第3話
駅前に三軒ある本屋さんをブラブラ梯子した後、駅から家まで歩く途中の公園に入り、タバコに火をつける。学校のグラウンドの1/4ぐらいの広さで、広さの割に遊具がぽつりぽつりとしかない、時々小学生がサッカーの真似事をして遊んでるのを見かける公園。五月の平日の夕方だけど、今日は遊ぶ子どもの姿がまったくなかった。
ミントグリーンの怪獣型すべり台の背中で煙を吐き出すあたしに、公園の前を通り過ぎていくおばさんが鋭い視線を当てる。白髪の多いひっつめ髪も洒落っ気のまったくないグレーのTシャツも吊りあがった細い目も、あたしみたいな生意気で甘えてる若者なんて連合軍の新型爆弾が当たればいいと言っていた。
直接注意はせず、目で「やめろ」と言ってるつもりなんだろう。知るか。あたしはおばさんの横っ面に吹きかけるつもりで大量の煙を吐き出してやった。おばさんは、そのハリガネみたいな身体がブロック塀で作られた角の向こうに消えるまで、振り返り振り返り、あたしを睨みつけていた。
ちゃんと口で注意すればいいのに、「何を考えているかわからない今どきの子ども」が怖くてそこまで出来ないのだ。大人なんてそんなもん。まぁ、注意されたからって今やめるだけで、どうせ後でまた吸うんだけど。
ニコチンのおかげでクリアになった頭に、さっきの健輔の姿がぼんやり浮かぶ。あたしを見ることをやめ、充血した赤い目を悔しそうに床に落とした健輔。逃げたいのに、忘れたいのに、拒絶すればするほど苦い記憶はあたしを捕らえて離さない。
健輔の言い分は正しい。生意気なのも甘えてるのも、こうやってクサってたって始まらないのも本当で、彼の言葉を受け止められないあたしが一方的に間違ってるだけだって、本当はちゃんとわかってる。
でもあたしは、正しい意見なんてちっとも求めてない。周りに流されて受験生やってる自分を、甘ったれてる自分を、夢を見つけられない自分を、そんな毎日から抜け出せなくて、努力なんて何ひとつしてないくせに不満ばかりの格好悪い自分を、真っ当だと言ってほしかった。叱ってなんか欲しくなかった。叱るのなら、どうしたら真っ当になれるのかまで、一緒に考えてほしかった。
やっぱり甘えてる。けどこれが、今のあたしの偽らざる気持ちなのだ。
どうしてこんなに、認めてほしいんだろう。ダメダメなくせにプライドばっかり高いこの性格が嫌になる。
はじけるような子どもの笑い声に意識をさらわれ視線を上げると、さっきのおばさんが消えた角を曲がって小学生男子の集団が現れた。黄色い帽子は被ってるけれど、ランドセルは誰も持っていない。声変わり前の甲高い声でキャーキャー騒ぎ、時々クロフツとかニコパンとかいう意味不明の言葉が聞き取れるけど、たぶん教師か生徒のあだ名とかだろう。
帽子を被ってるなら下校中のはずなのになんでランドセルがないんだろう、という疑問が浮かんだ時、四人の男の子たちの集団から五メートルほど遅れて、トロトロともう一人歩いてくるのが見えた。
動きが遅いのは彼の両手に二つずつ、計四つのランドセルがぶら下がってるから。他の子どもたちよりも身体がひとまわり小さくて、ランドセルの塊が歩いてるみたい。その顔には子どものくせにまったく生気がなく、目が疲れにとろんと濁っていた。
いじめだ。これぐらいのこと、大人だったら気付かないのかもしれない。でもあたしには、わかる。だって他の四人の子どもは時々肩を突つき合って振り返り、目配せして喜びを押し殺したような暗い笑いを漏らすから。その顔が、四つのランドセルの塊が、ものすごく気に障った。健輔のせいで溜まったイライラに、こいつらが火をつけた。
あたしは火のついたタバコを握ったまま、怪獣の背中から滑り降りる。ローファーがことん、と小気味よい音を立てて茶色い土に着地する。
「あんたたち、なんで自分のランドセル自分で持たないのよ。あの子にだけ持たせるの、おかしくない?」
公園の前の路地に出て四人を立ち塞ぎ、左手を腰に添えて言うと、四人の顔色がすっと変わった。たかだか女子高生の鋭い言葉に本気でビビっている。ビビっているのは自分たちに後ろめたいところがあるからだ。
「ランドセルを五つも持ったら重いって、それぐらいわかるでしょ。見たとこもう、一年生や二年生じゃないじゃん。何年生?」
「五年生です」
右端の、丸眼鏡をかけた頭の良さそうな子が声を震わせた。いかにも勉強が出来そうな、私立の中学に行くタイプだ。脳味噌のある部分ばっかりやたら発達して、大事なところがすっぽり抜けてしまったんだろう。
「五年生なら、そんなちっちゃい声じゃなくてちゃんとしゃべりなさいよ。なんでこんなことしてるのか、お姉さんに言いなさい」
「罰ゲームです。じゃんけんで負けたから、こいつが」
眼鏡の男の子の隣の、いかにも性格が悪そうな三白眼の男の子が、こいつが、のところで身体の片側だけで振り返り、ランドセルに埋もれている少年を指差した。まるで糞まみれの野良犬でも指すような、曲がった人指し指の先っちょ。いじめられ少年はあたしを見て、驚いたように目を見開いている。さっきはうつろだった目が、子どもらしいまん丸になっていた。
「へぇ、それほんと?毎日毎日、この子に持たせて帰ってるんじゃないでしょうね」
「違います」
「どうだか。あんたたち、わかってる?こういうことだって立派ないじめなのよ。いじめって軽い言い方だけど、この子の親が訴えたら、犯罪になるの。そしたらあんたたち、犯罪者だよ」
「いじめなんて、してません」
三白眼の隣のレモンイエローの半ズボンがよく目立つ少年が、今にも泣きそうな声を出す。泣くなら最初からいじめなんかしなきゃいいのに。
「じゃあ、百歩譲って罰ゲームってことにしようか。罰ゲームだってね、何させてもいいってわけじゃないのよ。ランドセル四個も持たされたら重いって、おしゃべりから一人外れたら辛いって、そんなこともわかんないの?
五年生のくせに。身体ばっかでかくなって勉強ばっかして、ろくでもない大人になるんじゃないわよ。ほら、さっさと自分のランドセル持って、帰る」
顎でランドセルに埋もれた少年を指差すと四人はいそいそと少年に駆け寄り、自分のランドセルを手にするなり脱兎のごとく逃げていった。切羽詰った靴音が聞こえなくなると、ボーイズソプラノの声がする。
「あ、あの。ありがとうございます」
両手をしっかり身体の横につけ、でも背中は曲がった状態で、おずおずとお辞儀をする。そのおずおずにまた少しイライラさせられ、つい声がとがった。
「別に。むしゃくしゃしてたところにあいつらの笑顔のせいで余計むしゃくしゃさせられて、発散しちゃっただけだし」
「なんでむしゃくしゃしてたんですか?」
「あんたには関係ない」
これで終わりにするつもりだったのに、ミントグリーンの怪獣の背中によじ登ったら、いじめられ少年もついてくる。ちょこんと隣に座り、制服姿で堂々とタバコを吸うあたしを物珍しそうに見上げていた。
「あの」
「何よ」
「あなた、不良ですか?」
「……タバコ吸うだけで不良になるなら今日びの高校生なんてみーんな不良よ」
「そんなもんですか」
「そんなもんよ」
「でも、不良なのに、助けてくれましたね。僕のこと」
小さな唇が初めてちょっと笑った。急に照れくさくなって、怪獣の背中で乱暴にタバコをもみ消した。こんな無用な親切、あたしらしくもない。人に感謝されることに慣れていなさ過ぎなのだ。
「あんなこと、いつから続いてんのよ」
恥ずかしさのせいでつっけんどんなトーンになったことに気付かないように、少年はのんびり答える。
「一ヶ月くらい前からかな。いつも一緒にいるのに僕だけどうも馴染めてない感じで、なんとなく仲間はずれみたいな……給食の時、僕、嫌いなものを食べる係ってのやらされてるんです。じゃんけんで決めるはずなんだけどみんな示し合わせてていつも同じの出すから、結局、必ず僕が負けちゃって」
「他は?」
「プリント集めて先生に持ってくのとか黒板消しの当番とか、そういうの僕に押し付けてきたり。掃除も僕一人でやらされてみんなは遊んでて、先生来た時だけ協力して真面目にやってるフリとか」
実に巧妙だ。こういういじめが一番、タチが悪い。一見仲良くしていれば、大人もなかなか入っていけないから。同じ思春期の人間として彼よりずっと先輩のあたしは、そういういじめをいくつも知っている。
「他は何かされてないの?」
「他は、ないです、もう」
「正直に言わないと学校に言いつけるよ、このへんだと桜小でしょ?あたしもそこの出身だし。そして君の名前は青空くん」
「なんで知ってるんですか」
「給食袋に名前、刺繍してあるじゃない」
青空ははっとして、恥ずかしそうに、でも宝物を扱うように、ランドセルにぶら下がった給食袋を手に取る。空色の袋に、丁寧な黄色のステッチ。青空は親にしっかり愛されているんだろう。
「恥ずかしいです、こんなの」
「恥ずかしいなら持ってかなきゃいいのに」
「でも持っていかないと、せっかく作ってくれたお母さんが可哀想だから」
小学五年生といえばぼちぼち反抗期で、男の子だったら親にババアとか言っちゃってもおかしくない年頃なのに、この子はいじめられようがなんだろうが、ひねくれてない。純粋で、まっすぐ。その純粋さこそがいじめられる材料になっていそうで、切なくなる。
「青空って変わった名前だね、初めて会った」
「僕は戦争が始まった年に生まれたんです。僕が大人になる前に、今の大人たちが飛行機の飛ばない、きれいな青い空を取り戻そう、って意味で」
「いい名前ね」
「いい名前です」
青空がちょっと誇り高い顔になった。
自分よりはるかに小さなこの男の子を、立派だと思った。自分の名前とか自分の親とか、愛すべきものをちゃんと愛せている、この子は。
「あなたの名前は?」
「まなか」
「可愛い名前ですね」
「あたし、上に兄貴下に弟の三人兄弟でさ、まんなかだからまなか。もう一人下に作ろうって計画が、あたしが生まれた瞬間からあったってこと」
「……まじですか」
「最悪な名前のつけかたでしょ」
「最悪ですね」
「言うわね、あんた」
こめかみを小突くと、青空はくすぐったそうに笑った。あたしより一年半遅れて生まれた弟は、ここ数年あまり仲が良くない。喧嘩するわけじゃないけれど、お互い干渉はしないし、余計なことは一切しゃべらない。お互い、「家族」「姉弟」という自覚に欠けててるんだと思う。
青空といると、小学生の頃にタイムスリップして、まだ仲の良かった弟と腰を下ろしてしゃべってるみたいで、懐かしいような恥ずかしいような、妙な気持ちだ。
「で?ほんとに、今言った他に何もされてないの?あいつらに」
「おごるの、僕の役目です。ジュースとかゲームのカードとか、ちょっと格好いいシャーペンとか。お小遣い、だいぶ貯金してたのに、ほとんどなくなっちゃって」
「そっか」
二人の会話を遮る轟音が空をいっぱいにする。銀色の飛行機が連なって青空を横切っていく。どこかの国で敵の腹をかっさくドリル頭が、鈍い輝きをばらまいている。嫌がらせのような低空飛行で、あまりの音に磁場が歪む。耳に不快さが溢れ、あたしと青空は同じところを押さえながら目をつぶる。
こうやって、戦地へ向かう飛行機が我が物顔で空を蹂躙するようになったのは、いつからだろう?あたしも青空もまだあんまり小さくて、大人たちのすることに振り回されてばっかりだ。
「あんな奴、最悪だね。戦争と同じくらい」
「最悪です」
轟音の中で青空の高い声は不思議とくっきり聞こえた。一瞬だけ使えるテレパシー、みたいなものもあるのかもしれない。
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