15・ファースト・キス
1・『決着』
激しい斬撃音と衝撃波が、宮島の遠のいていた意識を引き戻す。防護されず唯一むき出しになっている頬に、大気の震えをビリビリと感じる。
2回目の失神……宮島は鉄臭さが満ちている口の中で、奥歯をギリリと噛んだ。靄の中にあった意識が鮮明になっていき、脳幹から走る神経電流が脊髄を駆け抜け上半身から下半身、四肢の末梢まで行き渡り、宮島は起動した。同時に左上腕と左大腿からの激痛が宮島を襲う。その2か所の骨は完全に折れていた。ぐぅっと喉の奥で叫び声を殺した。見開いた目の網膜にバイザーに搭載されていて虹彩認証が反応してヘルメットの暗視装置が再起動し、周囲の映像がバイザー内に投影される。高い天井が見えた。顔を右に向けると口から血を流して床に臥している浅尾が見える。目を閉じ血の味がする嘆息を吐く。視覚が無くなった途端、耳には激しく激突する金属音が聞こえた。宮島はそれが超人たちの殺し合いだと分かった。
目を開き、激痛に歯を食いしばりって耐え、唯一動く右手を伸ばし手探りで腰のあたりをまさぐる。ホルスターにまだ拳銃がある事を確認すると静かにゆっくりと首を上げ、同時にホルスターのホックを外し、拳銃をするりと抜く。バイザーには床近くから見上げた角度でフロア全体が見えたが、後藤達の姿は捉えきれない。ただフロアを震わす衝撃波と、同時にランダムに浮かび上がる閃光だけが見えた。それは佐村と後藤がぶつかり合っている場所だ。
宮島は殺意が滲み出ないよう、指の運動をするかのように自然に撃鉄を起こし、銃口をフロアに向けた。
◇
葵の振り下ろした黒い刀を、後藤は同じ素材で作られたシャフトで受ける。金属音と共に文字通り電光石火の火花が盛大に散った。重なったふたりの動きが刹那、止まる。
火花で照らし出された葵の瞳の奥に、後藤が映り込んでいた。後藤の瞳にも、葵の姿がある。その時突然、地響きのような音が鳴り響き、同時に雷光のような閃光がふたりを貫く。
後藤の身体感覚が消失し、意識だけが、眩い閃光の中に溶け込んでいった。
――白い部屋? いや、違う。そう思うと同時に意識が急速に薄れていくのを感じる。
その時、後藤は驚くべき悟りに達した。
――佐村と、融合する
同一固有振動数でフルシンクロしている60兆を超える後藤の全細胞は、肉体という柵を超越し、眼前にいる佐村の全細胞に共鳴していた。そして、佐村と後藤の自我意識さえも。
後藤の中にある殺意が、怒りが、恐れが、愉悦が、正邪の概念が、剥がれ、削られていく。そして幼い頃からの記憶も、他者と共有している思い出も、死線の越えた戦いの理由も、自分を形作っている全ての意識の境界が曖昧になり、薄れ、消えていく。
轟音鳴り響く光の中で、後藤は無我の境地に達した。
そして寸毛の間を置いて、同じく無我になった佐村を感じる。
隣り合うふたつの水滴が、どちらからともなく近づきひとつになるように、ふたつの無我も吸い寄せられるように近づいてく。
ふたつの無我は、触れ合うと同時に混ざり合い、解け合い、ひとつになった。
突如、眼前に果てしなく広がる赤茶けた大地と鉛色の空が現れた。
風も音も、枯れた草木すら無いその荒野を、ボロを纏った細い人影が、足を引きずりながら必死に走っている。その時、黒い空間が人影の背後に現れ、そこから無数の手が伸びていく。その無数の手は、獲物を捕らえる触手の様に人影を掴むと無理やり闇の中へ引き込んだ。
闇の中、引き剥がされたボロの中から現れたのは、皺だらけの老人だった。老人は王冠を大事そうに抱え、赤と金の錦糸で飾られた高貴な服を着ている。表情は醜く、恐怖に怯えていた。闇の中からまた無数の手が伸びる。王冠を奪われ、服を破く。裸体になった老人に、数多の手が襲い掛かる。老人の手足は強く引き伸ばされ、やがて千切れ、血が噴出す。胴に噛み付いた指が皮膚を破り、肉ごと毟り取る。大きく開かれた口の中に腕が入り、引き抜かれた手には内臓が握られていた。
眼球も
やがて老人の身体は血だらけの肉塊の骸になったが、それでも闇は、おぞましい陵辱を止めなかった。無音の世界で、後藤は老人の断末魔を聞いた。
何の前触れも無く突然視界は暗転し、荒野は消え去った。
軽い浮遊感を覚えた直後、後藤に意識が戻り、正に我に返った。それと同時に凶暴な殺意が押し寄せて来るのをヒリヒリと感じる。
後藤と葵は先刻と同じ体勢のまま睨みあっていた。
刀越しの葵の顔が歪み、ニヤリと笑った。その顔は佐村に見えた。「驚くべき体験でしたが、後藤さんもお分かりになりましたね。私達は昔から存在していたようですね。あの老人は私達のご先祖様ですわ。アクティブになれば昔は王様にでもなれたでしょうが、それも時間の問題。アクティブが切れれば殺されます。殺されなくても金の卵を産むガチョウだと思われて解剖されたのでしょう。今も昔も変わりませんね。私との因縁を切っても、後藤さんも何れはあのような運命を辿るのですよ」
後藤は無言のまま、葵の笑顔をじっと見つめた。
「さあどうなされます、後藤さん? 」
右手に力を込め、受けていた刀を振り払い後藤は距離を取った。葵も逆方向に飛び、再びふたりは対峙する。一息つく間もなく、両者は床を蹴り、倒すべき敵に襲い掛かった。
◇
死闘は拮抗していた。鋼鉄を紙のように簡単に切り裂く音速の切っ先も、コンクリートを砂糖菓子のように砕く重い打撃も、見えているなら何も怖れることはない。葵と後藤だけの時空間の中で、両者は互いに
後藤は小さな痛みを感じ始めていた。体内に埋め込まれたマイクロチップから放出される麻酔薬が限界に近づいている。それが切れれば、既にオーバーロード状態の後藤は激痛に襲われ動きが止まる。速度を落としても同じだ。それを葵の中の佐村が見逃す訳がない。後藤の活動限界を察知して、一気呵成に襲い掛かってくる。しかもまだ葵の動きは鈍っていない。活動時間が倍になったというのは本当だと実感する。膠着状態も時間の問題になってきた。
一瞬の隙が死に直結する状況だが、後藤には最後の手段が残っていた。しかしその手段を使える可能性は現状ではほとんどない。後藤は限られた時間の中でそれを使うタイミングを秘かに狙っていた。
◇
何度も繰り返された攻防。同じ間合いを嫌った後藤が、大きく後ろに跳んだ。葵も間合いを変えるべく後ろに跳ぶ。フロアの両端にふたりは降り立った。両者が動きを止めて対峙するのは、久しくぶりのことだった。後藤は気取られぬよう、深く息を吐いた。
その時、突き刺す殺気を感じた。
葵と同時に超感覚を飛ばす。殺気の発生源はすぐに分かった。宮島が今まさに引き金を引いた時だった。発射された弾丸の射線上には葵が居る。だが葵はそれを避ける事は容易だった。
後藤の目が泳ぎ、葵を離れ一瞬だけ視線が宮島に向けられた。
――駄目だ
葵との死闘の中、後藤が見せた唯一の動揺だった。その心の微かな動きを、葵の中の佐村は見逃さなかった。
葵はいともたやすく弾丸の軸線から身体をずらすと、ほぼ同時に刀を宮島に向け放った。無防備になった葵の口角が上がり、不敵な笑顔になった。
後藤は床を蹴って大きく横に跳ね宮島の元に飛ぶ。これが佐村の策略だと分かっていても今宮島を失う訳にはいかない。この戦いの後処理に宮島は必要になる。利用価値は高い。
高速で飛翔する黒い刀は宮島に真っすぐ向かっている。後藤は速度を上げた。
矢のような刀が宮島に到達する直前で後藤は追い付き、シャフトを下から振り上げ刀を弾き飛ばした。オフマットブラックの刀は回転しながら天井高く飛んで行く。左脚を床に突き刺す。大理石の床は轟音を上げ砕け散り、後藤は急停止した。その左足を軸にして身体を回転させる。宮島を庇うように背を向けた時、後藤の目前に葵の顔があった。細くなった三日月の目が冷酷な殺意に満ちている。
「この程度ですか。私はもう飽きました、終わらせましょう」
ドン!
鳩尾に葵の小さな拳が突き刺さった。その衝撃はろっ骨を砕き、後藤の内臓を破裂させ、背中から抜けていった。意識が消し飛ぶ。葵は細い右足を折り畳み、前蹴りを放った。拳が当たった同じ場所に蹴りが入る。
後藤は、クレーンが入って来た巨大な開口部から建物の外へと、蹴られた小石のように吹き飛んでいった。
宮島は目の前で繰り広げられた目で追う事が出来ない黒い影の死闘が、後藤の敗北である事を突如現れた小野寺葵の姿で悟った。
歯を食いしばり震える銃口を葵に向ける。
宮島の右手が銃ごと床に叩きつけられた。葵のローファーが宮島の右手を踏みつけていた。
「あなたには後でお話があります。大人しく寝ていてください」
葵は煙草をもみ消すように足首を捻った。骨が砕かれる鈍い音がローファーの下から鳴った。宮島の口から、絶叫が上がる。
葵は足を上げると宮島から離れ、後藤がいる場所へとゆっくり歩いていった。
◇
後藤は、建物から遥か遠くの砂利の上に倒れていた。
仰向けになった後藤は、左脇腹に親指と人差し指、中指を突き立てていた。3本の指は皮膚を突き破り第三関節までが体内に侵入していた。指先で体内を探り、マイクロチップをふたつ掴むと一気に体内から抜き、クスリの放出を強制的に止めた。ほぼ同時に、生きたまま身体を切断されたかのような激痛が襲い、後藤は悶絶した。
削岩機が岩を砕く轟音が体内に轟く。全身が発火し燃え上がったたような熱を感じる。微かな呼吸でも肺が破裂する痛みが走り、気道に溜まった血が逆流してきて咳と共に口から噴き出した。
皮肉なことに、繰り返し襲ってくる地獄の激痛が、後藤の意識の喪失を防いでいた。後藤はひたすら耐えた。ここで耐えなければ、これまで犠牲になってきた多くの人達の死が無駄になる。そして小野寺葵と自分の命も。
しかし身体の再生に全力を向けている間、あの超常の動きは出来ない。葵を行動不能にするパイプ注射も破壊された。
……まだ半分……まだ…… 再生の度合いを感じつつ、息も絶え絶えに後藤は呟いた。再生が進むに従い、激痛も徐々にだが、引いていく。しかしある程度再生したとして、力を残している葵と闘えるまでには回復はしない。
寸毫で良い、葵の虚を突く瞬間があれば、最後の手段を使える可能性がある。だがそんな瞬間が、この先訪れるとは思えなかった。
後藤はうっすらと口を開いた。その口の中に、冷たい雨が入って来た。鉄の味の後、その冷たい水は甘露の味がした。その時ヘルメットの中で微かな電子音が鳴った。
◇
纏わりつくような霧雨が、セーラー服姿の葵を濡らす。砂利を踏む音を消し、葵は後藤に近づいていった。後藤はまだ仰向けのまま倒れていた。右手に握られていた特殊警棒は見当たらなかった。
罠か……葵は周囲に感覚を飛ばしたが人の気配はない。後藤からは動く様子も、殺気も発せられてなかった。葵は後藤のすぐ横に立ち、見下ろした。後藤の目は虚ろで、薄く開いた口の端から血が流れ出ている。胸の動きはゆっくりと上下していて、右手は掌を上にして指は力なく折り曲げられ、左手は左わき腹に置かれていた。
「案外あっさりと終わったな。安心しろ、すぐには殺せねぇよ。葵の身体が結構長持ちしそうなんでな、お前はその後だ」
後藤の表情は変わらず虚ろなままだった。
「つまんねぇぜ後藤君よ、もうちょっと粘ってくれよ」
葵は身を屈め左手で後藤の襟首を掴もうとした時、嗅いだ事のある薬品臭を感じた。
「なんだテラフェンタニルを持っていたのか? 」
葵は後藤の胸に手をやり、潰れて液が漏れたパイプ注射を抜き出し、そのまま後ろに放り投げた。
「残念だったな、後藤君」
葵はほくそ笑みながら後藤の胸倉を掴もうと手を伸ばした時、殺気とは違う別のザラリとした不快な感覚を、上空から感じた。天を仰ぐ。白い雨と黒い雲しか見えない。
――何だ?
航空機なら音がするはずだが、山間に吹く風の音しか聞こえない。ドローンの類でもない。葵は舌打ちをして超感覚を上空に向け放った。
◇
コクピットは照明が落とされ計器類を映し出すディスプレイも輝度を最低限まで落としていた。ほぼ暗闇のコックピットの中、パイロットはバイザーに映し出されているロックオンされたレーザービーコンだけを頼りに、文字通り手に汗握りながら操縦稈を小刻みに操作していた。嵐は収まりつつあったがそれでも山の上空を吹く風は不規則な動きで、エンジン切り、グライダーと化して急下降しているオスプレイを翻弄していた。
――何度も無茶な事ばかりいいやがる、あのクソガキ。曲芸飛行じゃねぇんだぞ
パイロットは毒づく。レーザービーコンは地上にいる後藤のヘルメットから照射されていた。オスプレイは、レーザー誘導により、後藤目掛け急降下していた。
◇
――オスプレイ!
葵は気付いた。
テメェ!! 葵が後藤の胸倉から喉元を掴みなおそうとした時、後藤の目が大きく見開き光が戻っているのを見た。
「今だ! 」
後藤は天に向かって叫んだ。
後藤の心臓が破裂しそうなほど大きく脈動し、後藤の身体に流れていたタカチホブラッドが瞬間沸騰した。全細胞がシンクロし、巨大なエネルギーを発生させた。その力の全てを右腕に集め、上半身を左に捩じりながら右腕を大きく振った。大きく弧を描く右手に連動して手首に括りつけていた吊り紐とその先にある警棒が、覆い被さっていた砂利を弾き、飛び出してきた。
葵の左頭部めがけ警棒が飛んでくる。後藤に近づきすぎた葵は後ろに下がるしか逃げ道は無かった。葵は頭を大きく仰け反らせ、後方に跳ぶ。直後警棒の鈍い銀色のシャフトが、凶暴な勢いで葵の鼻先を切り裂いて行った。
◇
ゴオォンと低い音が上空から降って来る。低い雲を突き抜け飛行灯も消されたオスプレイの黒い機体が姿を現した。コクピットではあらゆるアラームが鳴り響いていた。
「今だ!」
後藤の声がパイロットの鼓膜を破るほどに響いた。
ガキが! 悪態を吐いてパイロットはオスプレイのエンジンに火を入れ操縦稈を力の限り引く。オスプレイの全ての機能が息を吹き返す。同時に機首にあるサーチライトが爆発的な光線を後藤達がいる地上目掛け照射した。光の瀑布は葵の視界を奪った。網膜が焼ける痛みを感じる。葵は思わず片腕で顔を覆った。
再び火が入ったオスプレイは爆音を奏でながら機首を上げ、失速寸前の高度で機体は上昇に転じた。手を伸ばせば機体下部に触れると思える程の高さをオスプレイが通り過ぎていく。
身体を吹き飛ばされるほどの突風が地上を襲う。
「撃て! 俺に構うな! 」
後部にあるサーチライトからも強烈な光が照射され、地上を照らし出していた。オスプレイの後部ランプは開け放たれ、3人の隊員が地上に機関銃とミニガンを向けていた。後藤の言葉に弾かれるように隊員達は引き金を引く。
無数の火線が容赦なく地上に降り注いだ。
葵は更に地を蹴り、後ろに跳んだ。荒れ狂う風の中を、超感覚を頼りに弾幕を避け闇へ逃げる。無数の火線は着弾し、砂利の柱を盛大に上げた。葵は砂利を巻き上げながら地面の上を滑り、片膝を着いて着地した。銃撃は止み、オスプレイが再び低く垂れこめる雲目掛け上昇して行った。葵は素早く立ち上がり目を開いた。後藤の気配を探す。
葵の中の佐村に、生まれて初めての感覚が走る。
それは戦慄だった。
自分の背後に、バイザーを降ろした後藤が音も無く立っていた。
振り向く間も無く後藤は葵を後ろから抱きしめ、同時に葵の細い左手首に手錠を掛けた。その一方は後藤の右手首に繋がっている。右手首を強く掴み、両腕の動きを封じた。後藤は左手で首を巻くように前から廻し、掌を葵の右頬に当て力強く捻り、顔を横に向かせた。
後藤は奥歯を強く噛みしめ、左肩越しに自分の唇を葵の唇に被せた。葵の目が大きく見開く。もがく葵の細い身体を後藤は抑え込んだ。葵の少し開いた口に舌を滑り込ませる。後藤の口の中に溜まっていた血が、葵の口の中に流れ込んだ。
ドンっと鈍い衝撃が後藤を貫く。葵の細く尖った左肘が無防備な後藤の左脇腹に突き刺さっていた。その衝撃に後藤の顔が歪む。だがそれでも後藤は唇を離さず更に強く押し付ける。左肘が再度脇腹に叩き込まれた。後藤の腰が折れ、身体が葵の背中に覆い被さった。後藤の力が緩む。
葵は口内に入り込んでいた後藤の舌を食いちぎった。千切れた舌からは血が噴き出て、一気に後藤の力が無くなる。葵は重なっていた唇を振りほどき、手錠で繋がっている右腕を掴むと腰を落とし、一本背負いで後藤を投げ飛ばした。後藤は、背中から激しく地面に叩きつけられ、大きく開かれた口から血飛沫が上がる。
ベッと口の中に残っていた後藤の舌の一部を吐き出し、葵は上空を睨んだ。オスプレイの爆音は山間に木霊し、遠ざかっていた。
葵は左手首を引っ張られた。視線を下に向けると驚いたことに後藤が立ち上がろうとしていた。身を捻り左手で地面を押し、片膝を立ててヨロヨロと中腰まで立ち上がった。
葵は右袖で口から流れ出る血を拭いながら、後藤のボロボロになった迷彩服の胸倉を掴んで引き寄せた。後藤の顔は半分バイザーで隠れているが、口からは黒い血を流れている。
手錠で繋がっているお互いの手はダラリと落ちている。
「この状況で何トチ狂ってやがる、真正の変態かよ、後藤ぉぉ! 」葵は叫んだ。
「終わりにしようぜ、佐村」
意外すぎる言葉に、葵は眉を顰めた。
「……あと何秒残っている? そっちもそろそろ切れる頃あいだ」
「それがどうした。一秒でもあればお前を八つ裂きにできる」
「殺さないんじゃなかったのか? 」
「お前、自分がスペアだから殺されないと思っているのか」
「年下なんだから先輩との約束守れよな」
「いきがってんじゃねぇロリコンがぁ! 」
「うるせぇよ、喚くな」
後藤は力なく笑った。
――なんの余裕だ?
葵は不気味さを感じた。
「……お望み通り殺してやるよ」
葵は手錠を引き千切ろうと意識を集中させ、心臓を大きく脈動させた。
ドクンと心臓が大きく跳ねる。その時、葵の視界に異変が生じた。
――なんだ?
闇の中でも見えていた視界が急速に狭まり、天地の感覚も怪しくなる。それと同時に手足の感覚が急速に消失していき、更に心臓の動きも感じられなくなった。
「何しやがった? 」
葵は掴んでいた胸倉を離し、無意識に胸に右手を当て、セーラー服を強く握った。後ろによろめき、ふたりの距離が少し離れた。
後藤は葵がしたようにベッと、口から何かを吐き出した。それはあまりにも小さく見えなかったが、その何かは砂利の上で跳ねた。
「マイクロチップ……心拍を抑えるクスリが入っている……」
それは月岡が施したふたつ目の仕掛けだった。麻酔薬のマイクロチップの更に奥に、アベザンジアが仕込まれたマイクロチップを埋め込んでいた。後藤はそれを噛み砕き、心拍を抑えるアベザンジアを大量に放出させていた。
葵は歪んだ顔で後藤を睨んだ。
「俺は急激な心臓の動きを……クスリでどうにか制御していた。それをお前に流し込んだ……今のお前はただの中学生だ」
「だから、テメェ……」
葵はあの接吻の意味を知った。血だ。あの口に流し込まれた血の中には、薬剤が大量に溶け込んでいた。
「舌を……噛み切ったのはまずかったな。テラフェンタニルも交じっているから、そろそろ効き目が現れる時間だ」
葵は右手を後藤の喉元目掛け突き出した。力がまだ残っているうちに後藤を殺さずには気が済まなかった。だが身体全身から力が抜けていく。
限界を超えた速度で脈動していた葵の心臓の動きは、クスリにより急制動が掛けられた。身体中を高速で駆け巡っていたタカチホブラッドも通常の流れになり、シンクロしていた60兆ある全身細胞の固有振動数のネットワークが切断された。
それでも葵は後藤の喉元を毟り取ろうと、細い指を大きく広げ、激痛が走る右手を無理矢理伸ばした。僅か数10センチしか離れていない後藤との距離が遥か遠くに感じる。周りの景色もゆっくりと流れていった。蜘蛛が脚を広げたような細い指が後藤の喉に届く寸前、その右手はいとも簡単に後藤の血塗られた左手で掴まれ、動きを止められた。
「言っただろ、今のお前はただの……小野寺葵なんだよ」
殺意に満ちた葵の瞳は、落ちて来た瞼によって閉じられようとしていた。悪鬼の表情が薄まっていく。葵の口がゆっくりと動く。
「小野寺葵……じゃあ俺を……俺をどうする気だ? 俺と葵は、同じ……だ」
消えていく声を絞り出した後、葵の顔は微笑みを残したまま、目を閉じた。
「どうにか……するさ」
後藤は息も絶え絶えに呟いた。
力を失った小野寺葵の身体は倒れ込み、後藤はその細い華奢な身体を抱きとめた。
『応答してくれ後藤君、無事か』後藤の耳に聞き覚えのある声が聞こえて来た。右上を見上げる。バイザー内に小さなウィンドウが開き菱形の顔が映し出された。
「無事です……佐村を確保しました。佐村も、小野寺葵も無事です」
菱形の顔が静止画のようになり動きが止まる。遠くからローターの低く重い回転音が聞こえて来る。後藤は続けた。
「回収願います。でもまだ伏兵がひとりいます。警戒してください」
『こちら佐久田一等陸佐、了解した。生存者は何名か分かるか』
「……僕と佐村、宮島さんだけしか……わかりません」
『了解した。我々は君の直上で警戒に当たる、ビーコンは切らないでくれ。後数分で後続が到着するが、それまで持ちこたえられるか? 』
「なるべく早くしてください。もう僕も身体が……」
そう言い残すと、後藤は残った最後の力を振り絞って小野寺葵を更に引き寄せ抱きしめると、背中から地面に倒れて行った。背中が地面に叩きつけられたが、後藤にはもう痛みを感じる事もなかった。
バイザーに降り注ぐ雨は白く輝く光の粒に見える。
その粒は視界全体に広がり、優しい光のカーテンになって後藤と小野寺葵を包み込む。
後藤の耳に爆音が聞こえて来る。その音を遠くに聞きながら後藤は目を閉じた。
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