微笑んでいるように見えた。

 ゆっくりと顔を指に近づける。

 葵は血が滲むその人差し指を、愛おしそうにそっと口に含んだ。

 

                                     完

 

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タカチホ・ブラッド ケン・チーロ @beat07

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