第6話

健輔のいない日々は退屈だ。放課後、どこも行くところがないんだから。予備校にはなかなか足が向かわず、二回に一回ぐらいの割合でサボっていた。芽衣美はリッチなオジサマと会ったり、ちょこまかと遊び歩いたりで、なかなかあたしの相手はしてくれない。


それぞれ夢や目標を掲げ、自分のやりたいことに向かって一心不乱に勉強しているクラスメイトたちは、どこか違う世界の住人のようで近寄りがたい。図書館にはよく行っていたけど、参考書を開いて三十分もすれば集中力は尽きてしまって、いつのまにか窓の外の景色に目を這わせたり、どこでもないところを見つめてぼんやりしたり。


親は相変わらず、あたしの進学のことしか頭にないらしくて顔を合わせると説教ばっかだから、どうやって家に帰る時間を遅らせるか、毎日午後になるとそればっかり考えていた。



梅雨の晴れ間の空が眩しい六月のある放課後、あたしは例の公園に寄り道し、ミントグリーンの怪獣の背中でタバコをふかしながら、今日この後図書館に行くかどうかを考えていた。ソーダみたいな色をした空を、今にもずり落ちてきそうな位置で飛行機が滑っていく。


地上を轟音でかき回しながら。戦争が起こっているって自覚なんかないけれど、唯一このものすごい音が戦争中であることを世の中に思い知らせている。戦地へ向かう飛行機はいつもいやらしいほどの低空飛行なのは、あたしのような暇人にこの平和が見せかけのものであることを知らしめるためなのかもしれない。



日焼けを気にして、顔を半分ハンカチで隠して怪獣の背中に寝転がる。なんだか、すっかり以前の生活に戻ってしまった。健輔に会う前のあたしの日々。別れたら元通りだなんて、あたしにとっての健輔の存在はその程度のものだったのかと、むなしくなる。健輔との関係はあたし自身を変えてしまうほどのものじゃなかったってことだ。


あたしはたぶん、自分でも気付かなかったくらい健輔のことが好きだったんだと思う。なのに、健輔がいなくなった今、あたしは何も変われていない。



うっそ、マジで、ヤベェー、と甲高い声が叫んで、無意識のうちに顔をそちらのほうにやる。ブロック塀で作られた角を曲がって子どもの集団が現れる。揃いの黄色い帽子は下校中であることを示しているのに、背中にランドセルがない。彼らはあたしによくわからない言葉を交えてしゃべり、笑い、時々にやつきながら振り返る。


遅れて角を曲がってきたのは、やっぱり青空だった。しかも今日は子どもの数が増えていて、こないだは四人だったのが七人になっている。七つのランドセルを抱えて歩かせるなんて、ほとんど拷問だ。青空は今にも熱中症で倒れそうにふらふらと足を動かしていた。うつろな目がランドセルの持ち主たちのほうを彷徨っていた。



耐えようのない怒りがあたしを突き動かし、怪獣の背中から滑り降りる。立ちふさがったあたしを見て三人がきょとんとし、残りの四人がはっと身を竦ませた。四人はこの前もいたメンバーだった。学習能力のないガキめ。



「どういうことよ。この前も注意したでしょ。あんたたち、わかったって言ったわよね?」



 一番頭の良さそうな眼鏡の少年を見つめるけど、少年は青ざめた唇を震わせ、俯いているだけだ。悪いことは平気でするくせに、怒られるのは怖いらしい。彼らを縛ってるのは倫理観じゃなくて怒られたくないという防衛本能だけで、だったら怒られないようバレずにやれば、何をやってもいいものだと思っている。



「ごめんなさい」



 この前レモンイエローの半ズボンを穿いていた少年が声を振り絞る。そんなものに騙されない。この子たちはその実、ちっとも反省なんかしてないんだ。自分だって生意気な子どもだから、同じく生意気な子どもの思考回路は透けて見えてしまう。



「人の痛みがわからない人間なんて最低よ。生きてる価値もない最低の人間。知ってる?二十世紀に起こった前の戦争では、人間を兵器に乗せて戦地に送り込んだのよ。


桜花って言ってね、爆弾をつけた飛行機に人間を乗せて、人間が操縦して目標に体当たりするの。乗った人は間違いなく死んじゃう。体当たりだもん。あんたたち、その兵器になればいい。戦争に行って人間爆弾になって、ミンチ肉になって吹き飛んじゃえばいいのよ」



 これはちょっと前に高校であった「今、戦争を考える」という全校生徒参加の講演会で、前の戦争のことを研究している大学の先生が話していたことだ。話自体はひどく退屈だったけど桜花のことはさすがに印象的で、聞きたくもなかった話が今になって役に立った。



 小学五年生はこんな子どもっぽい脅しにビビるほど、幼かった。いや、あたしの剣幕があまりにすごかったのかもしれない。おしっこを漏らしそうに膝をがたがた言わせながら、ごめんなさいとちりぢりに去っていく子どもたち。二人きりになったアスファルトの上、七つのランドセルの重みから開放された青空が、汗びっしょりの顔でお辞儀をした。



「ありがとうございます」

「ありがとうじゃないわよ」



 青空が細い肩をびくっとさせた。あたしはイラついていた。許せないのはあのバカな悪ガキどもじゃなくて、むしろこの青空なのだと気付いた。辛い状況から抜け出せず、助けを待つばかりで、戦おうとしないこいつ。



「なんであんた、いつまでもあんな奴らのパシリやってんのよ。あれが友だちじゃないってことぐらいわかってるでしょう」


「わかってます。でも僕、他に友だちなんていなくて。あんな奴らでも僕と一緒にいてくれるから……」


「バッカじゃないの?だったら、あいつらと一緒にいることを選ぶんなら、パシリじゃなくてちゃんと友だちになってみなさいよ。友だちらしく、嫌なことは嫌ってはっきり言いなさいよ。なんで立ち向かっていかないのよ。


あんたがそんな弱虫だからいじめられるんでしょ。自分のことを守れるのは自分しかいないんだから。人生、いっつも泣いてたら誰かが助けてくれるなんて、そんな甘いもんじゃないのよ」



 青空の丸い目が涙で盛り上がる。その瞳にさえも、腹が立つ。青空は、あたしだ。あたしの弱い部分をぎゅっと寄せ集めて取り出して、濃縮したものが青空だ。



「いじめられるほうにもさ、絶対責任ってあるんだよね。いじめられるのはあんたが悪い」


「僕は悪くありません」



 あたしは青空をただの弱虫で、嫌なことを我慢するだけでまったく戦おうとしない子どもだと思ってたから、彼がそう叫んだのが本当に意外だった。目を見開いたあたしを充血した瞳が下から睨みつける。



「僕は悪くありません。確かに僕は弱いけど、まなかさんの言うとおり、戦ってなんかないけど……でも、僕は悪くないんです。あいつらにいじめられるようなことなんて、何ひとつしてないはずです。あいつらが僕の弱さに勝手につけ込んで、いじめてるだけなんです」


「……」


「夕べ、勇気を出してお父さんに相談したんです。すごい怒られました。兵隊さんたちが戦争に行って戦ってるのに、お前は目の前の敵とも戦えないのかって。わかってますよ僕にも責任があるって。頭ではちゃんとわかってる。そりゃ、僕は弱いです。強くなんなきゃと思います。


だけど怖いし、辛いし、どうしたらいいのかわからないし、どうしようもないんです。夜寝る前、布団の中で明日はああしようこうしようって考えても、いざ学校であいつらと向き合ったら足がすくんじゃうんです」



 感情が、膨らんだ瞳を突き破って、溢れる。赤い顔でしゃくり上げる青空を目の前にしていたら、あたしを熱くしていた怒りがすうっと冷えていった。あたしはきっと間違ったことは言ってない。でも言うことが正しいとか正しくないとか以前に、もっと肝心な部分を間違えていた。


 青空が目を伏せ、ひとつ鼻をすすって、言った。



「結局、まなかさんもお父さんみたいな大人なんだ」



 青空はランドセルをカタカタ鳴らして駆けていく。だんだん小さくなっていく背中を、遠くなる影を見つめながら、青空からしたらあたしは立派な大人だったのだと知った。そういえば制服がやたら格好いいものに見えたあの頃、高校生なんてすごい大人だったっけ。



 やっと気付いた。あたしは、自分がなりたくない大人になりかけていた。


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