第9話

十分は経ったと思うけれど、実際にはほんの二、三分の出来事だったのかもしれない。轟音が遠ざかると、教室のあちこちでためらいがちな衣擦れの音がする。一人、また一人と巣穴に隠れた臆病な草食動物のような動きで、クラスメイトたちが机の下から這い出す。まだ危ないから机の下にいろ、って担任が怒鳴ってるけれど、誰も聞いちゃいない。やがて人垣が窓を塞ぐ。黒山の人だかりの端っこからあたしも頭を突き出す。


 怖いのに、見たくなんかないはずなのに、どうしてか身体が勝手に動いた。安っぽい好奇心じゃない。見なければいけないという義務感のようなものがあたしを机の下から引っ張り出し、瞳を窓の外へ向けた。


窓ガラスの向こうに戦争があった。現実の、生々しい戦争が。校舎も校庭も無事だったけど被害を受けていないのは学校とその手前を通る路地だけで、アスファルト一本隔てた向こうに惨劇がある。校舎の四階からはひしゃげた電柱もほつれた糸みたいにぶら下がった電線も、黒い塊になってつぶれた家も瓦礫の下からはみ出た動かない足も、全部見えた。


家がぺちゃんこにされたせいで丸見えになった奥の路地では、後ろ半分が丸ごとなくなった車がオレンジ色の火柱を上げている。持ち主が無事なのかどうか、教室の中のあたしたちに確かめる術はもちろん、ない。


 誰かが甲高くしゃくり上げた。ずずっと鼻をすする音が続く。涙は伝染するように広がっていき、あっというまにその場にいた女子の大半が嗚咽を漏らした。あたしは、泣かなかった。というより、泣けなかった。


あんまりにも見ているものがすご過ぎて、ずっとテレビで見ていたものがついに目の前にやってきてしまって、突きつけられた事実が感情を遥かに追い越していた。いくら新聞やテレビで見ても、誰かから伝え聞いても、実際に目の前に見なければ、現実を現実と信じられない。そして信じた時には打ちひしがれて、それを受け入れることすら難しい。



「泣くんじゃねぇよ」



 低い声が言った。クラスでも中心的存在の、平和だった頃は勉強も運動もよく出来て性格も明るくて、教室の中でよく目立ってた男だった。もっとも戦況が厳しくなってから、他のみんなと同じく、笑うことが少なくなっていたけれど。


 その声で本当に、いくつかのすすり泣きが止んだ。自分の言葉が効果を持ったことにかえっていらだったように、男は続ける。



「めそめそ泣いてんじゃねぇよ、これぐらいで。前線で戦ってる兵士たちのこと考えろよ、そんな人たちに比べりゃ俺らなんて全然幸せじゃねぇか、戦争だっつーのにこうやって高校行って勉強してさ、今だって自分が外にいて爆弾に当たってないから泣けるんだろうが。戦地なんてこんなもんじゃねぇんだぞ、目の前に爆弾降ってきたからって、泣いてたら死んじまうんだから。泣くとか余裕ある証拠なんだよ、泣いてんじゃねぇよ」


「机の下で目ぇうるうるさせてた奴の言う台詞かよ」



 別の声がした。泣いてんじゃねぇと言った男の友だちのはずだけど、最近はなぜかあまり仲良くしているところを見ない。最初にしゃべった男が友だちを見るにはとても相応しくない目で睨みつけ、睨まれたほうも鋭い視線を返す。



「俺見てたんだからな、さっきお前が机の脚握りながら目ン玉うるうるさせてたの。机の下に隠れたのだってお前が一番早かったし」


「自分の身を守っちゃいけねぇのかよ、俺はただ、これぐらいで泣いて余裕かまして、前線の兵士たちに申し訳ないって言いたいだけだよ、言ってる意味わかってっか馬鹿なんじゃないのかお前」


「わかってるし。つーか馬鹿はお前じゃん、そっかお前戦争賛成派なんだっけ?どうかしてるよな、甘っちょろい考えで志願して戦争行って、バタバタ死んでく人間のこと庇うとかさ」



 二人のやり取りに、彼らの友情に皹を入れたのは戦争に対する考え方の違いだったのかな、とちょっと思った。思想のぶつけ合いは平和な世の中にあってこそ、立派な議論になる。こんな切羽詰った状況では双方冷静さを忘れ、ただの喧嘩になってしまう。戦争賛成派の男がまず動いた。高校生らしい華奢な手がかつての友だちの襟首を掴む。



「それでも行ったのはすごいだろ、兵士が前線でどんな苦労してるかお前考えたことあるのかよ?命を懸けて戦って、それでなくても食料の補給が間に合わないとかマラリヤにやられたとか、ひどい状況だって言うじゃんか、そんな目に遭いながら俺らのために戦ってくれてる人たちのこと悪く言うなよ、戦地には誰かが行かなきゃいけないんだから」


「だからさその誰かが行かなきゃってのがおかしいんだろ、戦争を一刻も早くやめなきゃいけねぇのに戦争に協力するとかさ。大体一般募集のシロウト兵なんてみんな、金欲しさで行ってるだけじゃねぇか」


「やめないか!!」



 担任の怒鳴り声が教室内の空気を凍らせる。戦争賛成派も反対派もはっと息を詰まらせ、怯んだように担任を見た。担任が速足で二人に歩み寄り、襟首を掴む手を乱暴に引き剥がす。


声は大きいし熱血だし、怒ったら怖そうだとは思っていたけれど、この人が本当に怒るところなんてあたしもみんなも、初めて見た。髪の毛が後退し始めたつるんとした額に血管が浮き上がっていて、教師として生徒を「叱る」のではなく、ただ煮えたぎった感情を噴出させているだけなのだとわかった。



「今ここでそんなことを言ったってしょうがないだろう、くだらない喧嘩はよしなさい!私にも君たちにもどうしようもできないことなんだよ、戦争は止まらないし止められないんだ、こんな時に無駄に争うな」


「止められないだって?ふざけんなよ。戦争なんか始めたのは誰だよ、お前ら大人だろ、子どもの未来を作るのが大人じゃないのかよ?子どものために平和で安全な未来を保障するのが大人の仕事だろ?その大人が俺らの未来をこんなくだらない戦争なんかで潰してんだろうが」



 戦争反対派にすかさず噛み付かれ、担任の顔が引きつった。平和だった頃は教師に反抗なんかせず、むしろ担任とは結構仲良しで、時折昼休みや放課後にダベってる姿も見かけたこの男が、今はためらいなく怒りをぶつけている。そのことに刺激されたように、戦争賛成派が援護射撃に回る。



「そうだよ、お前に偉そうなこと言う資格なんかねぇんだよ、お前もそうだけど、みんなしょうがないどうしようもないって、大人はそればっかじゃんか、そんなの真剣に考えてねぇ証拠だろ?


こいつは俺のこと戦争賛成派だって言うけど違う、俺だって平和な世の中に戻れたらっていつも思ってんだよ!!でも俺らがいくら頭働かせたって悩んだって、大人がお前らみてぇなのばっかだからこんなことになるんじゃねぇか!!」



 かつて勉強を頑張っていた証拠にペンだこが出来ている指が、瓦礫の山と化した窓の外を指差す。さっきまで真っ赤だった担任の頬が今度は真っ青になった。生徒に「お前」呼ばわりされたのが余程ショックだったのかもしれない。でもショックに沈んでいたのはほんの一瞬で、今度は赤を越えて土気色になった顔で怒鳴り出す。



「何もかも大人のせいにするんじゃない!そうやって偉そうなことばっかり言ってて、自分たちだけじゃ何もできないじゃないか君たちは!!こうやって泣いたり騒いだりしてる暇があったら、自分たちが戦争を止められる大人になることを考えろ!!」


「そういうてめぇだって騒いでんじゃねぇかよ!!」



 戦争反対派の拳が担任の顎を捕らえ、身長一八〇超のごつい図体がぐらっと揺れた。誰かがきゃっと悲鳴を上げる。


 もうだめだ、と思った。戦争という異常な状況は人々の心までかき乱し、荒ませていく。心の中にすら平和がなくなった時、人は終わるんだ。


 よろめいた担任の襟首を戦争反対派が掴み、キスが出来そうな距離まで顔を近づけて叫んだ。



「何かしたくたって何も出来ないんじゃないか俺たちは、俺たちが無力なのも俺たちのせいだってのか、なんで大人はいつも子どもを責めるんだよ」


「やめてよ」



 悲鳴のような声が教室のどこかではじけた次の瞬間、担任が襟首を掴んだ手を振り払い、戦争反対派に殴りかかっていった。その背中を戦争賛成派が取り押さえようとして、男子たちがわあっと三人に集まっていく。みんな担任を止めようとしたんだと思うけれど、次々太い腕に薙ぎ払われ、壁や床や倒れた机に身体を打ちつけた。


担任が戦争反対派の身体に跨り、顔ばかり狙ってめちゃくちゃに拳を振り下ろした。赤いものが点々と床を汚し、女の子たちがパニックに駆られて叫んだ。戦争賛成派が担任の首に蹴りを入れ、ようやく反対派への一方的な攻撃が止んだ。顔じゅうあざだらけにした反対派が起き上がり、なぜか賛成派に掴みかかっていく。賛成派がそれに応じる。


担任はさっき自分が振り払った男子と取っ組み合いを始め、気がつけば教室のあちこちで殴り合いが起きていた。目的も意味もない、ただやるせなさを発散させるためだけの争いが、つまり小さな戦争が、始まってしまった。



 女の子たちは次々と、よろめきながら教室の外へ出て行く。ここにいたら危ない。あたしもみんなに続こうとすると、左足を引っ張られた。まだ机の下にうずくまったままの芽衣美があたしのふくらはぎを掴んでいた。泣いたせいでアイラインが溶け、パンダみたいな顔になっている。



「待って、まなか、行っちゃ嫌。あたしと一緒にいて」

「でも芽衣美、ここにいたらあぶな」

「あたし、立てないの。足、震えちゃって。全然動けない」



 情けない自分を笑いながら、そして涙をぼろぼろこぼしながら、芽衣美が言う。あたしのふくらはぎを握る力は強い。


 社会がこんな状態になってから、芽衣美も変わった。定期的に会っていたエンコー相手のパパが疎開して会えなくなったせいもあるだろうけれど、それだけじゃない。相変わらずメイクや格好は派手なものの、以前の明るさが失われていた。笑顔も時々飛ばす冗談も、なんとなく気が抜けていて嘘っぽかった。戦争は若者のエネルギーさえ、容赦なく奪っていく。



 あたしはしゃがんで、芽衣美と一緒に机の下にもぐった。ツンととがった臭いがして、床と芽衣美のミニスカートから覗くサーモンピンクのパンツが濡れていた。どうやら失禁してしまったらしい。おしっこを漏らしちゃうほど怖いのにこんな時までへらへら笑ってる芽衣美が痛々しくて、あたしは親友の肩を抱きしめた。


二人の頭の上で窓ガラスが割れて、生暖かい身体がびくっと震えた。こんなにひどいことになってるのに、なぜか一向に助けは来ない。ひょっとしたら、隣の教室でも似たようなことが起きているのかもしれない。壁の向こうで怒鳴り声がしていた。



 こんな時でもなんとか小さな平和を保っていた教室の中で、すべてが壊れていった。引き裂かれたカーテン、壁からむしり取られた掲示物、教卓の上に飾られていた百合の花は床で踏み潰されている。こんな時になって、ようやく気付く。あたしがあんなにクサっていたごくごく普通の平凡な日常が、どれだけ貴重なものだったのか。


同じことの繰り返しの毎日の末に待っているのが何の変哲もない普通の人生だって、それでよかったんだ。平凡なこと、退屈なこと、特別でもなんでもないこと、でものん気に生きていられること。本当に、素晴らしかった。そのことに気付けないあたしは、正真正銘の甘ちゃんだったんだ。



 もっと平和に感謝するべきだった、もっと平和をしっかり抱きしめたかった。痛いほどそう思ったところで、平和は二度と、帰ってこない。


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