虚ろなる者

灰崎千尋

前編

 それは、人々の間にまだ国という境目もなく、あらゆる生命が等しい重さであった頃。


 天高く輝く太陽と乾いた風の支配する地、そこに生きる人々があった。彼らは、大陸へ蛇のように長く伸びる川に沿って遊動ゆうどうしながら、草原の獣を狩り、丘に生える木々の実を採って暮らした。川は彼らの命を支えたが、時に全てを押し流し、時に干上がり、大地の形を変えていった。風が通り過ぎれば、あらゆるものが砂塵へとかえった。そうして人々は、変わらぬものの無いことを知ったのだった。

 しかし或る部族は、この地でただ一つ「不変」と思えるものと遂に出逢った。それは砂丘のほど近くにそびえる巨大な黒い岩であった。下部は土に埋まり、何人がかりで押そうとも動かない。すべすべと滑らかな面もあれば、泡のはじけた跡のように小さな凹凸の広がる面もある。乾いた風に晒されても、別の石を使って削り出そうとしてみても、その巨岩は決して形を変えることが無かった。いつしか彼らは、その岩を『黒き岩』と畏れるようになり、その周りに定住するようになった。


 時は流れ、『黒き岩』の周りを住処と定めた部族は三つに増えた。

 太陽の昇る方角、湿地にはわにの部族。太陽の最も高くなる方角、草原には獅子の部族。太陽の沈む方角、台地には狼の部族。この三つの部族が、時に争い、時に手を取り合い、巨岩に祈りながら暮らしている。




 ニザは、狼の部族の青年である。黒い髪を短く刈り、精悍な顔立ちは滅多に表情が崩れることはなく、褐色の引き締まった身体から放たれる矢は逃げる兎や暴れる牛の目をも射る、優れた狩人であった。

 月の下、狼の遠吠えがいつまでも止まない晩のことである。ニザは長老の家に呼ばれた。


「来たか、ニザよ」


 家の中央には炉が焚かれ、紅い炎がゆらゆらと揺れている。その灯りに照らされる顔は長老のものと、もう一つ、呪術師の顔であった。


「呪術師もわしが呼んだのだ。お前に頼みたいことと関わりがあるのでな」


 ニザが訝しんだ気配を察した長老が言う。呪術師はそれを気にする様子もなく、炉の炎に飛び込んでいく羽虫を目で追いながら「いざなうなわなうもののなは」などと、奇妙な言葉を呟いていた。ニザは、この呪術師の言葉の意味をわかった試しがない。

 呪術師の方を極力気にしないようにしながら、ニザは長老の正面に腰を下ろした。


「それで、頼みたいことというのは」


 仕切り直すようにニザが低い声で言うと、長老はうむ、と頷いて話し始める。


「実はな、先日獅子の部族のムラまで交易(部族間の物々交換のこと)に出かけた者が妙な噂を聞いたらしいのだ。なんでも、あのムラに『黒き岩』の霊を宿した者がいるのだとか」


 そこまで言って、長老は炉へ薪を放った。ぱちぱちとぜる音。それへ重なるようにコココ、コココ、と固い音が鳴る。それは呪術師が、手にした杖の先についているハゲワシの頭蓋骨を拳で叩く音だった。ニザはただ黙っていた。


「ニザよ、お前にはその者の真偽を確かめてもらいたい」

「……それは狩人の俺ではなく、呪術師の役目なのでは?」


 ニザがちら、と呪術師を見遣るが、彼女は相変わらずハゲワシの頭を小突いてばかりいる。


「無論、話を聞いてすぐに占わせたが、どうもはっきりとせんのだ」


 長老がそう言って短い溜息を吐くと、呪術師のぼんやりとした顔は見る見るうちに恐怖の表情へ変わっていき、その目は飛び出さんばかりに見開かれ、杖を抱えてぶるぶると震えだした。


「あれは、まっくら。あれは、まっしろ。みてもみえず、みてどもはてず」


 呪術師の言葉が要領を得ないのはいつものことだが、彼女のこんなにも怯えた様子を見るのは、ニザは初めてだった。あんまり強く頭を横に振るので、その頭から羽根飾りがぽとりと落ちた。それが合図だったかのように、呪術師はすっくと立ちあがる。


「あれは、あれは、あわれなるもの。うつろなるもの。あれはうたれねばならぬ。かりゅうどのやによってうたれねばならぬ!」


 そう叫ぶと、すうっと呪術師の震えは止まり、またぼんやりとした顔で座り込んだ。呆気に取られていたニザがはっと長老の方を見ると、「こんな様子でな」と肩をすくめた。


「確かなのはその者を討たねばならぬことだけだ。しかしそれならば、我らにはまだ選ぶことができる」

「というと?」

「それが『黒き岩』をかたる者ならば、それを討つ我らに義がある。お前の矢が開戦の合図となろう」

「それが本物ならば?」

さらってここへ連れてこい。お前の矢で射ち、その肉を我らで分けよう。我らこそが『黒き岩』の霊を宿した部族となるのだ」






 数日の後、ニザは交易のための隊商たいしょうに紛れて、獅子の部族のムラへと入った。

 ニザの狩った狼の皮や女たちの採った木の実や樹皮を、干した羚羊れいようの肉や獅子の牙、薬草などと交換する。口が立つ者にやり取りを任せて、ニザはまずムラの様子を観察した。

 狼、獅子、わにの部族は現状、表向きには協力関係にあった。互いに一定の交流があり、それぞれの自治を守り、部族間の敵対は無い。しかし小競り合いはしばしばで、本音ではどの部族も、他のムラを統合して狩猟地を広げ、『黒き岩』の力を独占したいと考えているのは明らかであった。

 ニザの目から見た獅子の部族のムラは、活気に満ちていた。あまりに熱気が溢れ過ぎている、とも言える。人々の間に、大きな狩りの前に似たたかぶりが見えた。それでいて彼らの顔は一様にほがらかで、それがいっそう不気味である。そして、小さな獣の足音も逃さないニザの耳は、すれ違う幾人かが「アムヤ様」と、同じ名を口にするのを聞きつけた。

 ニザはその名に覚えが無かった。このムラの長老も、呪術師も、評判の美女も、腕の良い狩人も、その名ではない。ニザは仲間に無言で合図を送り、独り隊商を離れた。余所者と悟られないよう日除けの頭巾を深くかぶり、「アムヤ様」と呟いた幼い姉妹の跡を静かに追う。


 日干しレンガを積んだ家の並ぶ景色は、狼の部族のムラとそう変わらない。その背景が小さな森や丘か、あるいは広い草原かの違いくらいである。姉妹はその家の一つに入っていった。ニザは人目を避けつつ耳をそばだてる。

 漏れ聞こえてくる声から推測するに、そこは姉妹の自宅であり、彼女らの母親は病で寝込んでいるようであった。時折、ひどい咳が響いていた。姉と思われる少女の声が「今夜また、アムヤ様のところに行ってくるからね」と優しく言った。それを聞いたニザは、自らの腰の高さまで伸びた草の茂みに身を隠し、日の落ちるまで仮眠をとることにした。




 太陽が地平の彼方に半身を沈めると、急激に空気が冷え始める。その肌寒さに、ニザはぱちりと目を覚ました。昼間には眩しいほど白く見えた乾いたレンガも、じわじわと影に包まれていく。ニザはそっと姉妹の家に忍び寄り、まだ中から少女の声がするのを確かめた。


「あたしも! あたしも一緒にアムヤ様のところへ行く!」

「わがまま言わないで。あんたはお母さんに付いていてくれなきゃ。それにもし帰り道に眠たくなったからって、おぶってやれないんだからね」

「でも、あたしだって……」

「お母さんが元気になったら、一緒にお礼をしに行こう。だから今は我慢して」


 そんな会話の聞こえた後、一人の少女が通りへ出てきた。小さな水瓶を器用に頭に乗せ、松明たいまつも無しにムラの奥へと進んでいく。空はすっかり夜の色に染まっていたが、少女の足取りは確かだった。あちこちで飯炊きの火が焚かれているのを頼りにしているのだろう。ニザはその少し後ろを、気配を消して歩く。

「『黒き岩』の霊を宿す者」、その手がかりはニザにほとんど与えられてはいなかった。それがどんな姿をしているのか、人なのか獣なのかすらもわからない。「アムヤ様」がなのかどうかも賭けである。だが、ニザの狩りの勘はよく当たるのだ。呪術師の警告が当たるのと同じに。──もっとも、これが本当に「狩り」であるなら、ではあるが。




 やがて水瓶を運ぶ少女は、ムラの端に建つ大きな家が見えてくると、気持ちが先走るように足を早めた。周りの家の倍はあろうかというその家が、彼女の目的地のようである。

 そこにはちらほらと先客がおり、彼らの手にした松明が並んで辺りを照らしている。その油と煙の匂いが、ニザが身を隠している建物の陰まで漂ってきていた。少女は家の入り口の前に並ぶ列の、一番後ろに加わる。

 やがて家の中から、男が一人出てきた。男は涙を流しながら幸せそうに笑っている。ニザはその様子にぎょっとしたが、列に並ぶ人々は動じない。羨ましそうに眺める者すらいる。そして今度は、列の先頭にいた女が家の中に入っていった。

 そんな風にして、列は伸びたり縮んだりしながら進んでいった。ニザは人目を避けつつぐるりと迂回して、家の裏手にまわった。次に家の中に入るのはちょうど、水瓶を持った少女である。身を潜めて壁にぴったり耳を付けてみるが、壁が厚いのか中の様子は聞こえない。だが、どこからか細く空気の漏れる音がする。ニザは壁面のレンガをそっと撫でてみた。乾いた砂が手のひらにはりついてざらざらと擦れる。とその時、一つのレンガが僅かに動いた。よく見れば、そのレンガには杭の跡とそれによる割れ目が入っており、掴んで真っ直ぐに引っ張ればあっさりと外れた。何者かが以前に細工をした、ということである。

 ニザは警戒心を強めつつも、その先客の仕掛けを使って中の様子を伺うことにした。


「アムヤ様、こんばんは」


 ニザが追跡していた少女の声である。緊張しているのか、やや声が固い。


「おや、お前のことは覚えているよ。小さな客人は珍しいからね。今日はどうした?」


 そう尋ねるのは、女の声であった。しかし妙に掴みどころのない声である。低く抑揚も少ないが柔らかい響きがあり、それでいて何の感情も乗っていないように聞こえる。


「あの、アムヤ様のお水を飲んだら、お母さん、少し楽になったみたいなの。だから、今日もお願いできないかと思って」


 しばしの沈黙の後、アムヤと呼ばれる女はゆるりと答えた。


「私がその水瓶に、この手をひたせば良いのだね?」

「う、うん! お願い!」


 アムヤはその言葉通りにしたのだろう。少女は嬉しそうに、何度も何度も感謝を口にしながら帰っていった。


 その後も似たようなやり取りが繰り返されるのを、ニザは干し肉を齧りながらしばらく聞いていた。

「良い獲物を狩れるように祈ってほしい」「好きな男を取られそうだからあの女を呪いたい」「子供ができるようにまじないをかけてほしい」人々は次々に願いを口にする。それらは本来ならば呪術師の領分であるはずだった。しかし、アムヤのやり方は呪術師とは決定的に違っていた。

 呪術師は儀式を行う者だ。それが占いにしろ呪いにしろ、その手順は呪術師の中にあり、人々はそれに従うが、アムヤは違う。「良い獲物を狩りたい」と願う男に、「それで、私にどうしてほしい?」とアムヤは問う。男が「この槍に触れてほしい」と言えば彼女はそれに従うのだ。アムヤの中に何があるのか、ニザにはまだ見えなかった。


 やがてその家を訪れる者も途切れ、アムヤだけが残された。今夜はもう引き上げて野宿の準備をしようと、ニザが家を離れかけたそのとき、一人きりであるはずのアムヤの声が聞こえた。


「もう行くのか、狼よ。私はお前を待っていたのに」


 その声は明らかに、ニザに聞かせるために発した声であった。独り言の類ではない。

 ニザは驚き、しかし瞬時に身を伏せた。注意を払っていたはずだが、誰かに見つかってしまったのか。自分が狼の部族の者だということまで知られているのか。ニザは己の未熟さを恥じた。

 ひとまずその場を這い出ようとしているニザに、再びアムヤが声をかける。


「そう怯えるな。ここには私しかいない。本当だとも」


 実際、ニザにも他の人間の気配は感じられなかった。やはりアムヤは、何かしらの力を持っているのかもしれない。そしてそれを見極めるのが、ニザに下された命である。


「私のことが知りたいのだろう?」


 こうまで言われて、もはやニザは退しりぞくことができなかった。

 とはいえ、流石に正面の入り口には人目があるかもしれない。ニザは明かり取りに開いた裏手の窓からその身を滑りこませた。


 アムヤの家の中は、二つの部屋に分かれていた。一つは煮炊きや保管のための、至極ありふれた生活のための部屋。そしてもう一つが、訪れる者を出迎える部屋。そこには器に盛られた食物やら装飾品やら、捧げ物と思われるものが雑多に並べられ、その奥にアムヤがいた。

 彼女は立派な獅子の敷物の上にゆったりとその身を横たえていた。その髪は夜よりも黒く、肩で波打ちゆるやかに垂れている。なめした革の直線的な服の上からでも、川を渡るわにの尾に似たくびれが見て取れた。満月の下に立つ狼のように凛とした空気を纏いつつも、その顔はいやに柔和であった。僅かに両の口角を上げてはいるが、髪と同じく漆黒の瞳の奥には底知れぬ静寂が広がっていた。

 これまで対峙したどの生き物とも違う存在感に、ニザの肌はぞわりと粟立あわだった。


「ふむ、面白いほど狼に似た男よ」


 アムヤはそう言いながら、まるで肉を検分するような目でニザを眺めた。


「俺の何を知っている?」


 ニザが眉根を寄せながら問う。


「何も」


 アムヤは静かに答えた。


「私は何も知らぬ。お前の名も、お前の生まれも。ただ、私にはのだ。狼が私を狩りに来ることが。その狩人がお前だということが」


 アムヤの言葉は、その表情と同じく掴みどころがない。やはりこういったことは呪術師の範疇だ、とニザは内心舌打ちをした。


「お前は、いったい何者だ? 『黒き岩』の霊を宿しているというのは、本当なのか?」


 まだるっこしい会話を嫌うニザは真っ直ぐに尋ねるが、アムヤは少しも動じない。


「獅子の群れにはそう言う者もいる。その者たちにとってはそうなのだろう」

「お前自身のことだろうが」

「では、お前は自身の霊のかたちを知っているのか?」

「何の問答なのだ、これは!」


 遂にニザが声を荒らげた。アムヤはニザから視線を逸らさぬまま、その長い首を傾げた。


「許せ、揶揄からかっているわけではないのだよ。ただ私には何も無いから、こう答えるほかないのだ」

「何も無い、だと?」

「そう。虚無。からっぽ。がらんどう。」


 アムヤは呟きながら体を起こした。胡座あぐらを組んで座る姿は、天からの糸で吊られているかのようにぴんと整っている。


「皆は私の中の空洞に好きなものを見る。彼らの願い、欲、夢を」

「では先ほどまでの儀式は何だ? お前には願いを叶える力があるのではないのか」

「さて、私は彼らの望むままに振る舞うだけ。その結果をどう受け止めるかは彼ら次第」

「……だがお前は、俺が来ることがわかっていたのだろう。それは『黒き岩』の力ではないのか?」

「狼よ、それはお前が『この辺りに水牛の群れがいる』と感じ取れるのと、そう変わるものではないはず。それが岩の力だというのなら、私の力もそうかもしれぬ」


 ニザは頭を抱えた。アムヤと言葉を交わしても、もやに包まれたように何も見えてこない。いくら手を伸ばしてもがいても空を切る。「私には何も無い」と、確かにアムヤは言った。果たしてそんな人間が在り得るのか、ニザはまだ信じることができない。

 その時、ふいにアムヤが玄関の方に目をやった。そのまましばらくじっと動かないでいたが、やがてまたニザへ向き直った。


「今夜はしまいのようだ。もうすぐ別の客人が来てしまう」

「また、わかるのか」


 アムヤはこくり、と頷いた。彼女の予言が当たるにせよ当たらぬにせよ、今はこれ以上話しても無駄だろう、とニザは思った。ニザは諦めて、入ってきたのと同じ窓に手をかけた。


「またおいで、狼。私はいつでもここに居る」


 ニザが振り向くと、アムヤは変わらぬ微笑を浮かべて自分を見ていた。


「……ニザだ。俺の名はニザ。狼ではない」


 そう言うと、ニザはするりと窓の外へ消えた。

 凪いでいたアムヤの瞳にうっすらと好奇の波紋が広がる。


「ニザ。覚えておくよ、私の狼。」






 獅子の部族のムラは今やしんと静まり返り、灯りが見えるのはアムヤの家だけだった。風のない夜。葉擦れの音すらせず、耳をすませば遠く星の瞬く音すら聞こえてきそうに思えた。

 とにかく一度、撤退しなくては。ニザは野宿できそうな場所を探すためムラを離れようとした。だがその時、ニザの背後に人の気配があった。ニザは咄嗟に足元の石を右手に握り込み、振り向きざま殴りかかった。


「おおっと、静かに。いきなり物騒だなぁ」


 ニザの目の前で、見知らぬ人間が両手を上げて立っていた。深くかぶった頭巾からのぞく薄い唇が、わざとらしくにやついている。ニザの振り上げた拳は、すんでのところでぴたりと止まっていた。


「僕はあなたの味方、とは言えないけれど敵ではないよ、今のところはね」


 その体は小柄だったが、声は若い男のものである。耳をくすぐるようないやに軽い響きが、ニザには耳障りであった。


「お前は、誰だ」


 ニザは男を鋭く見つめながら問うた。その腕はまだ上がったままである。


「そんな怖い顔しないで。僕はグクス。わにの部族の毒使いさ。そっちは狼のねぐらから来たんだろう? 僕たちの目的は同じなはず。そして僕は、あなたよりも少し早くここに来てたわけだけど、情報交換なんてどうかな。安全な寝床も提供できるよ」


 グクスと名乗った男はそう言うと、頭巾を脱いでみせ、両手をひらひらと揺らした。長い黒髪を頭の後ろで団子のようにひとまとめにして、顔いっぱいに笑顔を貼り付けている。この年頃の男で髪を伸ばしているということは、呪術も扱うのかもしれない。糸のように細く吊り上がった目は少しも笑っているように見えなかった。


「それならアムヤのことは、既にお前の方が良く知っているだろう。俺と話しても、お前に得が無い」

「それがそうでも無いんだなぁ。とりあえず、闇討ちするならとっくにしてるんだから、一旦信用してついてきてもらえない? あんまりこの場に留まるのも良くないし」


 引き留めたのはお前だ、と言いたくなるのをニザはぐっとこらえた。アムヤの家に松明を持った人間が近づいていたのだ。ニザがグクスを睨みつけながら頷くと、グクスはにいっと唇を歪めて身を翻した。ひとまずはついていくしかないようである。

 グクスは頭巾を被りなおすと、身をかがめて、茂みや家々の間を音も無くするすると抜けていく。その姿はわにというよりも蛇に似ていた。この男の前で油断だけはすまい、と後姿を追いながらニザは思った。

 妙なことに、グクスはムラの中心へ戻っていこうとしていた。てっきりムラを離れるものと思っていたニザは戸惑ったが、罠にしては雑すぎる。そのままグクスに従っていくと、一軒の倉庫の前でグクスが足を止め、そのまま中へ入っていく。


「協力してくれる人がいてね、少しの間ここを借りているんだ」


 グクスはそう言って、倉庫の床にごろりと横になった。ニザが暗闇に目を凝らしてみると、芋などが入っている藁壺わらつぼと水瓶がいくつか並んでいるだけで、がらんとしている。その広々とした床にあしを敷いて、その上にグクスが寝ころんでいた。


「実りの季節はまだ先だから、ここはしばらく使わないんだって。だから安心してよ。僕と添い寝にはなっちゃうけどね」

「おい、情報交換というのは」

「こんな遅くに喋ってると目立つじゃない。明日、明るいうちに話そう。大丈夫、彼女は昼間寝ているから」


 そう言うと、グクスはわざとらしく欠伸あくびなどして、立ちすくむニザに背を向けてしまった。

 今夜は振り回されてばかりいるな、とニザは心の内で自嘲した。この蛇のような男を信用は出来ないが、ニザにはわからないことが多すぎた。ニザは獣を狩ることばかりしてきた男である。そしてそれ故に、狼の部族で最も優れた狩人としてこの任に選ばれた。女のことも、呪術のことも、ニザにはわからない。正直なところ、自分の手に余る話だとも思っていた。

 だから精々せいぜい、お互いに利用するとしよう。ニザはグクスの隣に横になった。寝ている間にこの男に殺されたならそれまでだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る