グッド・バッド・アグリー

カラミティ明太子

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第1話

 弦が震える。振動は音を生み、アンプを通じて拡大されて空間に響き渡る。

 太く伸びのある低音が体内時計の秒針を、心臓の鼓動を、呼吸のリズムをテンポ190へ整える。首が自然と横へ揺れるような音の繋がりはまるで背骨にメトロノームを埋め込まれたように、聴衆の鼓動に溶け込むように違和感のないリズムで音楽を届けていく。

 ベースが決めたテンポ感を補強するドラムのシンバルレガートは静かに澱みなく、決まった時間を刻む時計の秒針のようでいてその中に情念の一つずつを詰め込んでいるようだった。2と4で踏むハイハットは鋭く締まっていて奏でるリズムにただそれだけで終わらないメリハリを与えていた。

 スネアドラムの上で踊るように跳ねるブラシの音色は粒がしっかりとしながらも常に底を這うように音が残り続け、ドラムとベースのデュオが生むサウンドに太い味わいとうねりをもたらしている。

 ベースとドラムが作り上げたナイル川よりも広大なリズムの上を軽やかに進むのがピアノであった。譜面にはメインのフレーズと曲のコードしか書かれていない。他は全てアドリブ。弾く内容はその日の気分で全てが変わる。お転婆な少女のような顔を見せる時もあれば、保守派な老人で居続ける日もあった。

 時折試すようにコードから逸れた音を出せばベースがそれを拾い、ドラムが「どうした?」と言わんばかりにスネアで返す。

 演奏中に交わされる僅かな視線のやり取りの他にコミュニケーションはいらない。お互いの音を聞き、ただそれに答えるだけ。

 余分なものが一切削ぎ落とされた彼らだけのコミュニケーションは音楽として届けられ、聴く者を惹き付ける。

「Yeah!」

 演奏を終えると奥の客席から若い声がする。拍手の量も多い。バーの中を貸し切って開く小さなリサイタルにしては客の入りは上々だ。

「お聞きいただいたのはビル・エヴァンスのナンバーでワルツ・フォー・デビーでした」

 バンドマスターのベーシストがマイクを片手にMCをする。その額と首筋には薄く汗が滲み、ウッドベースに少し持たれるように立っていた。

「続きまして、本日最後のナンバーです──」

 観客たちによる彼らの曲が終わってしまうことへの落胆の色を見せられることが3人にはたまらなく嬉しく、背筋にむず痒さを覚えるような高鳴りを感じさせた。

 ドラムのカウントが始まりを告げる。

 熱狂の時は過ぎ去り、火照った熱を帯びる余韻の夜の幕開けと、その日最後の曲の開始を。



 午前5時前だった。

 店も閉店となる時間帯には演奏を聞きに来た客は誰も残らず、ステージに上がっていた彼ら3人だけが各々カウンターやテーブル席で思い思いに時間を過ごしていた。

「だからよ、フロントにサックスを立ててやったほうが良いって」

 カウンター席に座るドラムの尾神が言った。

 店内には自分たちとマスターしかいないというのにその声量は大きく、必要以上に自身を誇示しているか、もしくは単に難聴気味なのかを疑わせるほどだった。

 この話題はもう何度目になるだろう。うんざりして2人は無視を決め込むが尾神の喋りは止まらなかった。

「演れる幅も広がる。お前らだって内心そう思うだろ?」

「じゃあ聞くけど」

 このバンドのバンドマスターを務めるベースの冴原がおつまみの乾煎りされたアーモンドを一粒口に含み、噛み潰すと言った。

「サックスのアテ、誰か居るわけ?」

「いや……うーむ、おい瀬良、お前どうよ?」

 2人の視線は奥のボックス席でスマートフォンをいじっていたピアノの瀬良に注がれた。

 端末から少しだけ目線を外して2人を見返すと小さく首を横に振る。

「別に。無いよ」

「あー、何だよもう!」

 というか、と冴原が言う。

「お前が昔紹介してくれた人を呼ぶんじゃ駄目なのか?」

 1回だけゲストで来てくれた女性を思い起こしながら冴原は問うがそれには頑として首を縦に振ろうとしない。

「もう無理だ」

「サックスやめたとか?」

「いや、少々難しい話になる」

 尾神がそう言う時は決まって痴情のもつれだった。

 はぁ、とため息をつくと冴原は両手を挙げてみせる。

「はい、この話は終わり」

「頼むぜ冴原よぉ、そこをどうにかお前のツテで良い人見繕ってくれねえか?」

「見繕ってお前何人食ったよ?ええ?」

 まるで数時間前まで聴かせていた演奏が嘘のような息の合わなさを露呈している彼らは、2週に1回を標榜しているが実質不定期に活動するジャズトリオ『グッド・バッド・アグリー』である。

 演奏の曲目は多岐に渡り、往年のスウィングからコンテンポラリージャズなど悪く言えば指針のない、良く言えばジャンルを選ばない演奏と技量の高さから界隈ではゆっくりと強い熱を帯びてきているバンドであった。

 バンドの方針で喧嘩をするのはもうこれで10回目などではない。この様子を録音して彼らが大成したときに聴かせてやればどんな顔をするだろうかとマスターは時折考えるも、そうすることはせず決まって彼らの喧嘩が白熱した時には熱いコーヒーを1杯提供していた。

 バー『フュー・モア』は至って普通のバーだった。日が暮れてから開業し、夜明けと共に店を閉じる。提供するメニューは酒と、軽食と、少しの音楽。毎日雑多なジャンルのバンドが入れ代わりここのステージに立って演奏をしている。

「はい、これ飲みな」

 冴原が座るテーブル席と尾神のカウンターにそれぞれコーヒーカップを置くとマスターは2人のグラスを回収した。

「おい、俺まだ飲んでんだけど?」

「飲み過ぎだよ尾神クン」

 で、とマスターが言う。

「冴原クン、今日は“残り”なの?」

 時計を見てから冴原は肯いた。

「そう。じゃ、鍵ここ置いていくから」

「いつもすみません」

「冷蔵庫にサンドイッチ入れといたから、後で食べてね。それじゃあ」

 マスターが裏口から帰って行った。それと入れ替わりでカウンターの中に入った尾神が冷蔵庫を開けて感嘆の声を漏らしていた。

「すげえ。マジでサンドイッチ作ってあるわ」

「何時に来るんだっけ?」

 と瀬良。

「場合によっちゃ今すぐ食べたほうがいいんじゃない?」

「俺は今食うぜ。ちょい早い朝飯だ」

 彼らは思い思いの朝を過ごす。陽は昇り、時間は朝7時になった時だった。

 CLOSEの看板が立っているはずの正面の扉が開かれる。鈴の音が静かに響き、不安げな顔をした女性の顔が現れる。

「あの、冴原さん……はどなたでしょうか?」

「あー、こっちです」

 冴原が手招いて客をテーブル席へと促す。瀬良がコーヒーを2人分テーブルへ置くと再びボックス席へ戻り、尾神は入口近くに立って外の様子を伺った。

「尾行は無い」

 尾神の報告に肯いて冴原が言う。

「話、聞きましょうか」

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