第12話
死んでなかった。目を開けると、さっきより二段も三段も明度の落ちた世界の中、ぼんやり目を閉じている青空が見えて、慌てた。あたしは生きてるのに青空は事切れたのか。
「青空、青空、死んでんじゃないわよ」
むきになって肩をゆすぶると、青空はすぐ起きた。つぶらな目がとろんと開いて、そしてぱっちり見開かれ、慌てたように辺りを見回す。そこであたしも顔を上げて、世界がどうなってしまったかを知った。
不気味な灰色の雲にふさがれた空の下で、街は死んでいた。住宅地は一瞬にして壊滅状態で、周りの建物はみんな全壊か半壊か燃えているかのどれかだった。すべり台がさっきまでとは違うところで、横倒しになっている。公園の敷地と道路を隔てるフェンスが捻じ曲がって潰れてる。
公園の前の路地は震動のせいかアスファルトが割れ、路上駐車の車が折れた木の下敷きになっていた。焼けた木片があたしたちのすぐ傍で、パチパチと火花を鳴らしている。
不気味なぐらい、人の声がなかった。みんな警戒警報に怯えて家にこもっていて、そのまま家ごと潰されちゃったんだろうか。世界にあたしと青空だけが取り残されたような心細さに、鳥肌が立った。気温が一気に二十度ぐらい下がった気がした。
ここまでものすごいことになってもあたしと青空が無事だったのは、ちょうど怪獣の尻尾の下に吹き飛ばされたからだった。怪獣の尻尾が屋根になって、吹き飛んできた瓦礫からあたしと青空を庇ってくれていた。青空を引っ張って慌ててその場を離れた途端、ずごおぉんと音がして怪獣の尻尾は瓦礫に潰された。
そうだ、家は。
うちのある方角に首を曲げると、灰色の雲が柱になって地上から吹き上げ、天までまっすぐ上っていく様が見えた。あの不気味な雲は、いや煙は、そうやって生まれていたんだ。
生まれて初めて、お母さんのことを思った。あちらの方角で、飛び出してしまったあたしのことを心配して、やきもきしながら待っている、あるいは、見つけて連れ戻さなきゃとあたしに続いて飛び出して結局見失ってしまって、うちの周りをぐるぐるしながら途方に暮れてる、そんなお母さんのことを。胸が冷たく焼けた。
親とはものすごい仲が悪かったわけじゃないけれど、よその親子のように友だちみたいに何でも話したりはしなかったし、かといっていちいち反抗したりもしなかった。信頼なんて出来なくて、尊敬してるのかどうか愛してるのかどうか、そんなことはわからなかった。普通にウザくて口うるさくて、そこにいるのが当たり前の親だった。
それでも、あたしは親を思うということを初めて知った。それは好きか嫌いか、尊敬してるか否か、愛してるか否かに関わらず、本能的に自然と湧いてくる感情だったんだ。
一方で、冷静に思ってもいた。きっと、連合軍が開発したっていう新型爆弾にやられたんだ。爆心地はちょうど、あっちのほう。だいぶ離れてるのに爆風でこの辺りまでこんなになっちゃうんだから、きっと無理だ。
「お母さん」
あたしの心の叫びを代弁したかのように青空が言って、走り出した。公園の隣のグレーのマンションに向かって。細い腕を掴んで止めた。青空は暴れた。あたしは手のひらに力を込めた。
鉄筋造りの五階建てマンションは一階と二階部分が潰れ、建物の半分がすっぽりなくなって、骨組みだけだった。しかも五階の隅っこからは真っ赤な火柱が吹き上げ、あたしたちの目の前で炎はあっという間に五階部分をなめつくし、更に降下していく。
「火が出たの、僕ん家なんです。五階の角部屋」
青空が泣き叫んだ。黒い火の粉が降ってきて制服のブラウスに貼りつく。熱がもうここまで届いていて、肌を火照らせる。
「お母さんがいるんです、こっそり出てきたから、僕がここにいること知りません、きっと心配して、これじゃあ逃げるに逃げられないって、家の中で僕を探し回ってる」
「無理よ」
「無理なんかじゃない、お母さんは生きてます。お母さんが死ぬわけない。親が死ぬわけない。僕はまだ小五なんだから」
「無理だって言ってるの!!」
痩せた両肩を掴んで強引にこちらに振り向かせると、青空は一度だけひるんだように瞬きをした。手加減なんかしないで、やわらかい頬をひっぱたいた。ぱちんと音がはじけた。
「小五だろうが高三だろうが、親なんて死ぬ時は死ぬのよ」
ひどいことを言っている。でもこう言わないと、この子は動かない。あたしはこの子を助けられない。大粒の涙を溢れさせる青空の頬が、じわじわと赤く染まっていった。
「あんたが今すべきことはね、あん中に入っていって結局お母さんを助けられないで、むざむざ死んじゃうことじゃないの。あんたのお母さんの願いはね、今青空の向こうに行こうとしてるお母さんの願いは、あんたが生きることなのよ」
青空は黙って俯いていた。あたしははぁはぁ、息が切れていた。世界は焼け焦げた臭いと死臭のようなものに満ちていて、息をすることさえ難しい。
ばりっ、と音がしてマンションが焼けながら崩壊を始めた。残った半分がたちまち崩れ、落ちた瓦礫が足元を揺さぶる。
青空の手を握った。
「行こう。ここにいちゃ、危ない」
走り出すと、もう青空は抵抗しなかった。涙をこらえて歯を食いしばって、お守りのようにぎゅっとあたしの手を握ってきた。この手を離しちゃいけない、絶対に。物が崩れ、なすすべもなくひとが死んでいく世界の中、あたしたちは駆け出した。
健輔の顔が頭を過ぎる。いつもうるさかったお母さんの顔も。クラスメイト、熱血担任、そして芽衣美。たった一人の親友は無事だろうか。絶望してたし、心は傷だらけだった。けど、青空の手を握ってる限りあたしは不幸じゃない。どんなに悲しくても苦しくても、必死で走っている時は、不幸はあたしを襲わない。
轟音が落ちてくる。見上げると、不気味な灰色の空を飛行機が飛んでゆく。ひとを助けることもせず、爆弾も落とさないとなると、あれは連合軍の偵察機だろうか。新型爆弾にやられた街を見に来たのか。
空を切る飛行機を睨みつけた。
政治家の不正、年金問題、経済危機、格差社会、高齢化社会、就職氷河期、環境崩壊、殺人、児童虐待、強姦、DV、強盗、詐欺、放火、若者の引きこもり、新興宗教、うつ病、ドラッグ、売春、ストーカー、ネット犯罪、自殺の増加、そして戦争。
こんなことを起こす大人も世界も、あたしは本当に大嫌いだ。
いつも問題は自分と関係のないところで起こるのに、いつのまにかあたしもみんなも大きな渦に飲み込まれ、自分は何も悪くないのにって喘いでる。あたしはあんまり小さすぎて何をどうすることも出来ないし、いくら嫌ってみたところで苦しいことはひとつもなくならない。
それでもあたしは、この大嫌いな世界でこれからも生きていく。
あたしはこの世界に生まれてきたのだから。
いつのまにか、二人きりじゃなくなっていた。どうにか即死を免れた人たちが瓦礫の街から這い出し、生き延びるために走っている。ある人は髪の毛が焼け焦げ、ある人は折れた腕をぶら下げ、ある人は怪我した人をおぶって。
隣でううぅ、と泣き声がした。小学五年生の限界が来たらしく、青空が涙をこぼし鼻水を溢れさせ、涙に咽んでいる。あたしと繋がれてないほうの手がごしごしと乱暴に顔をこすった。
「泣くんじゃないわよ。泣いたら力が減る。どこまで走るかわかんないんだから、体力温存しとくの」
青空は下を向いたまま首を動かした。
<了>
今日も飛行機は青空を飛ぶ 櫻井千姫 @chihimesakurai
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