第8話

教師になる。芽衣美にそう言ったら思いっきり怪訝な顔で「病院行ったら?精神科。あんた、ホンモノのウツだよ。判断力がイカれてる」と返された。無理もない。あたしにとってずっと、教師は嫌いな大人の代表みたいな存在だったから。そんな存在に自分がなろうって言うんだから、そりゃあびっくりするだろう。


親だって最初は困ってたし。あれだけ勉強嫌いでウツでクサっててヤケっぱちだった娘が急な変貌を遂げたことに、頭がどうにも追いつかないみたいだった。



 けど、あたしの夢を実現するのに、教師というのは一番いい形のような気がした。この世は嫌な大人で、嫌な教師で、溢れてる。現にあたしも教師たちに反感しか持てないまま、ここまで成長してきてしまった人間だ。だったら自分がいい教師になって、子どもたちと向き合ってみたい。


あたしみたいな甘ったれのクサった子どもを、諦めたりほっといたり蔑んだりしないで、ちゃんと支えてあげたい。誰にだって認められるべきポイントがあるはずだから、そこを見つけて褒めてあげたい。そして自信をつけさせて、背中を押してあげたい。


 夢を持ったことのないあたしが初めて描いた夢は、健輔がロッカーになりたいというのと同じくらい、かなり大それたものだった。


 目標を持てば人は変わるというのは本当で、あんな形で健輔と別れてからのあたしは、文字通り生まれ変わったように勉強した。予備校をサボることがなくなった。サボるどころかすべての授業をきっちり受けて、毎晩自習室が閉まるギリギリまでねばった。


テレビはまったく見なくなったしマンガも読んでない。メイクや見た目にも頓着しなくなって、毎日すっぴんで過ごしている。睡眠時間は四時間まで減らした。食事をするのも面倒臭く、食べ物はおにぎりとかサンドイッチとか、参考書をめくりつつ片手で食べた。


 必死に勉強してみて初めてわかったことは自分が今までどれだけサボっていたかということで、今の自分の実力のなさに最初、少しへこんだ。それでも落ち込んでる暇はないと本気で脳味噌をフル回転させるうち、ちょっとずつ成果も出てくる。


この世にはいくら頑張ってもどうしようもないことがたくさんあるけれど、勉強はやればやるほど結果になる。小学一年生からまる十一年もお勉強をやってきて、ようやく勉強の楽しさに気付き始めた。



 そんなあたしをあざ笑うがごとく、戦況は更に厳しさを増していった。



 遠くの国で戦っていた日本とその仲間の国の歴史的な敗退により、一気に敗戦ムードが濃くなった。戦地は名前も知らないような国や島じゃなくて、日本の上になった。お台場の観覧車が、横浜のベイブリッジが、大阪の通天閣が、京都の清水寺が、沖縄の首里城が、爆撃によって崩壊した。


日常は空襲警報に脅かされ、電気や水道が止まることは当たり前になった。不安に駆られた人々がスーパーやコンビニに殺到し、店という店からものが消えて、最近はトイレットペーパーひとつなかなか入手できない。


みんな、外に出る時は必ず防災頭巾と少しの水と食料を携えていく。「いつ、何が」起こっても生き延びられるように。毎日のようにニュースで流れる爆撃に遭った町の映像を見る限り、そんなものが実際役に立つのかどうか甚だ疑わしいけれど。



 もちろん、たくさんの人が死んだ。空襲で死亡した一般人、戦地で命を落とした兵士。日本人の戦争死者は十二人どころじゃなくなった。もっとも、以前されていたその発表は嘘で、実際の数はもっとずっと大きかったって、まことしやかな噂もあるけれど。サポートのはずの一般募集のシロウト兵も、続々危険な地域に動員され、死んでいった。


どうも、軍は訓練を積んだ熟練した兵士はできれば失いたくないのであまり危険でないところに使い、いくらでも代わりのいるシロウト兵は危ない場所へ向かわせているらしい。勉強したくないから兵士になる、金が欲しい、戦争気分を味わってみたい。そんな軽い気持ちで応募した多くの兵士が、銃弾で身体を穴だらけにして、軍艦と共に海の底に沈んで、地雷で全身ばらばらになって、死んだ。



 意外にもみんな、あまり文句を言わなかった。国が兵士の死者数を偽っていたことも、シロウト兵が続々動員されていることにも。急速に当たり前のものが失われていって、明日がちゃんと来るかどうかもわからない状況が続いて、誰も文句を言うどころじゃなかったのだ。


あたしだって健輔のことを思うと不安でたまらなくて、毎日毎晩ろくに信じてもいない神様に祈らずにいられなかったけど、目の前で次から次へと惨劇が起きていれば、ただひたすら健輔を失う恐怖にびくついてばかりってわけにもいかない。自分を守れるのは、結局自分だけ。


他人のことよりまず、自分が生き延びることを考えなきゃいけない。毎日、日本のどこかで町が壊された。新聞やニュースで真ん中から折れた電柱やつぶれた家や骨組みだけになったビルを見る度、次はあたしかも、この町かも、と思ってしまう。平和なんてもう、日本のどこにも残っていなかった。



 大混乱の夏が終わって、二学期が始まった。二学期といえば体育祭だの文化祭だのイベントてんこもりのはずなのに、すべて延期になった。こんな時だからこそみんなで楽しいことをして励まし合おう、不謹慎だばかり言ってられない、そう言う人もいるにはいたけれど、結局みんな、お祭り騒ぎなんてする気分じゃなかったのだ。


高校の授業はまだ行われていたけれど、それもいつまでのことかわからない。予備校は先生も生徒も相次いで疎開しちゃって、一時閉鎖になっている。高校だっていつなくなってもおかしくない。四十人だったうちのクラスは、現在二十人ちょっとまで減っている。半数近くのクラスメイトが田舎に疎開していた。


うちの親だってここんとこ毎日、田舎のおばあちゃんのところに疎開するかどうかで揉めている。都会は危ない、今に大規模な空襲が起きるって話もあるからと疎開を主張するお父さんと、どこへ逃げたって同じだ、現に田舎の町だってたくさん潰れているじゃないかと住み慣れた場所を離れたくないお母さん。二人とも正しくて、二人とも間違っていた。うちの親だけじゃない。みんなどうすればいいのかわからなくて、みんな生きるために必死だった。生きるための正解なんてどこにもなかった。



 三時間目の数学の授業中、窓の外で轟音が広がる。九月の青空を引き裂く飛行機はもう、戦地へ向かう飛行機じゃない。連合軍による、爆弾を載せた、あたしたちを殺しに来る飛行機だ。


 ジリリリリリリ、非常ベルがけたたましく吼え、みんな先を争うようにして机の下に潜り込み、きっと役に立たないだろう防災頭巾で頭をくるむ。黒板の上に設置されたスピーカーを突き破って、教頭の切羽詰った声が聞こえてくる。



『警戒警報が発令されました、生徒と職員のみなさんは全員机の下に避難して下さいっ』



 言い終わらないうちに最初の音が下から突き上げてきた。ずぅどおおおぉん、と地面がうなり、机の上に広げてあった教科書やノートが床に叩きつけられる。かなり近くに落ちたらしい。こんな至近距離で爆撃に遭遇するのなんて初めてだ。怯む間もなく二発目、三発目がとどろく。息をするのを忘れ、動くのも忘れ、全身を恐怖にして爆撃が終わるのを待つ。それ以外に出来ることなんかない。


あたしは、小さかった。守れるものはただひとつ自分だけで、住み慣れた街が壊されていくのをどうしようもなく、黙って受け入れるしかない。爆音が轟き、大地震が起こっているかのように校舎が揺すぶられる。その度に教室のどこかで短く鋭い悲鳴が上がる。黒板消しが、教卓の上の花瓶が、誰かのペンケースが、壁に貼ってあった『明るく素直な心を育む』と達筆な字で書かれた色紙が落ちた。


今は何十年も前のことに思える四月、新学期早々のホームルームで、暑苦しい担任がおもむろに取り出し、シラけているみんなの前で読み上げた後壁に留めた、クラス目標らしき標語だ。明るく素直な心なんてこの場合、何の役にも立たない。清く正しくしていようがずる賢くしていようが、戦争はすべての人間を圧倒的な力でねじ伏せる。

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