第5話

絶対嫌だって言ったのに、芽衣美はライブ終了後、健輔たちの楽屋に行かなきゃと言って譲らなかった。「そりゃあんたの気持ちはわかるよ。でも逃げてたって何も始まらないでしょうが。このまま別れたら健輔くんもまなかも、絶対後悔するよ」……


芽衣美の言うことは正しい。でも今健輔に会ってどんな顔をしたらいいか、なんて声をかけたらいいのか、考えるだけで途方に暮れた。



 運動公園の片隅に建つ体育館は小さなトレーニングジムや室内プールが設置され、いくつかの会議室も設けられている。会議室の小部屋のひとつが健輔たちに割り当てられた控え室だった。廊下を突き当たってすぐのドア。長い廊下を半分まで歩いたところで、あたしも芽衣美も立ち止まってしまう。健輔の怒鳴り声が壁を突き破り、廊下にまで響いていた。



「なんでちゃんとやらないんだよ。こういう時ぐらい、真面目にやろうって気持ちがないのかよ。見てくれてる人たちに失礼だと思わないのか」


「みんな、俺らの演奏なんか聞いてない。たまたまやってきたお祭りでたまたま騒いでる奴らがいたからたまたま足を止めた、それだけなんだよ」



 さっき、ぶつかってドラムを倒したユウの声だった。沸騰した怒りがにじみ出ている健輔の声に対し、ユウの声はしんと冷えている。その冷たさに臆したかのように、次の健輔の言葉が出てくるまでやや間があった。



「それだけでもいいじゃないか。たまたまだろうがなんだろうが、俺たちの演奏を聞いてもらえるってすごいことだろう、なんでそれがわかんないんだよ」


「もううんざりなんだよ、俺は」



 ドラムのヨウが言って、何か固いものを床に叩きつけた音が続く。きっとスティックだろう。健輔たちの胸に走った衝撃が空気を凍らせた。ドラマーがスティックを床に叩きつけるのがどういうことか、音楽にちっとも心得のないあたしでもわかる。



「健輔はなんでそんないつもモチベーション高いんだよ。いい加減こんなことに燃えてねぇで現実に目覚めろよ。俺なんてもう、親と顔合わせる度こんなご時勢に音楽なんかやってどうするんだって、そればっかで」


「そんなことぐらい俺だって言われてるよ。なんでそこで引き下がるんだよ」


「俺もそう思うからだよ!」



 ヨウはユウと違って感情を殺さない。投げつけるような言葉にかっと目を見開いた健輔が、ドアの向こうに見えるようだった。彼が東京に出てきてからの四年間、ずっと積み上げてきたものが、砂のお城が消えるように音もなく崩れていく。後にはむなしさと悔しさしか残らない。



「健輔、そろそろ大人になれよ。俺もお前も今年二十三だぞ?いつまでもこんなことやってられない。地元戻ったらみんな就職したり結婚したり、俺だけ置いてかれてんだよ。健輔はなんで平気でいられんだよ。大人にならなきゃって思わねぇのかよ」



 健輔は答えない。ヨウがはぁぁ、と身体の中を一気に空っぽにするような大きな息をついた。



「俺、きっと大人になっちまうのが嫌なだけだったんだ。つまんない大人になって、みんなと同じように背広着て会社に通って、なんの面白みもない人生を送るのが嫌だった。


そんなんじゃなくて、もっと特別な何かになりたかった。俺ならなれるんじゃないかって、どっかで傲慢に思ってた。そのために、音楽を利用してただけなんだ。もっと言うなら、別に音楽じゃなくたってなんだってよかったんだ。絵とか小説とかでも。たまたま俺がドラム叩けたから、音楽ってだけで」



 力を失ったヨウの言葉がいよいよ健輔の怒りを限界まで押し上げた。ドアの向こうで健輔はヨウの胸倉を掴んでいたかもしれない。



「なんだよそれ。そんな、そんなの、おかしいだろ。お前らみんな、そんな甘っちょろい気持ちで音楽やってたのか!?ユウもか!?ノボルもか!?……そんな、それなら、何でもっと早くやめなかった!?これこれこういうことだからって、バンドやめなかった!?俺は違うんだよ。俺はお前らと違って本当の本気で音楽が好きなのに!!


……そうか、そりゃそうだよな。そんないい加減な気持ちでやってたら、目立ちたいとか特別になりたいって気持ちが音楽を好きな気持ちに勝ってたら、そりゃ無理に決まってるよな!?だからだよ。だから俺たち四年もやってて芽が出ないんだよ。迷惑だからさっさとやめてくれ、お前らのせいで俺まで引きずられるんだよ!!」



 控え室のドアには鍵がかかっていなかった。開けると、八つの目が驚きに竦みながら一斉にあたしを見る。健輔はあたしの予想通り、ヨウの胸倉を掴んでいた。血走った目が情けなく、哀れにさえ見えた。好きな人がそんなふうに見えてしまうことが悲しかった。



「いい加減にしなさいよ。人のせいにしてんじゃないわよ。そりゃ、たしかにこいつらはあたしと同じくらいの甘ったれだけど、だからって健輔がデビューできないのは健輔の責任でしょ?健輔に才能がないからでしょ?健輔にそもそも芸能人になる器がないからでしょ?こいつらの本性を見抜けないで四年も馬鹿みたいに信じてやってきた、あんただって悪いのよ」



 健輔の興奮して真っ赤になった顔が崩れた。でも、あたしを見る目はヨウたちを見る目と同じだった。



「そんなこと、なんでお前にわかるんだよ。現実と戦おうともしない甘ったれたお前に」


「わかった。こんな甘ったれた子どもなんかと、もう付き合いたくないでしょ?」



 それだけ言って、背中を向けた。速足で歩き出すと、健輔は追いかけてこない。芽衣美がハイヒールによろめきながら、一生懸命ついてくる。



「やめなよ、謝りなよ、今ならまだ間に合うって」



 泣きそうな声で繰り返す芽衣美にあたしは何も言えない。


 健輔の言うとおり。きっと、あたしにこんなえらそうなことを言える資格なんかない。いくら言ってることが正しくても、それをあたしが言うことは正しくない。

そして、あたしと健輔が再び手を取り合う可能性は、これでゼロになった。

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