第2話
始まりと終わりは同質の物事だ。
見る視点でそれが持つ意味が違うだけ。
始まりと終わりは、常に同じ結果を見せているに過ぎない。
∮
冴原はつい去年まで私立探偵として働いていた。
私立探偵という非常に曖昧な職であるが、個人で始める前は師匠とも仰ぐべきこの道の先達の下で数年働いて探偵という仕事のノウハウは身に着いているつもりだった。
事の始まりは去年の7月半ば。ある男性の浮気調査の仕事を持ちかけられた冴原はいつものようにその仕事を受けた。随分羽振りの良い客で、予定通りこなせれば少なくとも8月末までは生活に苦労することはない額で話はついた。
サラリーマンで言えばボーナスが支給された時の感覚を冴原は覚え、決して表情には出さないものの内心笑みを隠しきれないでいた。
夏の雨が蒸し暑い夜だった。飲み屋を3軒ハシゴするターゲットをもう見飽きるほど追い続け、女を連れてホテルへ入っていく背を見送った時だった。
最悪だ、と冴原は仕事用の車内で呟いた。好きなように飲み歩き、女を侍らせて夜の情事へ勤しむ男と、それを暗がりでじっと見つめながら秒単位でどこで何をしていたかをメモに書き記す男。望んだ道ではあるが、それでも時には華の無い仕事ぶりに嫌気が差す時もある。そういう頃合いは決まってキンキンに冷たくした瓶ビールを呷りたい気持ちに駆られた。全てを投げ出して熱いシャワーを浴び、パリパリに乾いたシャツに袖を通してからビールの刺激を喉で受けたくなるのだ。
けれど当然そうはいかない。事前に持参したプロテインバーを齧りながら仮眠用にスマートフォンのタイマーを15分だけセットした時だった。
着信があった。知らない番号だ。本来仕事中に知らない番号から電話に出ることはないが、その時は何故か出てしまった。
画面をスワイプする指先が自分の意志とは別の力で動くように感じた。そして、指先が緑色の通話開始のアイコンの上で止まって離れた時、通話に応じた後悔が足の裏から全身を駆け抜けるようだった。
『今日で廃業だな、探偵さん』
「人違いじゃないか?」
『受けるべきじゃなかったんだよ、アンタ』
「金に困ってるんだ。この仕事を受ければヨーグルトを割引テープが貼られるまで待たなくても買えるもんでね」
『ともかく、その探偵ごっこも今日で店じまいだ。……最低限の衣服は残しておいてやった。他はもう不要だろう?』
「何の話だ?」
『すぐにお家に引き返せば分かるんじゃないか?』
やられた、と冴原は思った。相手に全てバレていた。
こういう時に選ぶべき選択肢は2つある。1つはこのまま仕事を続行。もう1つは大人しく相手に従う。相手を出し抜けるカードが自分の手元にあるなら仕事を続けてもいいだろう。だが、往々にしてそう都合良くはない。大人しくエンジンをかけて自分のオフィスへ法定速度を越えるギリギリを攻めながら戻るのが1番良い。
「……はぁ?」
まず最初に出た言葉はそれだった。
オフィスには何もなく、スーツケースが1つだけ。机も、電球も、冷蔵庫も、パソコンも、ソファも何もかもが無い。一切が運び出された部屋の中央に自分のスーツケースが1つだけ置かれ、そして──
「よう冴原。お前、何やらかしたんだ?」
「尾神……?」
旧知の顔があった。尾神だ。
「連絡が来たんだよ。今トイレに行ってる瀬良にもな。お前の事務所に来いって」
尾神がそう言うとトイレから瀬良の声が聞こえた。
「ちょっと、タオルも無いの!?」
膝の力が抜ける。
慌てて冴原を支えると尾神が慌てた様子で言った。
「おい、何これくらいでショック受けてるんだよ」
「これくらい?……これくらい、か?!俺の仕事が潰されたんだぞ!」
「仕事で済んだら世話ねえよ」
「どういう意味だ……?」
「お前が寝に帰るだけだったマンションが引き払われてる。車も無えぞ」
「……はぁ!?」
尾神に見せられた不動産のページには自分が住んでいたはずの部屋が空き室として売りに出されている。
「車……車は!?」
「知り合いに見に行かせたら停まってなかったそうだ。お前、マジで何やらかしたんだよ?」
「最悪だ……」
スーツケースの中は最低限の下着類だけ。わざわざスーツケースにするまでもない量に呆れるしかできなかった。
「とりあえずここから出たほうがいいんじゃない?」
と、瀬良。
「ここももう冴原の事務所じゃないんだし」
「行くにしても……とりあえず落ち着けるところに行かないとだよな」
尾神が思案する。瀬良は窓の外を見渡すと小さく呟いた。
「もし、私が冴原をハメた奴だったら」
冴原と尾神の視線は自然と瀬良に注がれた。
彼女の黒目がちな瞳は視線を真っ直ぐ外の景色に向けている。
「管理してる建物に不審者が入った、とか適当な理由つけて警察呼ぶね」
「……」
「てことは……」
遠くで赤い光が反射したのが見えた。音はまだ聞こえない。が、光はゆっくりと近づいてくる。
「行くよ。とりあえず、あそこならまだ開いてるでしょ」
∮
ロングタンブラーの底に溜まったミントの葉をストローでかき混ぜるようにすくい上げ、尾神は中のアルコールを胃に流し込んだ。
「やっぱ堪んねえよな、こう蒸し暑い夜のモヒートは」
1回の吸引でグラスの半分ほどを飲んだ尾神は言った。
バー『フュー・モア』。3人にとって馴染みのある場所であり、近場にあって深夜に駆け込める場所はここしかなかった。
「で、何。整理すると、お前は仕事してたらいきなりこうなった。……それだけ?」
「ああ」
「じゃあ依頼主がグルだな。お前、前に受けた仕事で何か恨みでも買ったんじゃないか?」
「人の私生活を付け回すんだ。恨み買うのが仕事だよ」
「ははぁ、言うねぇ」
それに、と尾神は付け加えた。
「依頼主の女には連絡したのか?」
「もう何度もかけ直してるけど繋がらないんだ」
「クロじゃねえか」
「顧客のファイルも残ってないから、彼女の情報は名前と見た目しか分からない……」
ハイボールを飲み干してコースターの上に置いた瀬良が一言「ふうん」と声を漏らすと続けた。
「なんて名前?」
「石巻アヤ」
「ありきたりな名前」
ああ、と冴原。
「探せないだろうな」
「でもこの辺りにいる奴だったら、探しきれないってことはない。人雇って誰かの仕事を潰すくらいの事ができるやつなんてのはそう居ねえ」
何かを思いついたのか、得意げに笑うと尾神は言った。
「奴らにバレねえように探りゃあいい。今までどおりの生き方でな」
「つまりどういうことだ?」
「無届けにはなっちまうが、もう1回探偵……いや、探偵って名乗るとアシがつくか。幸いなことに人の悩みなんざ消えることはないからな。解決してやるのもいいだろうよ」
「おい、何かお前だけで話が進んでないか?何が言いたいんだよ、結論から言ってくれ」
パチン、と尾神が指を鳴らす音がバーの中に小さく響いた。
「街の問題解決屋だよ。昼はそれをやりながら一般人目線でこのあたりのことをもう1度見つめ直すのもいいんじゃねえか。お前はそれができるんだしよ」
「簡単に言うけどな、俺の客は前の事務所から引き継いだ人とその口コミが大半だったんだ。それらを失った今どう客を呼び込めって?」
「その面倒は俺と瀬良がやるよ」
「は?私?」
「問題は、だ。俺が話したいメインはここから先」
ずぞぞ、とストローから吸う音がグラスの底を這った。ストローの穴にミントの葉が詰まり音が鈍くなると眉間にシワを寄せてコースターとグラスをカウンターへ突き返す。
「夜はここで活動する。ここはこの街の中じゃあ決して無名の酒飲み処じゃねえ。街の夜で生きてる奴らだったら誰かしらは名前くらいは知ってるか、ここで飲む奴はいる」
「ここで聞き込みか?」
尾神は首を横へ振った。
「ここで演奏する」
「……は?」
尾神の言葉が冴原の脳内で分割されて木霊した。
ここで、演奏する。
演奏する、ここで。
バー『フュー・モア』で、演奏をする。
「何を?」
「俺らの共通項と言ったら、やっぱジャズだ」
「学生のノリで話してるのか、お前?」
「1割は。いや、2割かも。……とにかく、俺らでバンドを組んでここで演奏をする。そうすれば少なくとも客に俺らは認知される。フュー・モアで演ってる3人組だってな」
「顔がバレたらまずいだろ」
「いやそれが良い。バンドの人間として面が知られればここらを拠点にして活動する理由になるからな。堂々と動けるってもんだ」
「そういうもんかよ」
「だが賭ける価値はある話だろ?」
白熱した話に区切りがつく。
それまで様子をうかがっていた瀬良が小さくため息を吐いた。
「多分、尾神のとこにも来たんでしょ」
「にも?瀬良、どういうことだ?」
冴原に問われた瀬良はうんざりした様子を隠さなかった。
「連絡を受け取った時に私達も脅されてんの。少なくとも今までどおりにはいかないって感じ」
「そんな……どうしてお前たちが?」
「多分だけど、今のアンタに一番関わってるのが私達だからじゃない?」
とはいえ、と瀬良は続けた。
「会うのは2年ぶりだけど」
「つーわけで、だ。冴原の昼の活動については一旦後。まずは俺達の身の振り方として……どうだ、バンド。良い案だろ?」
「俺達3人が?」
そう、と尾神が肯く。
「ピアノなんてもうしばらく触ってないよ」
「そう言うな。……マスター、ステージの楽器借りていいかな?」
そう尾神に問われたマスターは拭いていたグラスを棚に仕舞うと小さくお辞儀しながら言った。
「懐かしいトリオの復活を聞かせていただけるのでしたら、是非」
「そう言わないでくれよ。俺達が揃って楽器やるのももう何年ぶりだか……」
そうは言いながらも進んでドラム椅子に座り、シンバルや太鼓の高さを調節している。店が貸し出してくれるスティックを握ると尾神は懐かしそうに目を細め、未だカウンター席に座る2人に声をかけた。
「早く来いよ。とりあえず、ナウ・ザ・タイムだ」
冴原の日常は終わりを告げた。
今までの生活はもう戻らない。
ベースの弦を1本ずつチューニングする度に、舞台に幕が降りる感覚が指先に生まれる。
しかし、ずれたチューニングが正される時、音は生まれる。
新しい生活がステージに降りてくる足音はピッチの整った音だった。
「1、2……1、2ッ!」
この日、始まった。
昼は街の問題解決屋。
夜は街を片隅で音を届けるジャズバンド『グッド・バッド・アグリー』。
誰がハメたのか。
何のためにハメたのか。
絶対に突き止めるという信念を指先に込めて、冴原は最初の1音目を弾いた。
グッド・バッド・アグリー カラミティ明太子 @Calamity-Mentaiko
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