第7話

この頃戦況はかんばしくないらしく、追い詰められた日本政府はついに一般人から広く兵を募ることにして、ちょっとした騒ぎになっていた。応募資格は十八歳以上の健康な男子なら、誰でも。ただし未成年、つまり十八歳と十九歳には親の同意が必要だ。募集した兵士にはそのへんの会社に勤めるのとは桁違いの、かなりいい給料が支払われることになっている。



 連日ニュースで特集が組まれ、議論される一般人からの徴兵問題。戦争が起こっているといってもピンときてなかった多くの人が、戦争は夢の中の出来事じゃない、現実のものなんだって、当たり前のことをようやく認識し直し、慌てていた。


世界戦争が始まった十年前、日本が参戦した七年前、あの頃と同じ混乱が再び起こりつつある。学校の帰りに徴兵に反対する署名というのを求められた。駅の地下通路の壁に徴兵反対のポスターがずらりと貼られた。さほど遠くない街で、反戦を訴える過激なデモ隊が警察と衝突し、八人の負傷者が出た。



 あたしが馬鹿だと思うのは、いい機会じゃんと受験戦争からドロップアウトし、徴兵に応募しようって男子がうちの学校からも何人か出たことだ。「お国のために」なんていい子ぶった大義名分はもちろん彼らの頭の中にはなく、勉強嫌い、大学行きたくない、でも就職は厳しい、だったら兵士になろう金もいいし、ぐらいの感覚だ。本気で戦う気なんかなく、本当に戦地に行くわけないって決め付けてる。


でもそれももっともで、実際、一般募集された兵士は基地等でのサポート業務に当たるだけで、実際に戦うことはないと国は豪語している。それでなくても日本が戦争を始めて七年、この間犠牲になった日本の兵士はたったの十二人だ。何十万といる中の、十二人。戦場で弾に当たって死ぬ確率は、宝くじに当たる確率と似たようなものらしい。



「まなか、補習やんないの?」



 戦争をやっていようが戦況が激しくなろうが、大学受験のシステムがいきなりなくなるわけはなく、隣を歩く芽衣美が聞いてくる。先週から放課後に補習が始まり、大半の生徒が参加している。


放課後の廊下はいつものような開放感がなく、生徒たちはみんなさぁこれからもうひと頑張りという顔で、それぞれの教室へ向かっていた。窓の外に広がる空には失敗したスフレみたいな入道雲が浮かんでいる。去年まで楽しみだった夏休みがもうすぐそこまで来ているのに、ちっとも気持ちが軽くならない。



「やんないよ。芽衣美は?」

「うちがやるわけないっしょ。留年候補だもん」

「ま、そうだよね」

「ねぇ、健輔くんとは?」

「連絡ナシ」



 ひらひらと手を振ると芽衣美は急にムキになって、あたしより五センチ低いところにある目を吊り上げる。



「このまま別れちゃうってこと?ダメだよ。健輔くん、すごいいい人じゃん。大事にしなきゃ」

「大事にするっていったって、いろいろ難しいんだっつぅの」



 いくら芽衣美に言われても、きっと健輔とはもう、無理なのだ。それはあたしと健輔が一番よくわかっていること。


 と思っていたのに、校門を出たところに健輔がいた。同じ制服が行きかう中でTシャツにジーンズ姿の、明らかにあたしたちより年上の青年は目立っていて、中には露骨な興味の視線を健輔に当てている女の子もいる。


 ものすごく久しぶりに、目が合った。ほんのちょっと見ない間に健輔の顔は引き締まり、精悍な雰囲気が漂っている。



「……久しぶり」

「久しぶり」

 芽衣美はぱちぱちと何度かまばたきをしてあたしたちを見比べた後、にんまり笑う。



「おっけ。邪魔者は退散ねっ」



 下手なウインクを残して親友は去っていった。芽衣美の気の遣い方がむずがゆく、四方八方から注がれる好奇の目も落ち着かない。健輔がちょっと歩こうかと言って、あたしは頷いた。二人は学校から歩いて五分の、通学路から一本逸れた路地に建つコンビニの前で足を止め、誰もいない駐車場で向き合った。空を飛行機が横切っていく。バリバリと音が天を割る。最近のニュースのせいか、今まではなんとも感じなかった爆音が、急に不吉な響きを持って耳に届いた。



「俺、戦争に行く」



 健輔はあたしの目をまっすぐ見て、言った。あたしはうすうす感づいていたんだろうか。不思議と驚きはなく、ただ、目の前の健輔がいきなり遠くなった気がした。健輔はあたしの知らない間に、あたしの手の届かないところへ行ってしまった。



「音楽、やめることにした。ずっと俺の夢反対してたオヤジと話し合って、ちゃんと決めたんだ。諦めたとかじゃなくて、自分で考えて、納得して、出した結論だから。最後はオヤジも、東京で一人でよく四年も頑張ったなって、褒めてくれた。嬉しかった。最後の最後になって、いざやめるって時になって、やっと認めてもらえたんだ」


「本当に、それでいいの?」



 前はきれいに剃っていたのに今は無精髭が浮いている顎が、はっきり頷いた。



「俺には才能がない。芸能人になれるような器も持ってない」

「やめてよ。そんな、あたしの一言なんかで大事なこと決めないで」

「まなかに言われなくても、前からうすうすわかってた」



 健輔が力なく唇の両端を引っ張り上げて、以前はしなかったそんな笑い方に、あたしはこの人が確実に変わってしまったことを知った。


 あたしは五歳年上で自活していて夢がある健輔を立派な大人として見ていたけれど、本当はあたしが思っていたよりずっと、健輔はあたしに近いところにいたのかもしれない。でもそれも過去の話。今健輔は、何か大きく長く苦しいものを潜り抜けた人しか得られない、悲しい表情で微笑んでいる。あたしには絶対出来ない大人の笑い方だった。



「俺はどんなに頑張ったところで、ロッカーとして芽を出すためのものを持ってない。俺さ、東京に出てきて苦労してるうちに、最初の気持ちを忘れてた。初めは鬱屈した気持ちをロックに乗せてたのに、だんだん大人の感覚が身についてきたら、それが出来なくなった。やろうとしても、出来ないんだよ。


いろんなこと経験して毎日忙しくしていて、そのうち大人の感覚が身につくのはしょうがない。まなかだって、いつかはそうなる。でもだからって子どもの気持ちをあっさり捨てられる人間は、ロッカーには向いてないんだ。いつまでも青臭くいろんなことに傷ついて、考えすぎるぐらい考えて、どんなことも生まれたての子どものようにみずみずしい心を震わせて、感じる。ロックを、いや芸術をリードしていくのは、そういう人間なんだ。俺は違った」



 轟音が遠くなっていく。ドリル頭の飛行機が兵士になった健輔をこのまま戦地へ連れて行ってしまうようで、頭の裏がひんやりとした。健輔は言い終わっても、悲しい笑顔のままだった。長い沈黙が二人を包んだ。飛行機の音が完全に聞こえなくなった頃、あたしは震えそうな喉に力を入れた。



「わかった。いってらっしゃい」



 既に覚悟を決めた健輔を引き止める言葉なんて持ってないし、そんなことをするべきでもない。第一、健輔の理論にあたしは完璧に屈服させられていた。この人の言うことは悲しいけれど、すごく正しい。だから、そう言った。


 健輔がほっと肩の力を緩める。



「よかった。まなかには、ちゃんとわかってほしかったんだ。逃げたなんて、思ってほしくないし」


「思ってないよ、そんなこと」


「なら、よかった。あのさ、また説教口調になっちゃうけど、まなかも頑張れよ、俺がいなくても。ちゃんとやりたいこと見つけて、ヤケになんないで、地道にさ」


「やりたいことなら、見つけた。今わかった」


「どんな?」



 健輔が嬉しそうに目を見開いて、そんな反応をしてくれることが嬉しかった。あたしの嬉しいことは健輔にも嬉しいことで、二人の絆はまだちゃんと存在している。一緒にいることが当たり前だった頃はわからなかったけど、それは強くて美しい、素晴らしい繋がりだった。



「子どもが嫌いにならなくてすむ大人になること。世の中を知って知識や経験が増えたから、あたしみたいに上手く前を向けない子どもを甘えてるって切り捨てるんじゃなくて、逆にいろいろ知ったからこそ、そういう子どもに素直に寄り添えるような大人。ちゃんと、弱い人の気持ちがわかって支えられる大人。そんな、強くて優しい大人になりたい。そういう大人にまだ出会ったことないからお手本がないし、具体的ななり方だって全然わかんないんだけど」


「まなかなら、なれるよ」



 迷わずそう言ってくれて、照れくさかった。ずっともがいてたけど、ひねくれてクサってたけど、あたしはこの瞬間初めて大人になるための一歩を踏み出せたんだと思う。自分の成長を自覚することは、どうにもおもはゆい。


 あんなにキスしてセックスして強く強く抱き合ったのに、今は健輔と目を合わすのもなぜか恥ずかしくて、下を向いて言った。



「戦地に行くってことは、どっか遠いとこに行っちゃうの?」

「行くだろうね。候補がいくつか挙がってるけれど、どれも聞いたことないような国や島ばっかりだった」

「死なないでね」



 声が切羽詰る。口に出して初めて言葉は感情になり、冷たい恐怖が胸の真ん中で膨れ上がった。健輔を失うかもしれない、大事な人が永遠に手の届かないところへ行ってしまうかもしれない、恐怖。その恐怖を強いて振り払おうとするように、健輔は軽やかに笑う。



「大丈夫だって。日本が参戦してからのここ七年、死んだ日本兵はたったの十二人だ。まなかだって知ってるだろ?それに俺ら一般募集のシロウト兵士は、実戦には参加しないし」

「そうだけどさ。やっぱ、自分のこととなると、心配」



 自分のこと。そう、健輔のことは自分のことで、健輔が死ぬことは自分を失うことと同じだ。あたしよりひとまわり大きな手が差し出される。



「戻ってきたら、やり直そう、俺たち」

「うん」



 健輔の体温があたしの手をくるむ。二度とこの手に触れることは、触れられることはないのかもしれないと思うと、急に狂おしいほどの悲しみが湧き上がってきて、身体がばらばらにちぎれそうになる。そんなことあるわけない、健輔はちゃんと戻ってくる、必ずあたしの元に帰ってくるはずだと自分に言い聞かすけど、無駄だった。


行かないで、離れたくない、嫌だよって、そんなことはいくらでも言えた。でもそれは、せっかく前を向いた健輔の歩みを邪魔することだった。あたしは歯を食いしばってぎゅっと健輔の手を握り返した。


 キスはしなかった。手を振って、コンビニの前で別れた。二十メートルほど歩いてから振り向くともう健輔の姿は見えなくて、そこで初めて涙が溢れた。戦争に行ったって死ぬわけない。大丈夫、健輔は死なない。


呪文のように口の中でブツブツと繰り返したけどまったく効果はなくて、熱されたアスファルトの上で嗚咽をこらえて泣くあたしを、通り過ぎる人たちが不思議そうに見ていた。

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