新月のかぐや姫

江西結

前世編

月の都のかぐや姫

今となっては昔のことだが、月には天人たちが住んでいた。この天人の国は王宮に住まう王が治める平和で豊かな国であった。その日、月の王宮では儀式が行われていた。年に一度の「中秋の十五夜」である。「中秋の十五夜」とは空に浮かぶ青い星、通称暦星こよみぼしが一年で最も美しく見える日で、天人たちが霊力を暦星に分け与える祈りの儀を行う日であった。はるか昔より暦星は月の霊力を受けて生きてきた。太陽が沈み、光を失う夜空に輝く月は暦星の人々を導き、守る存在なのだ。天人は慈悲深い存在で、哀れな暦星の人々を救おうと彼方から霊力を分け与えてきた。その象徴ともいえる儀式が「中秋の十五夜」だ。今、月には一人の姫が存在した。名をかぐやという。月の姫であるかぐやはこの儀式に必要不可欠な存在だ。月の王の代わりに神の依り代となり、天人たちの力を集め、解き放つ……つまり、儀式の要の巫女となるのだ。儀式が始まると、かぐやは地面に刻まれた、摩訶不思議な模様が描かれた円形の紋の中心に立ち、静かに目を伏せた。今日のために仕立てられた巫女装束はパリッと糊がきいていて、軽やかな羽衣とで重厚感のバランスをとっている。まったく美しき天人たちの姫に相応しい姿である。かぐやは願った。暦星と月の更なる安寧を。そのかぐやの姿を黙認すると周囲を囲む十人ほどの祈祷師たちが一斉に呪文を唱え始めた。全員が白い衣に身を包み、一心に祈祷に取り組んでいる。彼らが波のような強弱で呪文を唱えれば唱えるほどに紋が強く光り輝き、かぐやに霊力が集まっていく。かぐやは静かに両手を胸の前で組むと目を閉じ、祈った。霊力によって風が巻き起こり、かぐやが身に纏っている羽衣を揺らす。長く美しい髪がさらさらと揺れ、雪のように白い肌が光に照らされていった。しかしここで、例年とは異なり、手違いが起きた。祈祷師の一人が言葉を噛み、呪文が一瞬変わってしまったのだ。緩やかに光を増していた祈祷の場が、突然まばゆい光に包まれた。かぐやは目を伏せたままだったが、急に世界が白くなるのを感じた。誰もが目を守るため、反射的に閉じた。光が収まっていき、天人たちひとびとがようやく目を開けるとそこにはかぐやの姿が消えてしまっていた。


かぐやが目を開けると、そこには見たことのない景色が広がっていた。小さかったが、その大きさのわりに綺麗にしてある屋敷があって中ではバタバタと足音が響いている。

「なにごと!?」

中から現れたのは一人の女性だった。顔には薄くしわが刻まれていて若くはなさそうだ。彼女の顔は青白く、おびえた様子で外に目をやっている。そしてかぐやに気づくと、その目を見開いた。

「ど、どちら様でしょうか?」

「かぐやと申します」

かぐやの声に女は気味悪がった。かぐやの声には生気が一切感じられなかったのだ。抑揚もなく感情も感じられない。まだ楽器のほうがいきいきとした音を出すだろう。しかしかぐやをこのままにもしておけず、女はかぐやを屋敷の中へ招き入れた。余っている部屋の一つにかぐやを座らせると、居住まいを正し、正面に座った。そして恐る恐る尋ねる。

「私は中臣なかとみの義隆よしたか様に仕える女房の『染子そめこ』と申します。あなた様は何者なのでしょうか?」

「私は月の都より参りました。儀式の最中、失敗があって、気づいたらこちらにおりました。ここはいったいどこなのでしょうか?」

「ここは日本ひのもとです」

染子は納得した。輝くばかりの美貌。とてもこの世のものとは思えないと思っていたが、やはり天上のお方だった。かぐやも日本という名に聞き覚えがあった。暦星の一国であると記憶している。

「私は違う星に来てしまったのですね。どうしましょう、帰り方がわかりません」

こんなことは初めてで、かぐやは焦りは感じていないものの、何をしたらよいか手つかずだった。染子は思った。これは神の思し召しだと。こんなに美しい天女様を見捨てては罰が当たってしまう。

「それでは帰り方がわかるまで、ぜひこの屋敷でお過ごしください。みすぼらしい家ですが、私ができる精一杯でかぐや様をおもてなしいたしますので」

「よろしいのですか?」

「はい」

染子は満面の笑みで大きく頷いた。しかし、かぐやを迎え入れるにあたって一つ問題があった。それはこの家の家主、中臣義隆だ。彼は少々訳ありであった。おかげでこの屋敷には女房が染子一人だけ。男手が数人あるがそれもごく少数である。

「失礼なことは重々承知していますが、かぐや様には私の親戚として女房の一人としてふるまっていただきたいのです。特に義隆様の前では。義隆様が不在の際は私が心よりお仕え申し上げますから……」

「泊めていただくのです。構いません」

「では義隆様が来る前に……」

染子はかぐやを連れ出した。染子がかぐやを案内したのは彼女の支度部屋だった。そこには古いものの、丁寧に手入れされた調度が並んでいた。染子は数枚の袿を取り出し、その場に広げた。

「かぐや様はどのお色がお好きですか?」

「すき?『すき』とはなんでしょうか?」

「え……」

かぐやは表情一つ変わっていないが嘘をついているようでもなかった。本当に「好き」がわからないようなのだ。

「えっと、この色をたくさん身につけたいとか、この色は見ていていい気分になれる色とか……」

「『いい気分』とはなんですか?」

「『いい気分』はえっと……」

埒が明かない。

「申し訳ありません。うまく言葉にできませんわ。こういうものは言葉や理屈で語るものではなく、心で感じるものです」

「こころ……」

かぐやはますますわからなくなった。「こころ」とはなんなのか、染子は何を考えているのか。結局、染子はかぐやに袿を選ばせるのを諦めて、かぐやに似合う袿を適当に見繕った。

「……すばらしいわ」

袿に着替えたかぐやの美しさは変わらなかった。安物の袿でもここまで映えるのはかぐやだからだろう。袿もかぐやに着られて悪目立ちすることはなく、見事な調和であった。

「これなら義隆様もただの美しい娘だとお思いになるでしょう。あ!かぐや様が着ていらっしゃった着物はこちらで預かっておきますね」

「ありがとう」

染子はしばしかぐやの美しさに見惚れた。そんな彼女をかぐやは無表情ともとれる微笑みで見つめていた。


「で?そいつは誰だ?」

「義隆様、ご紹介いたします。私の遠縁にあたります、『かぐや』です」

「はじめまして」

義隆は大きな溜息をついた。しかし、その姿すら様になる美青年だった。上質とは言いがたい着物に身を包んでいるが、華があった。

「先日両親が亡くなったらしく、引き取り手がいないところに、私に白羽の矢が立ったようです。なんの連絡もなしに親戚からの文だけ携えてここにやってきましたよ。さすがに見殺しにもできません。うちで雇ってください」

「それは無理な相談だ。これ以上人手を増やすつもりはない。まして女など……」

「いい機会ではありませんか?これを機に女性にお慣れになっては?このままでは嫁のあてがありませんよ。染子は悲しゅうございます……」

染子はよよよと鳴き真似をする。義隆はこれに弱かった。染子は義隆の乳母なのだ。

「わかった。うちで預かればいいんだろう?ただし俺の世話はさせるなよ。この家の手入れとお前をはじめ、使用人たちの手伝いをさせるだけだ、いいな?」

「承りました」

「かぐやとやらも」

「はい」

「決して俺には近づかないように」

「はい」

二人は義隆のもとを下がった。


「とりあえず、しばらくはここで過ごせますわ」

「はい」

「もうーー、少しは喜んだらどうですか?いつもの能面のようなお顔をして……せっかくのお綺麗な顔が台無しですよ」

「よろこぶ?『よろこぶ』とは何ですか?」

「あーー」

染子は額に手をやった。とにもかくにも、こうしてかぐやは日本で奇妙な生活を送ることとなったのだ。

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