第4話
街外れの山間部、山を切り開いて作った運動公園には人が溢れていた。みんなそれぞれサングラスや帽子や日傘で紫外線を遮り、額に汗を浮かせている。つい五十年ほど前までは「初夏」と言われていたこの時期でも、今日では三十二度を超える暑さが当たり前だ。
公園の花壇にはブーゲンビリアの花が溢れるように咲き、昔は赤道直下の国にしか存在しないはずだった青や紫の蝶が飛び交っている。どの木にもアブラゼミが貼り付いてジージーと湿った空気をかき回していた。
暑いのは今に始まったことじゃないし、最近は日本人もだいぶ暑さに強くなっているというけれど、それでも顔の両サイドを汗の川が流れていくのが気持ち悪くて仕方ない。せっかくのメイクが意味ないじゃんと思いながらハンカチを取り出す。
この体感温度は太陽のせいだけじゃなくて、人々の身体から放出される熱気のせいもあるのかもしれない。市が主催する年に一度のフェスティバルで運動公園はごみごみとしていた。
暑さをものともしない元気な笑顔で、タンクトップ姿の子どもたちが、並んで歩くあたしと芽衣美の傍を駆け抜けていく。クレープに焼きそば、たこ焼き、カルメ焼き、時代は移り変わってもほとんど変わらない屋台の品々が、おいしそうな匂いで空気を染めている。パンダの着ぐるみに風船を渡され、あたしたちはひとつずつもらった。
「戦争してるってのに、世の中平和だねぇ」
あくびが出そうな顔で芽衣美が言う。まったくもって同感だ。あまりに平和過ぎる怠惰で平凡な日常の中にいたら、日本が、世界が、戦争をしていることなんて忘れてしまう。遠い国で起こっている出来事は小説や映画の中の出来事と大して変わらないようで、全然現実味がない。
それでも平和な日常に水をさす輩がいるもので、歩いてたら『未来に生きる子どもたちのため、戦争をなくそう』と訴える横断幕と、日の丸つきのハチマキを締めてビラらしきものを配ってる人たちの集団に進路を塞がれた。拡声器のせいで輪郭のぼやけた声が聞こえてくる。
『戦争は人命と国力をいたずらに消費するばかりで何も生み出しません。今、ここにいる私たちが戦争にNOと叫ぶこと。それこそが平和を実現する力になります。戦争をしたいという人がいなくなれば、戦争はなくなるのです』――
あたしと芽衣美の手にもチラシが押し付けられる。張り詰めた顔をした反戦運動の人たちから十メートルほど離れたところにゴミ箱が設置されていて、みんなもらったばかりのチラシをそこに押し込んでいた。真っ赤な日の丸が重なり合い、禍々しい光景を作っている。あたしと芽衣美もゴミ箱にチラシを突っ込み、互いに無言のまま、つかつか歩いた。
馬鹿みたいだ。いくら反対したって、もう無理なのに。戦争は誰にも止められない。日本は、世界は、なるようになるしかない。
開戦当初は大反対していた世論だけど、今は「戦争は嫌だけど仕方ない、日本も戦わざるをえない」という考え方が主流になっている。そりゃ、世界中の国が巻き込まれている大戦争で、日本だけそしらぬ顔というわけにはいかない。戦争が始まったのはあたしが七歳の時で、日本が参戦したのは十歳。
今以上に何も知らない子どもだったけれど、あの頃は楽しみにしていたテレビがことごとく戦争関係の番組に食い尽くされ、子ども心にも大変なことが起こっているんだな、って思ってたっけ。戦争を始めた国と、国に怒りをむき出しにする国民たち。
延々と繰り返される難しい議論。けれど戦争は長引き、戦争をしていることが当たり前になるにつれて、かえってこんな穏やかな平和は広がったのかもしれない。戦争の中の平和。
ニセモノは、どっちなんだろう。戦争をしている事実か、晴れた空に風船が揺れるようなささやかな平和のほうか。どちらもちゃんと存在しているもののようで、どちらも決して掴めない。
やがて、広場に出た。奥のほうに設置された野外ステージの前には既に人が集まっていて、舞台の上で健輔のバンドの人が機材をいじっている。
「やっぱ帰ろう、芽衣美」
キャミソールからはみ出した芽衣美の細い腕を握って言った。あたしと同じく汗で化粧の溶けた顔がしかめ面を作る。
「ここまで来て逃げないの。悪いこと言わないからちゃんと仲直りしなって、彼氏と」
「芽衣美はずっと彼いないからわかんないだろうけどさ、いろいろあるんだよ、付き合ってると」
「まなかは贅沢なんだよ。自分のこと好きでいてくれる人がいるって、それだけですごいいいことじゃん?もっと大事にしときなって。それと、ずっと彼いないってのは余計」
言い放って歩き出した芽衣美を仕方なく追いかける。日差しを遮るものがない広場の上では、芝生が黄緑色の海のように輝きながら広がっていた。
今日のフェスティバルにはいくつかの若手バンドが曲を披露するというイベントがあって、健輔のバンドも呼ばれていた。レコード会社の人も見に来るっていうから、夢に近づくビックチャンスらしい。それを知った芽衣美がケンカ中のあたしたちを心配して、ほとんど無理やりのように引っ張ってきたのだ。
あれから電話もメールもないまま、またたくまに一週間が過ぎてしまった。このままじゃいけないってわかってるし、あたしだって健輔と別れたくない。だけど今健輔と顔を付き合わせるのは歯医者にでも行くのと同じで、あたしは心に病巣を抱えながら嫌なことをついつい先送りにしていた。
やがてライブが始まる。幸か不幸か、健輔たちの番は一発目。パラパラの拍手に迎えられ、メンバーがステージ上に現れる。その時から既に悪い予感がしていた。直前に揉め事でもあったのか、健輔を始めみんな、表情が暗い。ギターのユウもベースのノボルも、どこか投げやりな感じでのろのろと歩く。どれだけ好意的に見たって、単に緊張してるだけだなんて思えなかった。
『集まってくれたみなさん、今日はどうもありがとうございます。まずは僕たちのバンドの一番新しい曲からです。聞いてください』――
健輔がマイクを通して短い、当たり障りのない挨拶をする。顔も声もこわばってるのはプレッシャーのせいだけじゃないはずだ。やがて音が鳴り出す。聞いたことのない曲だった。あの日、健輔がせっかくやってきたあたしを無視して、一生懸命作っていた曲だろうか。
相も変わらずどこかで聞いたようなメロディにどこかで聞いたような歌詞だったけど、甘く切なく愛を歌うフレーズは自分に向けられたもののように響いた。愛し合いながらすれ違う恋人たちの悲しみを込めた、耳に優しいバラード。
しかし、ステージ上の雰囲気は明らかにおかしかった。真剣な顔つきでマイクを握る健輔に対し、他のメンバーはどう見たってやる気がない。ミスタッチの多いギター、だるそうに手を動かすベース、憮然とスティックを握るドラム。まともに演奏すればそれなりにいい曲なのに、健輔が音に込めたソウルがちっとも観客に伝わっていない。
見ている人たちもあくびをしたり、隣の人としゃべったり、曲半ばにして帰り始めたりで、音楽に集中しているのはあたしと芽衣美ぐらいのものだった。曲がサビに入ってもグダグダ状態は続き、ボーカルの声が苛立ちを帯びてくる。芽衣美があたしの横顔に心配そうな視線を当て、あたしが何か言わなきゃと口を動かそうとした時、ステージ上で大きなものが倒れる音がして、観客の目が初めてそこに集中する。機材が立て続けに落下した後、仕上げのようにシンバルがチィンと悲鳴を上げた。
なぜかステージの上でドラムが倒れていた。ギターのユウがごめん、ごめんと小さな声で叫んで慌てているところを見ると、ユウがドラムにぶつかって倒したのだろう。ベースのノボルは唖然としながらも演奏を続けなければという意志が勝ったのか、二人のほうを心配そうに見ながらまだ指を動かしていた。でも、歌はなかった。
健輔はユウたちを、ステージ上に崩れたドラムを、睨んでいた。怒りに凍りついた顔は、責めても責めきれないというように仲間を見つめている。誰かが言った。
「しっかりやれよー、お兄ちゃん」
酔っ払いのオヤジのものらしきだみ声に失笑が重なる。それで我に返ったようにようやく健輔がマイクを握り直したが、声からはさっきまでの真摯さが抜けていた。上の空のボーカル、焦りを隠せないギター、淡々としたベース、消えたドラム。音楽は完全に崩壊していた。
もう見ていられなかった。踵を返して走り出したあたしの腕を芽衣美が掴む。振り返ると芽衣美はぶんぶんと一生懸命首を振っていて、彼女の肩越しにステージ上の健輔が見えた。目が合った。健輔は逃げようとしたあたしを咎め、あたしは怒った顔のまま歌う健輔を咎めていた。
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