第10話

教頭始め何人かの男性教師がどやどや教室に入ってきて、どうにか騒ぎは収まって、当然授業は打ち切りで、生徒は全員強制下校になった。爆撃の範囲はごく狭いものだったらしく、地元の駅に着けば普段と変わりない、朝見た時とまったく同じ光景が広がっている。


駐輪所の壁にずらりと貼られた戦争反対のポスターがまがまがしい雰囲気をかもし出しているけれど、一見、ごく平和な光景と言えなくもない。その平和さが不気味に思えて、寒気がした。いつもと同じものを見ると反射的に、それが壊れてしまう恐怖を覚えてしまう。


 家に帰り着くとたたきの隅っこに見慣れない靴があった。几帳面にきっちり揃えられた、黒い革靴。お父さんはこんな靴、持っていただろうか。バタバタとあわただしくスリッパを鳴らし、お母さんが駆けてくる。



「あんた大丈夫だったの、空襲が学校の近くだっていうから、もう生きた心地がしなかったわよ、迎えに行きたかったけれどこのへんまだ警戒警報が出てて、外出厳禁で、携帯は混んでて通じないし連絡取れないし、あぁほんとよかった」


「お客さん、来てるの?」



 あたしの冷静な一言が癇に障ったように、まくし立てていたお母さんがふっと黙って眉をひそめた。



「来てるわよ、午前中から。まなかに会いに来たんだって。何?あんた、お付き合いしてる人がいたの?まったくそういうこと、何も言わないんだから。突然でびっくりしたし、しかもお茶出してたら警戒警報は鳴るしで、ねぇいったいどんなお付き合いしてたのよ、あの人何も言わないんだもの」


「健輔」



 思わず口にしてしまった名前があたしを走らせる。ローファーを脱ぎ捨てて廊下を駆け出すと、お母さんはこんな時でもちょっとまなか、靴はちゃんとそろえなさいなんて小学生に言うような小言をこぼした。


いろんな感情が心臓を突き破って溢れ、自分の鼓動がバクバクうるさい。リビングのドアを開けたけど、違った。応接間として使われている和室の襖を乱暴に引くと、お客さんは背中を丸めて座布団の上に座っていた。


 健輔じゃなかった。



「初めまして、吾妻といいます。健輔があなたに随分お世話になったようで」



 うちのお父さんと同じぐらいの年頃らしいそのおじさんは、まるで大人に対するような腰の低さであたしに挨拶した。話に聞いていたような、息子の東京行きに反対し、安定した仕事に就いてほしいと主張する厳格な父親とは、イメージがかけ離れている。


頬はしぼんで肌がかさつき、髪の毛にはたくさん白髪が混ざっているが、よく見れば目元や口元に健輔の面影を見て取ることが出来て、この人はたしかに健輔の父親なのだと確信した。



 そして、不安になった。健輔が戦場から帰ってきてあたしに会いに来たんじゃなく、健輔の代わりのようにその父親があたしに会いに来る、それはどういう意味なのか。


 あたしの不安を増幅させるように、吾妻さんはもったりとしゃべる。



「親として何も教えられないままあいつは勝手に東京に行ってしまって、連れ戻そうとしても帰りたくないの一点張りで。心配していたんですが、その必要はなかったですね。あなたのようなしっかりしたお嬢さんに、ちゃんと支えられていたんですから」


「いえ、そんな、あたし、しっかりしてなんかいません。むしろあたしのほうが、健輔に支えられっぱなしです」



 不安が、膨らむ。なんだろう、この会話。思い出話をするような、健輔がもうどこにもいないような。それより健輔はどうしたんですが、なんで健輔じゃなくてあなたが来るんですかって、聞きたいのに聞けない。聞くのが怖い。


 黙って膝の上で両手を握り締めるあたしに、吾妻さんは小さく笑って言う。最後に会った時の健輔の、何かを諦め、何かを受け入れた笑顔と、同じ笑い方だった。



「健輔のほうは、そうは思っていなかったと思いますよ」


「……なんでわかるんですか」


「出征の日、あいつは私にこれを預けていきました。もし自分に何かあったら、あなたにこれを届けてほしいって」



 机の上に一枚の、飾り気のない茶封筒が差し出される。意外なほど上手な字であたしの名前が書いてあった。


 不安が現実になって、胸の痛みは血管を通して全身に広がっていった。もう、健輔はどうしたんですかなんて聞く必要もない。答えは決まっている。今にも死にそうなくらい打ちひしがれて息をするのもやっとなのに、あたしの手は震えながら封筒に伸びた。


 信じたくない、受け入れたくない現実を、既に受け止めた目で、吾妻さんは言った。



「失礼だと思ったんですが、中身を見てしまいました。封をしてなかったところを見ると、もしかしたら見てほしかったのかもしれませんね、私に。自分は東京で、こんな素晴らしいものを手に入れたんだぞって」



 封筒の中には折りたたんだルーズリーフが一枚、入っていた。ものすごくたくさんの思いが込められた短い文章を、何度も食い入るように読んだ。まだ心臓は凍り付いてるのに、涙腺は緩む。文字が読めなくなる。吾妻さんの声が上ずった。



「親は子どもにいろんなことを望みます、勉強が出来るようになってほしい、真面目に生きてほしい、安定した生活を送ってほしい。それは親として当たり前のことで、愛情のひとつの表れ方です。しかし今となってはそんなこと、馬鹿らしかった。


親の思い通りになんかならなくたっていい、本人が幸せならどんな生き方をしてたって構わない、ただ元気でいてくれればそれで十分だったのに。もし私が音楽をやることを反対してなかったら、最初から認めてやってたら、あいつは戦争に行くことなんて考えなかったかもしれません。


戦争行きを認めたのは、軍隊生活であいつも人間がしっかりするんじゃないかって思ったからです、それがまさかこんなことに」



 男泣きに泣く吾妻さんを残してあたしは和室を飛び出し、家を飛び出した。ちょっとまなか、まだ警戒警報が、というお母さんの声が追いかけてきたけれど、すぐに聞こえなくなった。


警戒警報が解除されていない街の中は本当に人っ子一人いなくて、くしゃみひとつ聞こえなくて、蝉の声がジージーと焼けそうな空気を攪拌していた。あたしは、走った。泣きながら、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、意味もなく走った。


じっとしてたら激しい喪失感に押しつぶされそうで、自殺なんてする間もなく心臓が止まってしまいそうで、走らずにいられなかったのだ。



 ミントグリーンの怪獣がいる公園は、九月の真っ白い日差しを浴びて静まり返っていた。怪獣の背中によじ登り、ルーズリーフを広げる。強く握っていたせいでいろんなところに折り目が出来て、破けそうになっていた。指のひらでそっと皺を埋めた。



『まなかへ たくさん、たくさん、ありがとう。そして、こんなことになって本当にごめん。まなかのおかげで、俺は大人になることが出来ました。そして今大人になって、死んでいけます。だからまなかにも、ちゃんと大人になってほしいと思います。 吾妻健輔』



 ルーズリーフを丁寧に折りたたんでブラウスの胸ポケットに入れた後、膝を抱えて泣いた。喉をいっぱいに開けて声を上げて、涙に咽んで、すぐに喉が擦り切れた。痛くなった喉で、それでも声を振り絞った。泣いてもどうしようもないけど、どうしようもないから、ひたすら泣いた。



 これが詞を書いていた人の文章かって笑いたくなるほどの、稚拙な文面。でもこれほど素晴らしい言葉の連なりが、この世のどこにあるだろう?あたしたちの関係は、終わってしまったら何もかも元通りになるような、そんな浅はかものじゃなかったんだ。


あたしは健輔から、健輔はあたしから、素敵なものを受け取って、それを血に肉に骨に代えて、もっと大きくなろうとしていた。それこそがきっと、愛なんだ。好きも愛してるもなかったけど、健輔が書いた最初で最後のラブレターは、あたしたちの愛の証明だった。

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