蝉の徒花

高ノ宮 数麻(たかのみや かずま)

第1話 蝉は大嫌い

蝉は、オスがメスに選んでもらうためにだけ、夏の僅かな間、出来るだけ大きな声で鳴き続ける。


より大きな声で鳴いたオス蝉の周りにはメス蝉たちが集まってくる。メス蝉は一生で一回しか交尾を行わない。しかし、大きな声のオス蝉は、周りにいるたくさんのメス蝉たちと幾度となく交尾を繰り返す。


一方で、小さな声のオス蝉は、メス蝉に選ばれることなく、生涯で一度も交尾をせずに地上での短い時間を静やかに終えることになる。


それでも蝉たちは、「その時」が来れば、生涯の大半を過ごした暖かで穏やかな土の中から、競争社会である地上へ命を懸けて這い出てくる。ただ「繁殖」するという目的だけのために。


西元寺 陸斗は、蝉の声が大嫌いだった。幼い頃、蝉が鳴く理由を友達から聞いた陸斗は、蝉の一生がとても馬鹿馬鹿しく思え、とても悲しい気持ちになった。幼かった陸斗は母親に尋ねた。

「ねえママ、なぜそんなことをするために命をかけなきゃいけないの?」


母親は少しいぶかしい表情を見せたが、すぐに目いっぱいの笑顔で、できるだけ優しく陸斗に答えた。

「あのね陸斗、蝉は地上に出ないと赤ちゃんが生まれないの。だから命を懸けて赤ちゃんの為に地上に出てくるんだよ。そうしないと将来、世界中から蝉がいなくなっちゃうの」


「そんなのおかしいよ! 地上に出たらすぐに死んじゃうんでしょ? ずっと土の中にいれば長生きできるのに! 赤ちゃんのために死んじゃうなんてバカみたい!」


母親は、陸斗の頭を優しくなでながら答えた。

「陸斗も大きくなればきっと分かるよ。赤ちゃんはね、とっても大事なものなの。パパもママも陸斗のことがとっても大事。陸斗の為なら死んじゃってもいいくらい」


大好きな母親が「死」という言葉を使ったことで陸斗は悲しくなり、さらに腹が立った。

「陸斗は赤ちゃんじゃないもん! なんで死んじゃうとかいうの? ママのバカ!」

そう言って部屋を飛び出した陸斗は、ようやく乗り方を覚えたばかりの自転車に跨がって公園へ向かった。


ふらふらよろめきながら自転車で走り出す陸斗。陸斗が自転車に乗れるようになったのはまだ1週間ほど前のことだ。その様子を心配した母親が走って陸斗を追う。車が行き交う道路を陸斗一人で走らせるわけにはいかない。

「陸斗! そんなにスピードを出しちゃダメ! まだちゃんと乗れないんだから!」


それに気づいた陸斗は自転車のスピードを上げる。陸斗は幼いながらも、つまらないことで母親を困らせた気恥ずかしさを感じ、その場から早く離れたかったのだ。

「陸斗! 待って! お願いだから止まって!」

母親は大声で叫んだが、陸斗はぐんぐん自転車のスピードを上げた。


陸斗が公園近くの交差点に差し掛かった時、母親の目に飛び込んできたのは、猛スピードで交差点に近づいてくる大型トラックの姿だった。


「居眠り運転かも知れない…」

大型トラックの速度は、明らかに住宅街を走るスピードではなかった。

母親はさらに必死になって陸斗を追いかけ走り続ける。

「陸斗! 危ない!」


陸斗が交差点を渡り切り、追いかけてきた母親の方を振り向いた瞬間、陸人の目の前で、母親が猛スピードの大型トラックに跳ね飛ばされてしまった。


ドン。ドシャ。


重く、冷たい音だけが辺りに響いた。


「え…?」


陸斗は何が起こったかすぐには理解できなかった。


・・・・・・・・・・


陸斗にはその直後の記憶がない。気づいたときは父親に手を握られ、天井の照明がチカチカと点滅する病院の待合室に座っていた。

父親は、震えながら泣いていた。


病院の外はすでに陽が落ちていた。それでも蝉はずっと五月蝿く鳴きちらしている。陸斗は両手で耳をふさぎ、蝉の声が聞こえないように大声で叫んだ。

「アーーーー! アーーーー! アーーーー!」


陸斗は、ずっと叫び続けた。その叫び声はいつしか大きな泣き声に変わっていた。しばらくするとブルーの手術着をまとった医者が二人に近づき、何かを父親に伝えた。すると、父親は耳をふさいで泣き続ける陸斗の両手を掴み、力いっぱい耳から引きはがした。


陸斗はあの時の父親の形相と言葉を忘れたことはない。

「ママ、死んじゃったんだぞ! お前の! お前の…!」

あの時、父親が必死に飲み込んだ言葉は、間違いなく「せい」だった。


・・・・・・・・・・・


あれから20年。24歳になった陸斗は、相変わらず蝉の鳴き声が大嫌いだった。

蝉の声を聞くと、あの病院での光景が今でも頭に浮かび、悲しさと、腹立たしさと、底が見えない悔恨の念に苛まれる。

「蝉は嫌いだ…」


陸人の悲しげな表情をじっと見ていたユウキは、陸人の肩に優しく手を這わせながら呟くように語りかける。

「陸人、ど・う・し・た?」


そう言って、じゃれたようにまとわりつくユウキのおでこに、陸斗は優しくキスをした。


ユウキは、陸人の大学時代からの友人であり、同時にパートナーでもあった。

陸人とユウキは互いに幼いころ母親を亡くし、似たような境遇の少年時代を過ごした。陸人とユウキは知り合ってすぐに打ち解けた。お互いこれまで出逢った友人たちとは違う特別な何かを感じていたからだ。そして二人とも、それが友情ではなく、愛情だと気付くまでさほど時間はかからなかった。


陸人は細身だが筋肉質で、顔つきも野性的で精悍だ。ユウキは色白で髪の色も茶色がかり、どこか中性的な雰囲気がある。青みがかったユウキの目の色には、見ているだけで吸い込まれそうな魅力があった。


「ユウキ、今度の週末、実家に行こうと思つてる。ユウキは…、どうする? 」

陸人は、ソファで微睡むユウキの髪を撫でながら優しく問いかけた。


ユウキがソファに座りながら陸人の顔を覗き込む。

「…パパさん、具合どうなの?」


陸斗はソファから立ち上がり、窓のそばに近づく。窓の外を眺めている陸人を、ユウキが背後から抱きしめた。陸斗は目いっぱい息を吸い、大きなため息を吐いた後、ゆっくり答えた。

「まだ意識はあるみたい。でも一日の半分は薬で眠ってるんだって。まだ話せるうちに会っておきたいと思ってる」


陸人の父親は肝臓ガンのステージ4で、担当医からは余命1ヶ月の宣告を受けていた。


ユウキは、陸斗の胸に回した両腕に、さらにギュッと力をこめた。

「そっか…。でも、僕は行かない方がいいと思う。陸人だって本当は一緒に行かない方がいいって思ってるでしょ?」


「そんなこと…」


陸人の言葉を遮るようにユウキは陸人に唇を重ねる。

長いキスの後、ユウキは陸人の胸に顔を埋めながら話し始めた。

「パパさんが僕を嫌いなことは知ってるし、いま僕がパパさんに会うことの意味って、ない…と思う」

「それにさ、もうパパさんの時間は短いんでしょ? 二人でゆっくり話してきて」


陸人は、ユウキがそう言うことを分かっていた。

以前、陸人が父親にカミングアウトしたとき、その場にユウキも居た。というより、二人が自宅のベッドで抱き合っている場面に父親が出くわし、陸人は思わずその場でカミングアウトしたのだった。その時、二人は裸だった。


陸人はこれまでそんな素振りを周囲に見せていなかったし、ユウキ以外、陸人がゲイだと知っている人間はいなかった。


父親は驚いてはいたが、取り乱すことも、大声をあげることもなく、ただ、「そうか…」とだけ言い残し、そのまま部屋を出ていった。


その後、陸人が実家にユウキを連れて行く機会が何度があったが、父親はユウキと一切言葉を交わすことも、目を合わせることも無かった。


父親がユウキをどう思っているかは、口に出さずとも誰の目にも明らかだった。


それから、陸人は実家にほとんどが寄り付かなかった。ユウキに対する父親の態度に怒っていたわけじゃない。ただ、父親に何を話していいか分からなかったし、これ以上、父親に理解を求めることも無意味だと思っていたからだ。


実際にいま、父親に会いに行ってもほとんど話すことはない。ただありきたりの挨拶や近況報告、互いにそれくらいだろう。


だが陸斗には、どうしても父親に会って確認したいことがあった。


陸斗の父親には、これまでひた隠しにしてきた秘密がある。最近になって、その秘密の一部を陸斗は偶然知ってしまったのだ。そのことを陸斗はどうしても父親に確認したかった。


⇒次回「父親の秘密」へ続く












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