第2話

予備校の授業が二コマ目からだったから、放課後になるとまず健輔のアパートに向かった。健輔の部屋はいつ行っても汚くて、あたしが何度片付けてもすぐちらかる。今日も床いっぱいに脱ぎっぱなしの服が散乱していて、テーブルには食べっぱなしのカップ麺が三つもあった。窓も閉めっぱなしなので入った途端湿気がじわりと首筋にまとわりつく。空気自体に黴が生えているんじゃないのか、この部屋は。


 健輔はゴミ箱をひっくり返したみたいなワンルームの中、床にぺたんと座ってキーボードを叩いている。アパートは楽器禁止なのでヘッドフォンをつけていて、耳にかぶせた部分から時々機械で作った音が漏れ聞こえてくる。


「目、すごい充血してるよ」


 隈を作った真っ赤な目を覗き込んで言うけれど、健輔は楽譜しか見ていない。右手に持ったボールペンが素早く譜面に音符を書き込む。


「朝バイトから帰ってきて、それから寝てないし」

「嘘。まさかずっとそれやってる?」

「いけない?今度イベントでやる曲、今日中に上げないといけないから。まなかもそのへんで勉強でもしてなよ、もうすぐ終わる」


 あたしがいる時ぐらいそんなことしなくていいじゃん、という反論をのっけから拒否しているそっけない言葉。曲を作っている時の健輔と喧嘩したって無駄だ。諦めてゴミだめのような部屋の隅っこにぺたんと座り、単語帳を取り出す。


カードをめくるけど左脳はまったく働かず、目はひたすら健輔の横顔に注がれていた。あたしは健輔が曲を作っているところを見るのが、結構好きだ。男の子が、セックス以外のことをこんなに真剣な顔をして頑張ってるところって、なかなかお目にかかれるもんじゃない。



 健輔との出会いは半年前。予備校の帰り、路上で仲間たちとライブをやっていた健輔を、隙間がいっぱいある人垣の中で見ていた。メロディも歌詞もどこかで聞いたことのあるような曲ばっかりだったけど、健輔の甘い歌声と聴いてる人の心に真摯に訴えかけるような表情が、気になった。つまり、好みだった。


演奏がすべて終わった頃には夜もどっぶり更けて寒くって、冷たい手をこすり合わせながら帰ろうとしたあたしを健輔は追いかけ、あったかいミルクティーを差し出してくれた。当然のように、二人はその後秒速で恋に落ちた。



 最初はストリートミュージシャンとの恋なんてマンガみたいじゃん、ちょっといいじゃん、ぐらいのノリだったのに、気がつけば週に三回はここに来てセックスして帰ることが日常になっている。健輔は普通に格好いいし、性格もミュージシャンだなんて、響きからしていかにもチャラそうな人種の割には真面目でいい奴だし、好きだけど、その「好き」は正々堂々と愛してるって言えるほどの「好き」じゃない。


あたしはただ、同じことの繰り返しの日常を、進路のことばっかり話題にする親を、思うように上がらない成績を、一瞬でも忘れさせてくれるものが欲しいのかもしれない。恋愛やセックスは、灰色受験生のちょうどいい気晴らしだ。



 なんか、逃げてるなぁと思う。問題なんて何も解決してないのに、セックスなんかに溺れちゃってる自分がバカに見える。あぁそっか。だから大人は子どもにセックスさせまいと、異常なまでに神経質になるのか……そんなことを考えているとふいに健輔がキーボードから顔を上げ、楽譜を片付けている。他のところはちっとも掃除しないくせに、楽譜の扱いだけは丁寧だ。



「終わった?」

「あぁ」

「ね、どんな曲作ったの?ラブソング?」

「後で聞かせてやるよ」



 言いながら健輔が近づいてきて、自動車の部品工場の夜勤で鍛えたがっしりした手のひらがあたしを包み、優しく押し倒す。長いキスの後抱きかかえられ、ベッドに運ばれる。健輔はシーツの上に散らかった服を乱暴に床に落として、それから制服のブラウスに手をかける。



 たしかに繋がってるはずなのに、この世で一番近くにいれるのに、一番遠い気がする。セックスの時、そんなふうに感じてしまうのはあたしだけだろうか?共有し、追いかけている快感は一人ひとりの一番奥深いところにあって、二人の間にあるんじゃない。それぞれただ、個人的な悦楽を手に入れるためだけに、必死で腰を振っているように思ってしまう。



 触れて、感じて、入れて出して。いつも通りの過程が終わった後、健輔はタバコを咥え、あたしはその隣に寝転がって、それぞれに快感の波が退いていく余韻を味わう。健輔は煙を吐き出しつつ、あたしが今もっとも触れてほしくない話題に、邪気なく触れる。



「そういや今日、中間の結果出る日だって言ってたよな。どうだった?」

「二十番も下がった、順位。完全に終わってる」



 健輔が無表情になる。どん底まで落ち込んでいるあたしの前でどんな顔をしていいかわからないんだろう。



「次頑張ればいい」

「頑張りたくない。なんかもう嫌んなった、受験勉強も大学いくのも、社会に出るのも。立派な社会人になんかならなくていい、そんなものになったからってきっとちっとも楽しくない。苦しいのが今だけだなんて信じられない」



 健輔はあたしが誕生日にプレゼントしたガイコツのマークが入った灰皿でタバコをもみ消しながら、今絶対言ってほしくないことをあっさり言った。



「甘えてるよ、まなかは。そうやってクサってたって始まらないだろ。なりたくてもなりたくなくても、みんないずれ絶対大人になるんだから。も少し真面目に将来のこと考えろよ」

「そういうことを平気で言うあんたみたいな立派な社会人になりたくないって言ってるの」



 東京へ出てきて丸四年、未だに目が出ないフリーターのロッカーは、立派な社会人と言えるのか。まぁ、夢を追って生きることを父親にさんざん反対された挙句上京し、誰にも頼らず、苦しいながらも自活して夢を追ってるんだから、立派だな、たぶん。


 あたしの問題を「甘えてる」の一言で片付けてしまう大人は嫌いだし、そんな簡単なことしか言えないなんてあたしの気持ちにちゃんと向き合ってくれてない何よりの証拠なんだろうし、そういうあなたみたいにはなりたくありませんよって思う。


「甘えてる」、その意味がわからないわけじゃない、むしろとても正しいんだろうけれど、そんなこと言われたからってあたしは変われない。自分がダメなことは自分が一番よく知ってる。


それでも認めて欲しいし、認めてくれる自分より大きなものの存在を求めてしまう。大人になんかちっとも期待してないはずなのに、どこかでちゃんと、求めてる。だから、五歳も年上の男の子を彼氏に選んだんだろうか。


 あたしを見下ろす充血した目が不機嫌そうに歪んだ。



「なんだよ、それ」

「だってさ、あたしたち子どもを否定することは過去の自分を否定することでしょ?ちょっとトシをとって時間が経ったからって、そう簡単に自分を否定できる人間なんて、なんだか信用できないような気がすんのよ。自分より弱い人間の気持ちがわからない、わかろうとしないなんてさ」


 あたしは「大きくなったらクジラになる」なんて突拍子もない夢を持ってた幼稚園の頃の自分も、教室でお漏らししてしまった小学一年生の頃の自分も、くだらない下ネタで盛り上がって自転車に最高何人まで乗れるかとかバカやってた中学の頃の自分も、いつまでたっても否定したくなんかない。いつの自分も認めて、受け入れて、愛してあげたいと思う。若い頃は、なんて言うより、何歳の自分も自分であることには変わりなくて、今も昔もひっくるめて自分大好きで、そんな人のほうが絶対格好いいと思う。健輔があきれ顔で小さく首を振った。



「なんかそういうとこ、まなかって変わってるよな。生意気なんだよ異常なくらい。大人になって世の中を知って、知識も経験も増えたら、過去の自分だって客観的に見れる、単にそれだけのことだろ。俺だって高校の頃の自分とか、今考えたらすげぇガキだと思うし」


「そんなにいいものなの?知識とか経験って。あたしには邪魔くさいものにしか見えないんだけど」


「そういうのすんなり言っちゃうとこが生意気なガキなんだよ。まなかがこれからどうなるか、どういう道に進むかなんてわからないけど、今は結局大人の力で生きてるんじゃないか、大人がいなければ学校にも通えないし飯も食えないし大学にも行けないくせに。もう少し大人に感謝して、大人を尊敬してもいいと思うけど?」



 あたしは身体に巻きつけてたタオルケットを振り払い、立ち上がった。素早くブラジャーをつけ、健輔のものと一緒くたになって床に転がってた服を着る。これ以上こいつと向き合ってたらみっともなくキレてしまって、更にガキ扱いされるだけだ。



「健輔ってつくづく、あたしが嫌いな大人なんだね。ロッカー目指すの、やめたほうがよくない?」


「俺がまなかが嫌いな大人かどうかってのと、俺がロッカー目指すことと、どう関係あるんだよ」


「ありありよ。ロックってのはもともと抵抗音楽でしょ?大人が作った社会と体制に鬱屈した子どもたちが、ストレスを発散させるためのアウトロー音楽。音楽が生まれる元になる鬱屈とちゃんと向き合って噛み砕こうとしないで、そうやって真っ当で正しい大人の理論なんかで押しつぶしてるから、健輔はいつまでたっても芽が出ないのよ。ロックを聴く人間は、大人の正しい理論なんて必要としてないでしょ?健輔の書く歌詞ってどっかで聞いたようなのばっかでさ、ちっとも心に響かないんだよね」



 健輔は黙り込んで、バイトと作曲とセックスの疲れで赤く濁った目を床に落としてしまう。あたしの言うことは案外核心を突いていたのかもしれない。沈黙が、二人の間に決定的な亀裂が入ったことを示していた。何も言わず、スクバを肩にかけてアパートを出る。


 外は腹が立つほど天気が良くて、空は相変わらずすっきり晴れていた。健輔の言葉を振り払うように、ずんずん歩く。ずんずん電車に乗り込む。駅のホームに下りたところで、ここが予備校の最寄じゃなく地元の駅であることに気付く。


健輔のせいでイライラしていて、イライラが神経を削って上の空にしていて、自分がどこに向かっているかもわからないまま足を動かしていたらしい。太陽はまだ地平線から六十度ぐらいの位置にある。今帰ったら親に予備校はどうしたの、なんでサボってるのとうるさく問い詰められるだけだ。どこで時間を潰そうかと考えながら改札をくぐった。

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