愚王、賢妃を娶りて行状を改めること

悠井すみれ

第1話

 蔡国の鴻輝王は残虐にして愚昧。人を信じず、自ら育てた犬のみを忠臣と呼ぶという。王の犬は狼のごとき巨躯と鋭い牙を持ち、狂暴さにおいても飢えた野獣と変わらない。その犬は王宮で放し飼いにされ、戯れに人を噛み殺しても咎められることはないとか。王にとっては、犬に襲われたということは反逆を企む罪人だったということなのだ。蔡国の宮廷では、誰もが犬の黒い影に怯えて過ごしていると旅人や商人は伝えている。




 主の足元に寝そべりながら、我は後脚で耳を掻いた。しばば、という音と共に短い黒い毛が舞い散る。段の下から刺さってくる、人間どもの目が鬱陶しかったのだ。我にではなく、主に注がれる視線ではあるのだろうが。主の率いる群れは大きいから、従う人間も多いのだ。無論、誰よりも強く忠実で主の傍近くに控えるのは、この我にほかならぬのだが。

 牙も爪も持たないのろまの癖に、人間はぎゃあぎゃあと煩いやつらばかりで主の苦労が思いやられる。とはいえ我は主に忠実な良き犬なのだ。命令があるまで軽々しく吠えたり牙を剥いたりすることはすまい。だから、我は耳を立て、尻尾をゆっくりと左右に振って見守るだけだ。


 主の前に集う人間どもは、今日はいつもにも増して騒がしい。普段は人がぎっしりと蟻のように並ぶ広間が、今は真ん中がぽっかりと空いている。さらにその中心に、縄で縛られた男が一頭。そいつの左右にまたそれぞれ何頭かの人間がいて、お互いに負けじとでも言うように吠え合っている。あるいは相手に向けて、またあるいは主に向けて。


「陛下、どうか御目を開いてくださいますよう……! 全ては佞臣による陰謀でございます!」

「然り、この者の高潔な働きぶりを証言する者は幾らでもおります!」

「動かぬ証拠もあるというのに何と白々しい!」

「こやつらこそ罪ある者を野放しにして国を乱そうとする悪にございます。賢明なる陛下にはお分かりいただけるものと――」


 人の言葉はややこし過ぎて我にはさっぱり分からない。耳や尻尾の動きで感情が伝わるということもないし。だが、この者たちが騒ぎ立てることが、多分主を悩ませているのだろうということは分かる。群れの頭に従わない連中は、痛い目に遭わせてやった方が良いのではないだろうか。主が命じてくれれば我が思い知らせてやるのに。

 我が期待を込めて見上げる先で、だが、主はまず人間どもに声をかけた。


「双方の言い分は承知した。いずれかが正しくていずれかが誤りで――そして余を欺こうとしているのであろうな。しかし巧言の輩の狡猾にして巧妙なこと、余には区別がつきそうにない」


 我には分からないが、多分主の言葉は人間どもの気に入るものではなかったのだろう。不満の唸り声が上がり、主が手を上げて黙らせる。ふん、身の程知らずの連中だ。


「だが、犬ならば偽りの臭いを嗅ぎ分けることもできるだろう。――狼夜」


 主がやっと我を呼んだ。あの音の響きは我の名だ。我は何をすれば良いのだろう。素早く跳ね起きて主の膝元に擦り寄りながら、主の命を見逃すまいと目を凝らす。


「狼夜、忠実なるわが友よ。あの者が罪ある者ならば食い殺せ。無実ならば見逃してやれ」


 我は人の言葉を解さない。だから主が何を言っているのかは分からない。ただ、きらきらする石を連ねた被り物の下で、主は確かに瞬きを二回した。待て、の合図だ。ううむ、つまらない。実のところ、あの縛られた男は実に旨そうな匂いを漂わせているのに。だが、命令とあっては仕方ない。

 起き上がったばかりの我がころり、と横になると人間どもがどよめいた。二つに分かれた群れのそれぞれから、喜びと不満の声が上がったようだ。我の知ったことではないから欠伸をして自慢の牙を覗かせてやるだけだが。


「そうか、今は腹一杯か。――そこの者は命拾いしたな。狼夜に感謝せよ」


 ほら、主は満足そうだからそれで良いのだ。居心地の悪そうな椅子から立ち上がった主の後を、我は尻尾を振りながらついて行く。


「犬の気まぐれに救われるとは……」

「なぜだ、頭から肉汁を浴びせていたのになぜ見向きもしない!?」

「陛下も困りもの――」

「馬鹿な犬め!」


 人間ども、声を抑えたつもりだろうが我の耳には聞こえているぞ。意味は分からずとも、主と我の悪口なのは理解できるぞ。主に伝える術がないのが無念でならぬ。まことに、使えぬ群れを率いる主が気の毒だ。

 少し早足になって、前を行く主の足を親愛と同情を込めて頭で軽く突く。すると、主の手が伸びて我の毛皮を掻き回した。




 石と木でできた人の巣の奥、主の塒(ねぐら)に帰ると、主は我に餌を出してくれた。羽根を毟って茹でた丸鶏だ。無論、我ならば自力で狩るのも容易いのだが、主からの褒美となると味は格別だ。


「あの者、肉汁の匂いをさせていただろう。我慢するのは辛かっただろうによくやった」


 主は多分、先ほどちゃんと命令を聞いたのを褒めてくれているのだろう。我が主の命に背いたことなどないし、当たり前のことではある。とはいえ褒められるのはいついかなる時でも良いものだ。鶏の骨は噛み応えがあるし脂は美味いし。

 尻尾を振って貪っていると、だが、主の声がふと翳った。


「また犬狂いの暗君と言われるな……いや、まずお前に汚名を着せることになっているのがすまないのだが」


 主は我に何か不満でもあるのだろうか。それとも群れの人間どものことだろうか。不思議に思い、耳と頭では主を案じつつ、我の顎と舌は止まらない。だって鶏が旨いのだもの。


「先ほどのあの者は殺す訳にはいかない忠臣だ……だが、余がそうと見極める目を持つことを快く思わぬ者もいる。王とは名ばかり、犬の力を借りねば正しい裁きもできぬとは情けない……!」


 わずかな骨の欠片を残して鶏を平らげた我は、後ろ脚で座り、尻尾を身体に巻き付けて主を見上げた。主は何かに怒っている。我に対してではないのが分かるが、怒るとは楽しくないことだ。主を楽しませるにはどうすれば良いのだろう。命令を与えて欲しくてくうん、と鳴いてみると、主は我を見下ろして少し笑った。


「ああ、すまぬ。お前には関係のないことだ、狼夜。少なくともお前のお陰で今日の者は救うことができたのだから。さあ、気晴らしに遊んでやろう」


 主が懐から鞠を取り出したので、我は千切れんばかりに尻尾を振ってわん、と吠えた。この命令は楽しいやつだ。放られた鞠を追いかけて、風より早く咥えて戻ってこられると、見せてやるのだ。


「信じることができる臣下がいれば良いのだが……今のままでは、まあ無理なことだろうな……」


 鞠を追って駆けだした我の背中で、主が呟いた声にはまだ憂いが残っていたような気もしたが。




 我がすることと言えば毎日毎日さしたる変わりはない。主の命に従って人間どもに吠えたり唸ったり噛みついたり、あるいは何もしなかったり寝たふりをしたり。もちろん食べるし遊ぶし、主にじゃれつくこともある。主の塒に、長い鉄の牙を持って近づいてきた奴の喉を噛みちぎってやったりもした。

 その度に主は我を褒めて撫でてくれる。だが、どうも主の顔や声は明るくない。群れの人間どものせいだろうか。人の言葉を解さず話すこともできない犬の身が歯がゆくてならなかった。主が語りかけることに、どう応えれば良いか分からないのだから。


 それはそれとして、温い日差しとほど良い隙間、人声のない静かな一角の心地良さは抗いがたいものだ。という訳で、我はその時落ち葉が積もった大樹の根元で、太陽が黒い毛皮を温めるのを存分に楽しみながら、身体を丸めて昼寝をしていた。


「ねえ、狼夜、狼夜……」


 その時、というのは、人間の雌がこそこそと我に近づき、呼び掛けて来た時、ということだ。

 主の巣には若いのも年取ったのも雄も雌も、人間は鬱陶しいほどに溢れている。中でも若い雌はよく見かけるし一番鬱陶しい。おかしな臭いを染みつかせていることが多いし、我がひとりで散歩をしていると耳に刺さる悲鳴を上げて逃げ出すのだ。鳥の羽根のようなひらひらした皮が揺れるのを見る度に、追いかけて食いつきたい衝動と戦うのには毎度苦労させられる。どんなに魅力的だったとしても、主の命なしで人に噛みつくような真似はしてはならないというのに。


「起きているのでしょう。耳が動いたわ……」


 その点、この雌は割とマシな方だった。臭いはそれほどきつくなく、じりじりとすり足で近寄ってきているから襲いたくなることもない。足ががくがくと震えているし、怯えている臭いもするから、ちょっと飛び出して脅かしてやったら面白そうだな、と思わなくもないが――いや、訳もなく人間を襲うのは主に禁じられている。我慢せねば。


「近付いても吠えたり噛みついたりしない……やっぱりお前、人が言うような悪い犬ではないのでしょう?」


 頭を少しだけ持ち上げて、我は人間の雌の表情を窺った。それから、恐怖と緊張の入り混じった汗の臭いを嗅ぐ。ぴんと三角に立った耳を向けてみれば、雌の心臓がどくどくと高鳴るのも聞こえるようだった。

 さて、この雌は我に何を言っているのだろう。人間が、我のことを話しているのだろうな、と思う場面は多いが、我に対して話しかける人間は、今までは主の他にはいなかった。ほとんどは一目散に逃げるか、我の目に留まらないよう――のろまな人間にそんなことは不可能だし、そもそも音や臭いで分かるのだが――隠れるばかり。たまには殴り掛かるとかあの鉄の牙を突きつけようという者もいるが、そういう無作法ものは噛んでも良いと主の許しが出ているから、きっちりと序列を教えてやっている。


「陛下に甘やかされて躾のなっていない狂犬、だなんて。そんなの嘘だわ。だって、お前が怪我をさせたのは、調べてみれば結局罪がある者だけだったじゃない。人を噛み殺したと言っても、陛下に刃を向けた不届き者だけ」


 だが、この雌は同じ人間に対するように、我に何かしらを伝えようとしているようだった。二本足で不格好に屈みこんで、我と目を合わせようとしているのがその証拠だ。ふむ、こういう場合はどうすれば良いのか、主に命じられていないぞ。何をすべきか分からぬというのは、どうにも落ち着きが悪いものなのだな。


「お前が特別に賢い犬なの? だから罪のない者は襲わないの? それとも……賢明なのは、陛下でいらっしゃるの……?」


 そのように見つめられても困るのだ。何を言っているか分からないし、答える術もないのだから。いっそ寝たふりを決め込もうか。いや、しかしこの雌は主の群れにあっては我より下位の存在のはずだ。目下に舐められるような振る舞いは、主のためにも良くないのではないだろうか。とはいえ噛むのも吠えるのも封じられては、我にできることはない。威厳を保ちつつ主の命に背かないためには、さて、どう振る舞えば良いのだろう。


「そこで何をしている……!?」


 そういう訳で困り切っていたから、主の声が聞こえた時、我はいつも以上に尻尾を振ってその傍らに駆け寄った。主さえいれば怖いものなしだ。きっと何かはっきりした命令を下してくれるだろう。


「狼夜に毒でも盛ろうとしたか!? 犬を相手に不満を晴らそうとは――」

「いいえ! 滅相もない!」


 主の珍しいほどの大声に雌は勢いよく立ち上がり、ついで同じ勢いで地に這いつくばった。人間が主に服従を示す姿勢だ。四つ足に似た格好なのは、やはり犬を真似ているのだろうな。


「あ、あの……遊んでもらおうと思いましたの。とても、お利口な犬ですから……」

「狼夜が利口だと?」


 主の指先での命に応じて、雌はおずおずと顔を上げた。人間だって仕草での命を見分けることもできるとは意外だった。主にちゃんと敬意を払っているようだし、これはかなり良い部類の人間なのだろう。では噛みつくのはなしだろうか。でも、普通ではない近寄り方だったから、いつもとは違う命令を下されるだろうか。


 さあ、主よ、我は何をすれば良いのだ? 我がしきりに頭で突いて催促するのを手で制して、主は雌と人間の言葉を交わしていた。


「後宮の妃のひとりか? 名は何と?」

「柳家の秀文と申します」

「柳家か……」


 顎に前脚をあてて、主はしばらく考え込んでいるようだった。――だが、ついに我を見下ろして軽く舌を鳴らした。人間の、ひらひらした皮だけを毟れ、という意味だ。


「きゃ、きゃあ!?」


 雌の、雉の尾羽のように地に引きずる皮を咥えて思い切り引っ張ると、気持ち良く裂けた。日頃の食事の骨や筋を噛み裂くよりもずっと簡単だ。人間は、この表面の柔い皮を剥いても血は出ないし痛がる様子もない。多分、鳥の羽根のようなことなのだろう。ただ、物凄く嫌なことらしく雄でも雌でも大声で喚きたてるのだ。この雌も、例に漏れず耳が痛くなるような悲鳴を上げた。


「おお狼夜、この女と遊びたいのか。ならば余も可愛がってやろう。――そなたとそなたの家の話を、もっと聞かせよ」


 皮の裂けたところを抑えようとする雌の前脚を掴んで囁いてから、主は我の首筋を軽く叩いた。これは夜、寝る前にする合図。主の寝床に誰も立ち入らせずしっかり守れ、ということだ。

 陽も高いのに主が寝床に入るとは珍しいこと。だが、昼寝は良いものだ。主がそう命じるのなら否やはない。我は機嫌よく吠えると、尻尾を振って主と雌の後をついて小走りに駆けた。




 その日の後も、主はその雌とよく塒に篭るようになった。その度に見張りを務めるのはこの我だ。とはいえ誰も通さなかったということではない。主が許した人間なら見逃してやることもあった。新月の夜の闇に紛れて主を訪ねてくる者を、人の見張りは見つけられないらしいが、我は違う。耳でも鼻でも捉えた上で、特別に許してやるということだ。

 なぜなら、その者たちは主に敵意も悪意も持っていないのが明らかだったからだ。例の鉄の牙など持っていなかったし、例の雌に似た臭いも纏っていた。何より、例の雌やその一族――なのだろう、多分――の人間が来ると、主は楽しそうだったのだ。主の機嫌が良いのを見るのは、我としても嬉しいことだ。


 そうこうするうちに、更に変わったことがある。主が我に下す命のうちで、吠えたり噛んだり脅かしたりというものが減っていったのだ。とはいえ主は遊ぶときはたっぷりと遊んでくれたし、褒美の餌も存分にくれた。だから我に不満などなかった。そう、それに、群れの人間どもも変わっていったのだ。我に悪意のある目や声を向ける者は減っていて、同時に主にちゃんと従う者が増えていった、ように思う。

 人間の言葉は我には相変わらず分からないが、多分何もかも良い方向に行っているのだろう、と思えた。だから我は思い切り喰って寝て遊んで、主やあの雌に撫でられて転がったり尻尾を振ったりした。あの雌はもう主の番(つがい)になったのだ。だから我もそのような馴れ馴れしさを許すことにしたのだ。主のでも雌のでも、人の前脚で毛皮を梳かれる心地良さは同じだったし。何とも楽しく満ち足りた日々が過ぎて行った。

 そして――




 ころころとして良い匂いを漂わせる人の仔が、小さな前脚で我の耳を鷲掴みにしたので、我はそっと頭を振って退けさせた。だが、人の仔は諦めた様子もなく、あーうーと鳴きながらまた前脚を伸ばしてくる。毛も生えていないこの柔い皮では、甘噛みして窘めるのも憚られるというに、どうしてくれよう。


「太子よ、狼夜を困らせるでない」

「そうですよ、犬の耳を掴んではいけません」


 喉の奥で小さく唸っていると、横から助けが現れた。主の番が、仔を抱えて我から遠ざけてくれたのだ。この人の仔は主とその番の間の仔だ。生まれたばかりだからというだけでなく、主の血を引くからこそ多少の無礼も我は見逃してやっているのだ。見逃して、やっているのだが――我の牙を恐れぬ仔のじゃれつき方のしつこいこと、どこか静かな物陰でもないか、尻尾を巻いて隠れたくなることも、ないではない。


「赤子にしつこくされても怒らないなんて、やはりこの子は賢い犬です」

「で、あろう。これほど賢く忠実な犬は他にいない。……他の者にも知らしめることができて、本当に良かった」


 主は番の雌と何やら我について話しているようだ。きっと褒めてくれているのだろう。牙も剥かずに仔の相手をしてやっているのだ、褒めてもらわねば割に合わぬ。


「そなたが見抜いてくれたお陰だ、秀文。そなたの勇気のお陰で信頼に足る臣下と結び合えた」

「いいえ、陛下のご見識があればこそ。狼夜を通してとはいえ、正しき道を行こうとなさっていると、薄々察している者は多かったのですわ」

「それでもお前が最初のひとりだった。愚王の評判にも惑わされず狼夜の牙も恐れず、余に歩み寄ってくれた――」

「ああ、陛下……」


 おや、だが、主と番は口を近づけ合っている。犬が毛繕いをし合うような、睦み合って絆を深めるための仕草、らしい。ふむ、では仔の守りは我に委ねられたということなのか。離されたのも束の間、主の仔は四つ足でまた我の方へ這って来ているのだが。前脚を上げて狙っているのは、我の耳か尻尾か、鼻面か。これは、我の忍耐が試される場になるのだろうか。


「――狼夜にも伴侶を見つけてやらねばな」

「はい。きっと可愛い子犬が生まれるでしょう。太子の……次の太子か公主にとっても、良き友になりますように」


 警戒しつつ見守るうちに、だが、人の仔は我の腹に軽く頭をもたせかける格好に落ち着いた。欠伸をしているのは、我の毛皮を寝床にするつもりなのか。少し重いが、しかし、この温かさは心地良い。ちょうど腹も一杯なところだし、主は番の雌に掛かりきりだ。ならば、我も少し眠っても構うまい。

 我は鼻先で人の仔を軽く突くと、毛皮で包み込むようにして身体を丸め、ひと時の午睡を楽しむことにした。




 狂犬に民を襲わせることで悪名高かった蔡国の鴻輝王は、優しく聡明なる柳妃を娶って行状を改めた。狂暴だった犬も柳妃の慈愛によって牙を収めた。以降、王は長く善政を敷き、その傍らには常に忠実な犬が控えていたという。

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