第11話
隣に誰かの気配を感じて、泣くのを止めた。ゆっくり顔を上げ、涙で貼りついた前髪をのけると、青空の丸い目があたしの瞳に飛び込んでくる。
「なんであんたがここにいるのよ」
「通学路なので」
嘘つけ。警戒警報真っ只中の今、小学校だって緊急で下校になったに決まってる。とっくに家にいただろうに。あたしの心中を見透かしたように青空は、
「僕ん家、あれのマンションの五階なんです」
と、公園の隣に建つ淡いグレーの壁のマンションを指差した。
「僕の部屋の窓からこの公園、丸見えだから。泣いてるまなかさんがよく見えました」
「だからってなんであたしの隣に来るのよ」
可愛げのかけらもない問いに、青空は間髪入れずに答えた。
「泣いてる人がいたら、隣にいてあげたい。そう思っちゃ、いけないんですか」
「……ガキのくせに何言ってるのよ」
「ひとに優しくするのに、大人とか子どもとか、関係ないと思いますけど」
悲しみでいっぱいになった心が、じわっと熱くなって、揺れた。もし青空が小学五年生の子どもじゃなくて高校生とか大学生とか、あたしと釣り合いのとれる年頃だったら、たちまちときめいて恋に落ちてたかもしれない。ほとんど失恋と言ってもいいようなぼろぼろに傷ついた状況の中では、まっすぐな優しさが輝いて見える。
でも実際、青空は完全に恋愛対象外の子どもだったから、あたしの心臓は安っぽいときめきじゃなくて、青空がくれた優しさであたたかく満たされた。もちろん悲しいけれど、まだ絶望してたけれど、とにかく今あたしは一人じゃない。その事実が救いになる。
「ねぇ。少しだけ、抱きしめてもいい……?」
そう言うと青空はそっと寄りかかってきて、あとはあたしのされるがままになった。青空の身体からは石鹸とおやつに食べたらしいクッキーと、ミルクに似た甘く懐かしい匂いがふんわり漂っていた。遅れた思春期を待っている、子どもの匂いだった。平べったい背中に腕を回してぎゅうと力を込めると青空はちょっとしかめつらをしたけど、痛いとは言わなかった。くすぐったいような匂いとふんわりした体温がありがたくて、あたしは心ゆくまで涙を流すことが出来た。
あぁ、この子はすごく立派だ。あたしの涙を、あたしの悲しみを、今ちゃんと受け止めてくれている。たしかに青空は弱虫で泣き虫で何も持ってない子どもだけど、一番大事なものを持っている。目の前の人に手を差し伸べる、勇気。誰かの悲しみをそのまま受け止める、広い心。長く生きていても、たくさんのひとから尊敬されても、お金をいっぱい稼いでも、素晴らしい音楽や物語を生み出せても、それを持っていない人だってたくさんいるのに。
どれくらい経っただろう。腕を解いて青空から身体を離すと、子ども用の水色のボーダーのTシャツの胸に、涙と鼻水がぐっしょり染みを作っていた。泣きすぎて頭はくらくらするし、目がひりひりして鏡を見なくても腫れているのがわかる。青空はTシャツを鼻水だらけにされたことも、こないだあたしに泣かされたことも気にしてないような顔で、心配そうにあたしを見上げていた。
涙は止まってもしばらくは喉が勝手に痙攣して、みっともなくしゃくり上げてしまう。それがちょっと落ち着いた後、掠れた声でしゃべった。
「あたし、好きな人が、死んじゃった。戦争に行って、死んじゃった」
「辛いですね」
心の表面からじゃなくて、もっとずっと深いところから出たもののように、青空は言った。あたしの表情が伝染したのかと思うくらいに、青空自身も辛い顔をしていた。
「うん、とても、辛い。あたしさ、辛いって言葉、簡単に使い過ぎてた。悲しいって言葉も。ほんとはどっちも、こういう時のために、とっておかなきゃいけなかったのに」
あたしは今まで、自分のことをひどく不幸な、可哀想な子だって決め付けてたんじゃないだろうか。高三にもなったのに夢ひとつ見つからないとか、思うように成績が上がらないとか、健輔に本当に欲しい言葉を言ってもらえないとか、そういうことで。もっと不幸なことはいくらでもあるって知らないわけじゃなかったけど、いつのまにか視界がぎゅっと狭まって、自分のことしか見えなくなってた。
夢がない、勉強にやる気が出ない、彼氏とうまくいかない、それぐらいが、なんだ。心が擦り切れて溢れた血に溺れそうな今の気持ちに比べれば、うっとりするほど幸せな生ぬるい日々だったのに。
いや、違う。幸せを幸せと思えない、自分を不幸だって決め付ける、それこそがものすごい不幸な、可哀想な人間ってことなのかもしれない。
青空は辛そうに、途方に暮れたように小首を傾げていて、そういえばこの子はいじめられてたんだっけって思い出した。
「あんたは、どうなの。最近、学校で」
「いくらのん気な小学生だからって、世の中がこんな状態になったら、いじめなんてくだらないことする余裕ないですよ。クラスの半分以上が疎開しちゃって、僕をいじめてた連中もだいぶいなくなったし」
「じゃあ、よかったじゃない」
青空は力なく首を振った。
「前も言ったじゃないですか、他に友だちなんかいないって。いじめられても、一緒にいる人がいるだけマシなんです。いじめられなくなったら、僕はもうそこにいないのと同じだから。
学校に行っても誰も僕に声をかけてくれないし、授業中に警戒警報が鳴っても隣の人と怖いねって言い合うことも出来ない。別にシカトってわけじゃないけど、今が僕が一番こうなりたくないって思ってた状況なんです。小学生が孤独なんて言ったら生意気ですけど」
「逃げちゃいなさいよ」
薄い唇がえ、と小さく開いて、青空が驚いた顔になった。この時、あたしはちょっとだけ笑ってたのかもしれない。死ぬほど辛いから、いや死ぬほど辛いからこそ、笑ってしまう。人間って不思議なものだ。
「逃げることも出来なくてただ我慢するだけ、嫌な状況を変えることをしないってのが一番最低なんだもん。なんとかならないことは受け入れるしかないけど、なんとかなることは、なんとかしようとしなきゃ。自分を不幸だって思い込んでたら、そのうちほんとに不幸になるよ」
「……逃げるって、具体的にどうすれば」
「そうね。お父さんが何言おうが先生が何言おうが、僕は逃げるんだ、逃げてやるんだ、孤独になるだけの学校になんか行かないんだぞって宣言して、子ども部屋に鍵かけて篭城しちゃいなさい」
丸い目がぱちぱちと瞬きをするのがおかしくて、彼氏が死んだって知ったばかりなのにおかしいと思える、自分の心の動きに少しびっくりした。あたしはあたしが思ってるよりずっと、強く出来ていたらしい。
「それ、引きこもりを勧めてるんですか」
「そうよ」
「子どもになんてこと言うんですか。だいたい、僕の部屋、鍵ついてないし」
「それぐらい自分でつければいい。ホームセンター行けば売ってるでしょ」
「つけ方がわかりません」
「男の子でしょ、自分で考えて工夫してやってみなさいよ、ほんっと弱虫なのね青空って」
「泣いてる人から弱虫って言われても」
ずどおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん、地面が絶叫しながら突き上げてきて、あたしたちの会話は途切れた。光が消えて、一瞬空が真っ黒になる。いや、真っ白になったのかもしれない。
咄嗟に青空の身体を抱きしめていた。二人同時に、吹き飛ばされた。空気が爆発して轟音の中に放り込まれる。身体のどこが痛いのかもわからないはちゃめちゃな衝撃のせいで、死んだと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます