後編

 明くる日、ニザは無事に目を覚ました。太陽がその姿を現し、ムラは賑わいつつあるようだった。とはいえ、日の光を避けて建てられた倉庫の中はやはり薄暗い。朝、というにはもの寂しい。

 グクスは無防備に熟睡しているようである。ニザは拍子抜けしつつ、グクスの体を乱暴に揺らした。


「んー……え、なに、もう起きたの……?」

「朝だろうが、普通だ」

「いや、僕たちって昼間にできることなんてほとんどないんだから、今のうちに寝とかないと」

「おい、また寝る気か、情報交換はどうなる」

「もうひと眠りしてからで十分間に合うったら。狼さんも寝ときなよ」


 グクスは細い目をほとんど開きもせずそう言って、本当に再び寝てしまった。

 ニザはまた起こしてやろうかとも考えたが、グクスの言うことも一理ある。余所者があちこち嗅ぎまわっていると悟られるわけにはいかない。不満は山ほどあるが、夜狩よかりに備えると思って今は体を休めることにした。




 ニザは短い間隔で寝たり起きたりを繰り返した。やがて太陽が空のいただきを通り過ぎ地平へ傾きかけた頃、ニザはまたぱちりと目を開けた。ようやく、グクスが身を起こす気配がしたのだった。


「流石、狼さん。これで起きちゃうのか」

「……俺はニザだ。狼の部族ではあるが、それが俺の名ではない」

「ニザ、ね。改めてよろしく。さて、腹ごしらえしながらお待ちかねの情報交換といこうか」


 そう言って、グクスは奥の藁壺わらつぼから果実や木の実を取り出してニザの前に並べた。どれもまだ瑞々みずみずしい。


「これ、元々倉庫にあったものじゃなくて、彼女への捧げものの一部を分けてもらってるんだよね。彼女一人じゃ食べきれないからさ」

「アムヤは、お前のことも知っているんだな」

「そりゃまあ、僕は七日ほど前から来ているからね」


 グクスは木の実をかみ砕きながらニザの方をじっと見ると、大げさに溜め息をついた。


「なんだか全然信用してくれてないみたいだから、先に僕のことを話しておこう。昨夜言った通り、僕はわにの部族の毒使い。『黒き岩』の霊を宿した人間がこのムラにいる、って言うのを聞いて長老から送り出された。たぶんそれはあなたと一緒だよね。ここの倉庫は、持ち主と取引してしばらく貸してもらっている。息子さんが長患ながわずらいしているから、うちのムラでしか採れない薬草を融通してね。だからとりあえずは、本当に安全」


 グクスのにやついた顔が気に食わないが、その話におかしなところはない。先を促す代わりに、ニザはナイフでザクロを剥いて齧りついた。ぷちぷちと果肉が弾け、爽やかで甘い汁が口に広がる。中の種をごりごりとかみ砕きながら、血のように赤い汁が口の端に滲むのを拭う。それを見ながら、グクスは肩をすくめた。


「ニザ、あなたは獅子の部族についてどれくらい知っている? 僕はここに来るまでさっぱり知らなかった。獅子という気高い獣の名を冠してはいるけれど、実際のところ、ここらはなかなか厳しい土地だよ。草を食む獣は牙のある獣と常に取り合いになるし、水場からは一番遠いし、実のなる木は生えにくい。あなたが食べてるそのザクロも、交易で手に入れたものかもしれない。そんなとき、彼女が生まれた」


 ニザはその手に赤い汁を滴らせるザクロをまじまじと見つめた。ニザもまた、獅子の部族のことはほとんど知らなかった。狼の部族にとって森は身近で、ザクロも珍しいものではない。しかしグクスの話を信じるならば、交易で手に入れるような貴重なものをアムヤへ捧げているのだ。そしてそれを今、自分が口にしている。ニザは、まるで口の中に血の味が広がったかのように感じた。


「彼女と昨夜ゆうべ話したんだろう、どうだった?」

「奇妙な女だ。確かなことが何一つ無い」

「少し違うかな。何も無いんだ、生まれた時からね」


 ニザが不審そうに首を傾げるのも構わず、グクスは子供にお伽話でも話すように言葉を続ける。


「彼女には心と呼べるものが無かった。泣きもせず、怒りもせず、笑いもせず。そんな子供は異常だ。獅子の部族の人々は恐れた。腹を痛めて産んだ親すら彼女を遠ざけた。それでも彼女は変わらない。年嵩としかさの者たちの命じるまま、小さな手足にもできる仕事をした。──或る日、彼女は水場へ水を汲みに行った。そこには他にも人々がいて彼女を遠巻きに見ていた。すると水辺に潜んでいたわにがざぱりと姿を現して、彼女に大きく口を開いた。人々はもう駄目だと思ったけれど、彼女はただじっと鰐の目を見ていた。そうしてしばらく見合っていたが、やがて鰐はゆっくりと口を閉じて水の中へ消えていった……彼女が『鰐を退しりぞけた』という話は、瞬く間にムラに広がったらしい」


 グクスは実に楽しそうに唇を歪めた。だがその目はニザを試すようにじっと見据えている。


「別の或る日、彼女は木の実を採りに、遠くの森へ入った。他の女たちと一緒だったらしいけれど、いつの間にか一人はぐれて迷子になった。女たちも一応探したが見つからず、諦めて帰った次の日、彼女は一匹の狼と共にムラへ帰ってきた。狼は彼女を送り届けると、あっという間に走り去ってしまったという。

 それからまた別の日。彼女は草原で獅子の子を見つけた。彼女はそれに構わずムラに帰ったが、獅子の子は彼女に付いてきてしまった。親が探しに来るのではと人々は恐れて、獅子の子を何度も草原に帰したが、いつも彼女の元に戻ってきてしまう。彼女は獅子の子と共に育つことになった。しかしそれはムラの食糧を獅子に分け与えることになる。獅子の子が立派なたてがみの生えた雄の獅子になる頃、人々はこの獅子を殺すことに決めた。彼女は何も言わなかった。彼女の部屋にある敷物は、この獅子の皮だというよ」


 信じがたい話であった。しかしグクスが嘘をつくならば、もっと真実味のある話にするだろう。それに昨晩アムヤと対峙したニザは、彼女ならばあり得る、と頭のどこかで考えてしまう。


「『わに退しりぞけ、狼を従え、獅子と眠る』。一人の人間にこれだけの逸話が、しかもこの辺りにとって象徴的な生き物の形をもって現れたんだ。その上、彼女には喜びも悲しみも無い、それ故に動じない。まるで『黒き岩』そのもののように。獅子の部族の人々は、それにすがったのさ」

「だから夜ごと列をなしてアムヤを崇めるというのか」

「誰から始まった願掛けだかわからないけれどね。でも、それだけじゃない。昨夜あなたと入れ違いにやってきたのは、このムラの長老だ。獅子の部族は、いくさを起こそうとしている。彼女を名分めいぶんとしてね」


 やはり、とニザはいっそう表情を険しくした。このムラに入った時から感じていた、不気味に高揚した空気の正体がこれである。ニザは深々と溜め息をついた。


「部族が三つもこの狭い土地に集まれば、こうなるのも必然か」

「あはは、なかなか難しいことを言うね、狼さん」


 グクスは大して面白くも無さそうに笑うと、床に手をつき立ち上がった。


「さて、そろそろ僕たちも外へ出られる時間だ。今夜も行くだろう? 彼女の元へ」






 前の晩と同じように、ニザはアムヤの家へ聞き耳を立てた。その傍にはグクスも控えている。「昨夜も近くにいたのか?」とニザが尋ねると、グクスは黙ったままにんまりと笑った。ニザほどの狩人であっても、グクスが本気で気配を消せば感じ取れないのだ。やはりこの男は信用できない、とニザは改めて思った。

 アムヤの家で行われていることは、昨夜とおおよそ同じであった。人々の願いはありふれていて、切実で、アムヤはそれを受け止めはしないが拒みもしない。水に流されるまま、風に吹かれるまま、アムヤは身を任せている。そこに彼女の意思は感じられない。彼女を信じる人々にとってはそれで充分なのだ。彼らの満ち足りた表情に、ニザは複雑な気分であった。

 しばらくの後、アムヤの訪問者が途絶えた。ニザはグクスの方をちらりと見遣ったが、彼はその笑顔を横に振った。一人で行け、ということらしい。

 ニザは新たな人影も見えないことを確認し、アムヤの部屋へ入った。


「やぁ、ニザ。来ると思っていたよ」


 振り向いたアムヤは、可愛らしい花冠をその頭に載せていた。その顔に表情というものが見えないことを除けば、可憐な乙女そのものである。

 ニザが一瞬言葉に詰まっていると、「ああ、これか」とアムヤは丁寧に編まれた花冠から、花を一輪すうっと抜いた。


「他に捧げられるものが無いから、と言ってね。私から差し出せと言ったことなどないのだけれど」


 そう言ってくるくると指先で花を弄ぶアムヤを見ていると、ニザは無意識に呟いていた。


「どうしてそんな顔をしている」


 アムヤは黙って小首を傾げた。その拍子に花冠が頭から滑り落ちて、床に小さな花弁が散る。


「口許だけで無理に笑うな。笑いたくなってから笑えばいい」


 勢いに任せてニザがそう言うと、アムヤは水晶のような目をほんの少し見開いて、答えた。


「すまない、これはもう癖でな。幼い頃、私を不気味に思った母親が『どうせ顔が変わらないのなら笑っていろ』と言って、躾けられたのだ。体には痛みを感じるもので、すっかり沁みついてしまった。今更やめられない」


 ニザはぐっと拳を握りしめた。余計なことを言うものではなかった。アムヤといいグクスといい、作り物の笑顔が気に食わなかったのだ。


「許せ、ニザ。私の狼。お前の心が乱れているのはわかるが、それが何なのか私にはわからぬ」


 ニザに歩み寄るアムヤの足が、床に落ちた花冠の端をぐしゃりと踏む。それを気にも留めず、アムヤが腕を伸ばしてニザの頬を手のひらで包んだ。

 ニザはそれを振り払うように顔を背ける。


「お前は、このままでいいのか。こうして他人の望みを垂れ流されるばかりで」

「それではいけない理由が、やはり私にはわからない。嗚呼、でも──」


 アムヤは言いかけて、どこか遠くを見るようにニザの顔をぼんやりと見つめた。


「ここは私がいるべき場所ではない、という違和感はずっとある。水の中に炎が燃えているような。獅子に育てられた兎のような。私と他の皆とは、きっとことわりが違うのだという感覚が」


 そのふっくらとした唇には変わらず微笑みをたたえて、アムヤは他人事のように自らを語った。


「夫を持ち子を為せ、とかつては私も言われていた。このムラにおいては当然の役割だ。だが私には、子を孕むたいが無かった。夫を受け入れる場所も無い。この股の間から血を流したことは無いし、これからもあり得ない。それがわかった後だったよ、私がわにやら狼やらに出会ったのは」


 ニザは何も返せなかった。しかしそもそも、アムヤはニザの言葉を待ってはいないのだった。アムヤは未だ手の中に持っていた一輪の花を、ニザに差し出した。


「そう、だから、お前こそが私の望みと言えるかもしれない」

「俺が?」

「私はずっと、お前を待っていたのだもの」


 何故、とニザが問う前に、アムヤがしいっと彼の唇に指を当てる。


「今夜はここまで。さあ、狼のごとく夜を駆けるがいい」


 ニザはアムヤに追い立てられ、来た道をグクスと共に戻るしかなかった。






「情報交換とは名ばかりだな。俺はお前に借りばかり増えていく」


 ほの暗い倉庫の中、ニザはグクスに言った。それを聞いたグクスは少し目を逸らした後、珍しく苦笑いした。


「案外そんなことはないだけれどね。でも、それなら折角だし狼さんの話を聞かせてよ」

「アムヤのことはお前の方が知っているのだろう」

「そうじゃなくて、あなた自身のこと。それから、あなたから見た彼女のこと」


 ニザは戸惑い、目をしばたかせた。もとより口の立つ方ではないが、そう言われれば答えざるを得ない。


「俺は……狼の部族で狩人をしている。物心ついたころから獣を狩ってきた。槍よりも弓の方が得意だ。妻がいたこともあるが病で死んだ。子はいない。それで、あー、長老からアムヤの噂を確かめるよう言われた。『黒き岩』の霊を宿しているという話が嘘ならば殺せと、真実ならば──」


 ニザはそこで言い淀んだ。アムヤを自らの手で殺した上でその肉を喰うのか、と今更にぞっとした。

 力のあるものを喰い、その力を自らの中に取り込むということは珍しい話ではない。だがニザはまだ、人の肉を喰ったことは無かった。まして言葉を交わしたことのある人間を喰うことなど。


「彼女の力を狼のものにしようってことだろう? まあ、大方予想通りだね」


 グクスは平然と言ってのける。彼は人の肉の味を知っているのだろうかと、ニザは無意識に顔をしかめながら思う。


「それで、あなたはどちらだと思う?」

「…………まだ、わからない」


 へえ、とグクスは意外そうに声をあげた。


「まだ何か疑問がある?」


 そう尋ねるグクスに、ニザはしばらく考え込んでから、一言一言を置くようにゆっくりと答えた。


「アムヤが毎晩やっている儀式に、アムヤの意思はない。願いと、アムヤと、『黒き岩』とを結び付けているのはアムヤ自身ではない。アムヤを信じる者たちがしていることだ。彼らにとってはそれが真実で、拠り所となっているのもわかる。だが俺にとってはまだ、アムヤはアムヤでしかない」


 グクスはいつものにやけた顔でふぅん、と相槌を打った。


「ニザ、あなたって結構優しいんだね」

「何の話だ。お前の方こそ、アムヤをどう考えている?」

「僕? 僕はねぇ──」


 答えるグクスの頬は火照り、目は潤み、うっとりとした表情を浮かべていた。ニザは、グクスの胡散臭い笑顔とはまた別の気味悪さにぞっとしたが、お構いなしにグクスは語る。


「最初は信じていなかった。いや、信じる信じないに関係なく、僕は彼女を殺さなけらばならなかった。獅子の部族にいくさの理由を与えてはならない、というのがうちの部族の決定だったものでね。だからこのムラに着いて早々、僕は腹を空かせた毒蛇を彼女の寝床に忍び込ませた。そろそろ頃合いだろうと確かめてみるとどうだい、僕の放った蛇は彼女の傍らですっかり大人しくなっているんだ! たじろぐ僕に、目を覚ました彼女は言ったよ。『私の息が止まるのは、狼の矢がこの胸を射抜いた時だけ』とね」


「だからね、狼さん」とグクスはニザに詰め寄った。


「彼女も僕も、ずっとあなたを待っていたんだ」

「どういう、ことだ? 何故俺を?」

「……それはたぶん、僕が話すことじゃあないね」


 グクスは一瞬悔しそうな顔をした後、すぐにまた満面の笑みを貼り付けてニザに言った。


「今夜も行くだろう? 彼女があなたを待っている」






 その夜は、前の二晩とは様子が違った。

 家々に灯る火が、ふつり、ふつりと消えていく。濃紺の空に昇る月は、日に透ける獅子のたてがみのごとき黄金色。人の声はしないのに、原野の草のざわめきが耳障りなほどに響く。影に潜み、獲物に飛び掛からんとする獣の気配。ニザはムラの異様な空気をその肌にひりひりと感じていた。


「おかしい、決行はまだ先だったはず。早められたのか……!」


 焦ったようにグクスが口走る。彼も知らない事態が起きているようだった。


「今夜が最後になるかもしれない。行くしかないよ、いいね」


 グクスはニザの返事も待たず闇夜へ滑り出す。それをすぐさまニザも追う。気がはやるのか、前を行く足取りはいつも以上に速い。ニザはグクスほどその足音を消せている気がしなかった。平らな水面みなもに小石を投げ込んだときのように、自らの足音がこのムラへ波紋を広げてしまうのではないかと不安に駆られる。それでも今は、行くしかないのだ。

 辿り着いたアムヤの家は、暗く静かだった。いつもならばまだ火が焚かれ、人々が訪れる時間のはずである。だが周囲にも人影は無い。

 ニザとグクスが窓辺に忍び寄ると、二人の緊張をうやむやにしてしまいそうに柔らかな声が中から囁いた。


「おいで、今なら大丈夫。獅子の群れはここにはいない」


 二人は黙って顔を見合わせると、どちらからともなく長い息を吐き、家の中へ侵入した。


「長老や呪術師がやってきて、今夜は客人は来ないからこの家も火を消してくれ、と言う。だからといって眠れやしないから、お前を待っていた」


 今この時も、アムヤだけが変わらなかった。流石に声を落としてはいるものの、彼女の佇まいも、うっすらと口元に浮かぶ微笑みもそのままだった。


「他の部族に私というものを知られないよう、客人を夜に来させていたのだろうに。しかしこうしてお前たちが来ているのだから、それも大した意味はなかったか」


 アムヤはニザが最初に訪れた晩と同じに、獅子の敷物の上へ肘をついて横たわっていた。彼女の姿を見て安堵を覚えたニザは、「嗚呼、だからか」と心の内で得心した。生まれた時から同じ場所に住み、その中心に『黒き岩』が在るのもニザにとっては当たり前だった。だが何物にも乱されない、変わらないものというのは、こうも心を救われるものなのか。だからこそ『黒き岩』を、アムヤを求めるのか。それがニザには、この時ようやくわかったのだった。

 そんなことを知る由もなく、グクスはアムヤの前に膝をつく。


「間に合って良かった。獅子どもがそこまで追い詰められていたなんて」

「不猟が続いたのだとか。明日の日の出と共に始めるらしい。狼の部族からだそうだ」


 アムヤがふっとニザへ目を向ける。それを正面から受け止め、ニザは落ち着いた声で言う。


いくさか」

「そうだ」

「お前は、俺のことを“望み”だと言ったな」

「ああ」

「何故、俺なのだ」


 問われたアムヤはゆっくりと立ち上がり、ニザへ歩み寄る。


「さて、それは私の決めたことではないから。しかし、そうだな」


 アムヤはニザの顔を見上げた。窓から差す月の明かりは二人の足元を照らしている。その暗闇の中に、二対の瞳が星のように光る。


「お前が、お前だからかもしれぬ。私のうろに私を探し、私よりも私のことで思い悩むお前だから」

「相変わらず、アムヤの言葉はよくわからない」


 ニザは苦笑した。ニザは以前ほど、アムヤの迂遠うえんな言葉が嫌いではなくなっていた。だがそれを聞くのもきっと、これが最後だという強い予感があった。アムヤがと言う感覚も、こういうものなのかもしれないと、ニザは思った。

 アムヤにくるりと背を向けて、ニザは彼女の家を後にした。彼が振り返ることは一度もなかった。その後ろを、グクスがのっそりとついて行った。






 

 ニザとグクスは隠れ家の倉庫へ密かに戻った。夜明けまでにはまだ時間がある。グクスは仮眠するべきだと諭したが、ニザは腕を組んで座ったまま、目を閉じようとはしない。やがてグクスは呆れたように溜息をついて、「任せたからね」と言い残してどこかへ去ってしまった。そのままニザはまんじりともせず、ひとり朝を迎えた。

 外がにわかに騒がしくなる。まだ薄暗いというのに、夜の冷えた空気を忙しなく行き交う人々が搔きまわしていく。緊張と興奮をないまぜにした男たちの声が増えていく。不安を滲ませまいとする女や子供の声がそれを囲む。

 ニザは頭巾をしっかりと被り、弓矢を背負って倉庫を出た。


 獅子の部族たちは自分たちのことで精一杯で、ニザには気付かない。ニザは静かに倉庫の屋根にのぼった。

 男たちはそれぞれ槍や弓を手にして、ムラの中心の広場に集まっていた。武器を持たない者たちはその周りに寄り合って始まりを待っている。アムヤの家の近くで見たことのある者の顔もあった。

 その時、かつて水瓶を頭に載せていた少女が「アムヤ様!」と叫んだ。人々が一斉に振り向くと、がらんと人気の無い道を御輿みこしがやってきていた。

 丸太を組んで作った御輿を四人の男が運んでいる。その上には見覚えのある獅子の敷物が敷かれ、そこにアムヤが座っていた。いつも長く垂らしていた黒髪は編み込んで結い上げ、色鮮やかな鳥の羽根で飾られている。胸元や手首には骨や石を繋いだ装飾品を身に着け、御輿が揺れる度にじゃらじゃらと鳴った。口の端を上げたまま固まった唇と、遠くに向けられた瞳だけが静かだった。

 わっと人々が御輿に群がる。アムヤ様、アムヤ様、と口々に名を呼び、雄叫びを上げ、足や武器を鳴らす。そうして広場までやってくると、待ち構えていた獅子の部族の長老が両手を上げて叫んだ。


「時は来た! 今こそ我らの力を見せるのだ! 草原だけが我らの土地ではない。『黒き岩』の力の及ぶところ、その全てが獅子の部族に与えられる! 我らにはその化身けしん、アムヤがついているのだから!」


 高揚に顔を輝かせる者、殺気をみなぎらせる者、感極まり泣き叫ぶ者。彼らに囲まれたアムヤが御輿の上でおもむろに立ち上がった。すると渦巻く熱狂が急激におさまっていく。皆が彼女の言葉を待っていた。


 ニザは倉庫の上で、手製の弓矢を静かに構えた。矢をつがえ、ゆっくりと引いたつるがぎりぎりと音を立てる。

 アムヤが本当に『黒き岩』の霊を宿した者なのか、ニザに結論が出たわけではなかった。しかしそれが真実ならば、その霊はやはり人の中にあってはならない。在るべき場所へかえすべきだ。そしてそれが偽りであるなら、一人の女を寄ってたかって利用して良いはずがない。だから、ニザにはやるべきことだけが決まっていたのだ。

 あるいはその考えこそが最も身勝手なのかもしれない。けれどアムヤはニザを“望み”だと言った。それならば彼は、それを叶えてやりたかった。


 アムヤは広場をぐるりと見渡して、薄紅色の唇を開いた。


「さあ、お前の望むようにするが良い」


 その声は決して大きくはなかったが、しっかりとニザの耳にも届いた。

 瞬間、矢を放つ。

 雷光のように矢は飛んで、真っ直ぐにアムヤの胸を貫いた。


 何が起こったのか、すぐに理解した者はいない。一人が甲高い悲鳴を上げ、それを合図に恐慌が巻き起こる。御輿が下ろされアムヤに人々が駆け寄るが、その体はもはや紛れもなくからであった。それでも尚、口許に笑みを浮かべて。


 ニザは素早く屋根から飛び降りた。腕の良い狩人ならばすぐにこの場所を悟られてしまうだろう。見つかる前に抜け出して、狼の部族にいくさを知らせなければならない。

 とそこへ、音も無くグクスが現れた。


「こっちだよ」


 先導するようにグクスが前を走る。このムラに来てから彼を追ってばかりだな、とニザも駆けながら思う。グクスの示す道は人々の視界を避け、うまくムラを出ることができたが、狼の部族のムラへはかなり遠回りになってしまった。


「とりあえずこの辺でいいかな」


 人の入ったことも無さそうな寂し気な木立こだちまでやってきて、ようやくグクスは足を止めた。二人の荒い息がしばらく続いた。


「助かった。いったいどこにいたんだ」


 あらかた息を整えたニザが言うと、グクスはにこやかに微笑んだ。それはニザが彼を見た中で唯一、本心からの笑顔だと思える表情だった。


「こちらこそ。あなたのおかげで、僕の念願も叶ったんだから」


 そう言ったかと思うと、グクスは目にもとまらぬ速さで何かを投げた。咄嗟に避けきれない。ニザの首筋に小さな傷がついた。

 途端、手足が痺れたように動かなくなり、ニザの体がばったりと倒れた。首筋はじんじんと疼くが、不思議と痛みは無い。だが痙攣するばかりで一つも体を動かせないばかりか、次第に呼吸もできなくなっていく。


「本当に感謝しているんだ、人としての彼女を殺してくれて」


 かろうじて動く眼球を動かしてグクスを見上げれば、にっこりと笑った顔にぼろぼろと涙を流していた。


「だって彼女は本物なんだから。あんなところに居ちゃいけないんだ。人が好き勝手触れていいかたじゃないんだ。だから彼女も帰りたがっていた。僕は知っているんだ。あなたが来るよりも前からずっと。だけど──」


 きん、と遠くなるニザの耳へ、グクスの慟哭がぼんやりと響く。


「だけどあなたを許すこともできないんだ。だって彼女はいなくなってしまった! あなたのせいで! あなたが殺した! 彼女が求めたのは僕じゃなかった……せめて僕の手で死なせてあげられたらよかったのに。ニザ、どうしてあなたなの? 僕はこんなにアムヤ様を愛しているのに!」


 ニザは答えることができなかった。グクスが言い終えるよりも前に、ニザの鼓動は止まっていた。

 グクスはニザの死体の前でひとしきり泣き叫んだあと、一人ふらふらと去って行った。






 それから『黒き岩』の周りでは、大きないくさがあった。獅子、狼、わにの部族が入り乱れ、それぞれが大いに消耗した頃にようやく終結した。その結果、分かれていた部族は一つにまとまらなければ生活を維持できなくなり、ここに『黒き岩の部族』が生まれた。やがてまた人の数は増え、農耕が始まり、『黒き岩』はいよいよ信仰を集めたが、そこへ北方から統率された兵士が攻め込んできた。彼らはあっという間に未開の部族を制圧し、彼らの国に取り込んだ。その国の人々は邪教の象徴たる『黒き岩』を破壊しようと試みたが、彼らでも削り取ることすらできなかった。


 だから今も、『黒き岩』と呼ばれる巨岩だけが変わらずそこに在る。

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虚ろなる者 灰崎千尋 @chat_gris

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