義隆邸での滞在

義隆の屋敷に住んでいるのはごく少数の侍従だけである。部屋は余っているが、禄が少ないのでどうしても手入れが行き届かない。客人をもてなす部屋はきれいにしてあるが、新たに人を住まわせられる部屋はなかった。義隆は、初日はかぐやを客間に泊まらせたが、翌日には汚い一室を与えた。

「すみませんね、こんな部屋に……。掃除は手伝いますから」

「はい」

その部屋を見てもかぐやの表情は変わらなかった。染子はかぐやが心配になった。いったい月の都でどんな生活を送ってきたのだろう。部屋には最低限の調度が用意されていたが、どれも手入れが行き届いていない。ただ品自体は質の保証された優れた逸品で、少し手を加えれば使えそうだった。かぐやは静かに袖をまくると作業に取りかかった。かぐやはまず、染子に教わりながら、障子、屏風、几帳の埃を払った。すすが舞って、かぐやはゴホゴホと咳き込む。ちなみに咳をするときもかぐやは無表情である。染子が時折「無理はなさらずに」と声をかけながら作業を進めていった。埃を払い終えたら、次は拭き掃除だ。古布を濡らして、埃かぶっていたところ、床を丁寧に拭き上げる。気づけば太陽は天頂に昇っていた。

「なんとか住めるようにはなりましたね」

「はい」

ピカピカになった部屋に染子は達成感を感じた。額の汗を拭う。

「もうひと踏ん張りです」

最後は調度を移動させた。配置がまるで物置のようで、実用性がなかったのだ。これは二人ではきつかったので使用人たちにも手伝ってもらった。使用人たちはかぐやに興味津々で、今が好機と、作業の合間にいろいろ話しかけていた。

「へーー、月の都のお姫様おひいさまなんですね」

「月ってどんなところなんすか!?」

「天人様ってみんな美人ですか!?」

「えっと」

「あんたたち、無駄口ばっか叩いてないで仕事をなさい」

かぐやが質問をさばききれないでいると、染子が一喝入れてくれた。グチグチと文句を言いながらも男たちは霧散し、仕事に戻って行った。

「みなさん、質問が多いのですね」

「かぐや様のようなお方と話す機会のない者たちばかりなので。気分が高揚しているのですよ」

「気分が高揚すると質問が多くなるのですか?」

「そうですねーー、好奇心がはたらきますから」

「好奇心?」

「知りたいとか、見てみたいとか思うことですよ」

「???」

「さて、着替えて義隆様を迎える準備をしましょうか」

染子は話を誤魔化した。かぐやは染子の言葉に頷いた。もうすぐ義隆が帰ってくる。


帰ってきた義隆の応対をしたのはもちろん染子だった。かぐやは染子に「お部屋で休んでいてください」と言われていたが、そういうわけにもいかないと、二人の様子を陰から見ていた。仕事はきちんとこなしたいというのがかぐやの、天人の性格なのだ。

「どうでしたか?今日は?」

「別に、いつもと変わりない」

二人は穏やかにぽつぽつと話をしていた。

「ていうか、あれは何だ?」

「え?何のことです?」

「とぼけるな。俺には近づけるなと言っただろう?」

「あのは本当に真面目な子ですよ。私が今日の仕事は終わったから部屋で休んでなさいと言ったのに、こうして何か手伝えないか探しにきているのだから」

見つかっていたらしい。かぐやは近づくなと言われているため、ここから動くことはできない。

「ね?少しぐらいいいでしょう?」

「……俺がまたあんなふうになってもいいのか?」

「大丈夫ですよ、きっと。かぐや、入ってきて」

かぐやは天女様なのだ。きっと今までの女性たちとは違うはず。染子はそう確信していた。かぐやはおずおずと部屋に踏み入った。

「……」

「……」

「……」

「ほら、義隆様!何か話しかけてください」

「無理だ。基本的に同じ空間を過ごすまでが限界だって言ってるだろう?」

染子と義隆はこそこそと話し合う……が、かぐやの正面での出来事のため、かぐやにも二人の話がばっちり聞こえていた。

「ですって、ひどいと思わない?かぐや」

染子はかぐやの遠縁のおばさんのふり(のつもり)で話しかけた。

「なぜ私と同じ空間で過ごせないのですか?」

「そ、それは!「俺は女に苦しめられて生きてきた」

かぐやの心ない質問に染子が慌てたところ、それを義隆が遮った。唐突に重苦しい雰囲気が流れる。義隆は鋭い視線をかぐやにぶつけた。かぐやはハッとした。何か(よくわからない何か)を感じた。

「女はすぐに身分の高い男に猫なで声で媚びて、身分の低い男を見下し、怒りのはけ口にする。染子のようにそうじゃない奴もいるが……」

染子は曖昧な笑みを浮かべた。義隆に心を許してもらっているのは嬉しいのだが、義隆の女に対する評価は同じ女として辛いのである。

「大抵が、俺が思っているような性格だ。だから俺は女を信じない。女が嫌いなんだ」

義隆はもう一度かぐやを睨みつけた。わかったか?と確認しているようだった。それは恐ろしい形相だった。顔が整っているからか、冷気を感じる。本能で危機を感じ取ったのか、かぐやは無意識に何度も頷いた。かぐやは自分でも何が起きたのかよくわからないまま義隆のもとを下がった。それを染子が慌てて追ってくる。

「かぐや様!すみません!義隆様が……「染子、これは何というのですか?」

「?」

「義隆様が私を見たとき胸の奥がきゅうとしたのです。なぜなのか自分でもわからないのですが、何か悪いことをしてしまったような……」

かぐやは一言一言絞り出すように語った。戸惑っているようだった。自分はなにも悪いことはしていないはず、その自信が揺らいでいた。

「それは義隆様に対して罪悪感を抱いたのではないですか?この国にはたとえ罪にはならなくとも、言ってはいけないこと、やってはいけないことがあるのです。相手の心を傷つけてしまうことはいけないことですから。かぐや様が感じたのは義隆様の怒りという感情です。それは心が傷つけられたときに心が起こす拒否反応。傷つけることは悪いことでしょう?だからかぐや様はそれを心で感じ取って罪悪感を感じたのです」

かぐやの胸の奥はまたもきゅうとなった。それはさきほどのよりきつく大きいものだった。かぐやの様子を見て染子は笑った。かぐやが人間のような表情を見せていることが嬉しかった。

「でも、それは悪いことばかりではありませんよ。人付き合いにはときに負の感情が必要となるのです。負の感情による衝突がより絆を深めます……雨降って地固まるということですね。まあ、年寄の戯言です」

「……人間という生き物はとても複雑にできているのですね」

「そうですねぇ……」

かぐやが考えるよりはもっと単純だが、余計に遠回りして複雑に見えているのだろう。染子はそう思った。

「ま!考えてたって何も始まりません!作戦会議をしましょう。明日から『義隆様とかぐや様・仲良くなる大作戦』を決行しますよ!!」

「なかよく……?」

「一緒にいて『楽しい』と思えるようになることです!まあ、仲良くなればわかりますから。さ、急いで部屋に戻りましょう」

かぐやは染子に押されながら部屋に戻った。染子はかぐやを座らせ、自分も座ると、やる気満々で話し始める。

「戦に勝つには、まず敵を知るところから!というわけで乳母である私が義隆様のことをお話ししましょう!」

「義隆様って敵でしたっけ……?」

「細かいことは気にしない!さっそくいきますよ!]

染子はびしりとかぐやの問いをスルーした。

「まず、義隆様は誠実な方です!仕事は責任持ってきちんと取り組みますし、不正や不平等が大嫌いです。約束も必ず守ります」

月の都には不平等というものが存在しない。平等と平等ではないというものが存在することにかぐやは衝撃を受けた。義隆はそれを嫌っているという。かぐやと同じ思考であることには安心する。考え方がまるっきり違うとさすがに理解が難しい。しかし、女性をあそこまで目の敵にしているのは、不平等が嫌いと言い難い要因になりえないのだろうか。

「次に、義隆様は一途で情の厚い方です。使用人たちは昔から義隆様に仕えている人たちばかりです。一度懐に入れた者は大切にしてくれます」

かぐやは意外だと思った。人間というのは天人と違うのをことごとく突きつけられる。「心」というものがある。「感情」というものも。さらに同じ人間でも染子と義隆のように考え方が全く違うのである。本当に人間というものは複雑で理解に苦しむが、かぐやは不思議とそれを進んで理解したいと思った。他人に情というものを与え、大切にするという行為は好意的に映った。

「最後に、義隆様は寂しがり屋で不器用な人です。彼は人が苦手ですが、きっと同じくらい愛されたいと思っているはずです。本人に自覚はなくとも。本当は私たち、幼少よりお世話し申し上げている者たちが十分な愛情を与えていていればよかったのですが……。それができなかった私たちのせいで今の義隆様があるのです。だけど本当は……」

染子はそれ以上言葉を紡げなくなった。俯き、唇を噛みしめている。それを見たかぐやはまたもや胸の奥をきゅうと締め付けられた感じがした。そして、それを体から取り除きたいと思った。かぐやは直感で染子に寄り添うという行動を選んだ。自分でも何をしているのか理解できていなかった。

「かぐや様……」

「私はどうしたらいいですか?また胸の奥がきゅうとなって苦しいんです」

かぐやは懇願するかのような表情でそう尋ねた。これではどちらが助けようとしているのかわからない。

「ありがとうございます。私を心配してくれているのですね……。ではどうか、義隆様と仲良くしてあげてください。そうすれば私たちも救われます」

「わかりました」

かぐやは一文字、一文字確かめるように答えた。


翌日。


「私が義隆様にかけあってみますから、なんとかお二人で過ごす時間を増やしましょう!そうすれば距離が近づくかもしれません。あ!物理的な距離ではありませんよ!心の距離のことです。義隆様はまだ、私以外の女性に触れられるのは無理だと思うのでご留意ください……」


かぐやは意を決すると義隆が待つ部屋に入った。

「……」

「お、お待たせいたしました」

前回のことがあるので、かぐやは怯えたようになってしまった。本能的な防御反応だろう。目を合わせようとしなかった義隆がかぐやの方を見る。

「俺が怖いなら無理して引き受ける必要はなかっただろ?こんなこと。俺もそのほうが好都合だ」

「いいえ」

さきほどまで縮こまっていたかぐやだが、きっぱりと告げた。

「染子様と約束したことはきちんと守ります。守らなければならない理由もあるのです」

「ほーー、いつまでもつか見ものだな」


「かぐや様!約束を取り付けました!毎日半刻、二人でおしゃべりする時間をとってくださるそうです!よかった~~」


そう知らせてくれた染子は安心しきった、へにゃりとした笑顔だった。いったいどんなふうにお願いしたら、あの義隆に応と言わせられたのか。かぐやは想像もつかなかった。

「で?今日は何を話すんだ?」

「えっと……」

「……」

「……」

なんて話せばいいのかなんてかぐやはわからなかった。義隆がどんな人物なのか染子を通して聞いていても、かぐやにとって初めての応対なのだ。ここで天人ならば、流行りの芸術品の話になる。天人はとりわけ優雅なものを大事にする。しかしそれが人間……義隆に通じるのか、かぐやは全くもって検討がつかない。しかしかぐやにはもうその方法しか思いつかない。

「……義隆様、芸術品の鑑賞などはなさいますか?」

「まあ、そこそこは関心がある」

話題として正解だったようだ。かぐやは話を続けた。

「特にどのようなものが?」

「俺は太刀が好きだな」

「太刀ですか?」

「ああ、俺は神祇官をやってるが、武術もやっていてな。太刀の類に目がないんだ」

すると義隆はゆっくり立ち上がり、部屋の奥から一本の刀を持ってきた。

「歌会の褒美としてもらったものだ。俺が持ってるなかではこれが一番気に入ってる」

鞘は黒く光り、わずかな金細工に彩られ、凛々しさを帯びている。義隆は白刃を抜くと、光にかざした。

「左近衛大将殿からいただいた物で、ほぼ飾りになってたらしいが、一応実用性もある……触るか?」

かぐやがじっっと太刀を見つめていたので思わず義隆はそう言った。それを聞いてかぐやはそっと刃に触れてみる。つーーと指を滑らせた。

「美しいです。まるで宝石みたい」

「だろ?意外と綺麗なんだ。こういうものは」

義隆はほんのわずか口角を上げた。太刀を褒められ嬉しかったのだろうか。太刀に対する姿は親ばかのようだ。

「ところでお前は?俺とお前が仲良くなるための時間なんだろ?一応。お前の話もしないと意味がないんじゃないか?」

「そうですね、私は石をよく鑑賞します」

「石?」

「はい。そもそも月の国には自然が少なく、岩石が多いんです。だからか宝石も多くて。だから自然とそういうものに詳しくなったというか……」

「だから先ほどの刀身を美しいというのもわかります。刀は美しい石を細長く加工したものですから」

「へーー、変わってんな、お前」

義隆はそう呟いた。思わずこぼれ出た言葉だった。

「そうですか?」

かぐやはキョトンとする。いつのまにか素が出てきている。

「どういうところが好きなんだ?」

「すき……染子様もおっしゃっていましたがすきってよくわからないんです」

「好きねぇ……」


「私はね、お花が好き。見ていると自然と笑顔になれるの」


義隆は思わずいつもいろんな物を好きだと言っていたひとの姿を浮かべた。

「……こればっかりは人それぞれだから俺も明確な答えは出せないが、自分を笑顔にしてくれるものじゃないか?」

「笑顔……」

天人は常時微笑みを浮かべている。が、この国の人々はもっとはっきりとした笑みを浮かべる。笑顔もその一種だ。染子はよくかぐやにその表情を見せてくれる。ということは染子は私のことが好きなのだろうか。少しだけ「すき」の意味に近づいた。まずは笑顔を習得しなければ。


そうこうしていると、もう半刻が過ぎていたようだ。そろーーっと染子が部屋に来ていた。

「お話も弾んだようでよかったです」

「ありがとうございました、染子様」

「いえいえ」

染子はにこにこ顔でそう言った。この顔は見ているとほのぼのとする。自分もこんな表情ができるようになるのか、わからないがあんなふうになりたいとかぐやは思った。

「義隆様も、随分と楽しんでおられましたね。私以外の女性とこんなに長く会話をしたのは初めてではないですか?」

「そうだな……」

義隆は顔をそらすと「具合が悪くなっていないのにはびっくりだな」と誰にも聞こえないぐらいの小さな声でつぶやいた。

「明日は時間をもう少し長くしてみますか?今日より四半刻長くしてみるとか」

断る理由もない。義隆は肯定の返事をし、かぐやもしかと頷いた。


二日目。

かぐやが義隆の部屋に着くと義隆はすでに待ち構えていた。

「お待たせしてすみません。お早いですね」

「相手を待たせるのが個人的に許せないだけだ。お前も早いぐらいだぞ」

義隆は座れと手で示した。

「今日は何を話すんだ?」

「昨日義隆様には刀をお見せいただいたので、今日は私が見せたい宝物があるのです」

「宝物?」

かぐやは袖もとから金細工を取り出した。細長い棒の先に飾りがついており、深みのある瑠璃がはめこまれている。細かい彫刻が刻まれており、職人の技術力の高さがうかがえる。この国では再現不可能な一品だ。義隆はこんな高価な物を染子の遠縁の姫が持っていることに驚いた。よほど両親に大切にされていたのだろう。とすればかぐやの両親の形見の品だ。

「それはなんていうんだ?」

「『かんざし』といいます。髪飾りなんですよ」

「これをこうして」とかぐやは髪を束ねてみせる。義隆は「なるほど」と頷いた。似たようなものが唐の髪飾りにあったはずだ。

「私が一番好き?な髪飾りです」

「そうか」

かぐやは簪をとるとやわらかく撫でた。撫でたところが太陽光を反射してキラリと光った。

「それが特別大切なのか?」

「はい。幼い頃から持っているからでしょうか?これを持っていると落ち着くんです。昨日義隆様がおっしゃっていた『自然と笑顔になれる』というのに近い気がして……こういうのを「好き」と言うのですよね」

「ああ、違いない」

それを聞いてかぐやの笑みがいつもよりわずかに深くなった。残念ながら、まだかぐやと過ごした時間が短い義隆は気づかなかったが。かぐやの内から安堵が湧き上がったのだ。

「お前も普通の女なんだな」

「?」

キョトンとするかぐやに、義隆はフッと笑って説明した。

「いや、お前は月から来た女だから、そこらの女たちとは違うと思っていたんだが、髪飾りに興味があるところは変わらないのだな、と。ますます不思議だ。俺がお前と今普通に過ごしていることが」

「関係ないと思いますよ」

かぐやが澄んだ声を発した。

「何が?」

「男とか女とか関係ないと思います。男でも美しい髪飾りを好む方もいるでしょうし、女でも体を動かすことが好きな人もいます」

「……」

ここでかぐやはハッとした。また余計なことを言ってしまった。前回で学習したと思っていたが、詰めが甘かったようだ。月では男と女の差といえば服装ぐらいだった。かぐやも染子たちとの会話の中で日本では男と女に大きな差があることは察することができたが、自分の価値観は急に変わるものではない。失礼な言い方になってしまった。しかし義隆は前回のようにあからさまに不機嫌になることはなかった。かぐやの言葉を受けて考え込んでいるようだった。

「義隆様……?」

「……たしかにな」

「?」

「たしかにそうだよな。好みの問題に男も女もない。好きという感情は男にも女にも等しく与えられる」

しばしの沈黙のあと義隆は告げた。

「お前が羨ましい」

「羨ましい……?」

「男女の隔たりに振り回されていないからだよ」

かぐやは義隆の自嘲じみた表情が気にかかった。しかしかぐやがそれを言う前に、義隆が「今日は下がってくれ」と言いつけた。


かぐやが自分の部屋に戻ると染子がいた。今日は二人の様子を見に来なかったのだ。

「どうでした?義隆様のご様子は……?」

「昨日のように話してくれました」

「よかったわ」

染子は安堵の溜息をつく。

「私が見ていないところで、かぐや様に無礼な真似をしていないか心配で心配で……でもこの調子なら、杞憂だったようですね」

「気にかけてくれてありがとうございます」

かぐやはやさしい笑みを浮かべながら答えた。その表情に安心したのか、この日から染子が二人の心配をすることはなくなった。しかしかぐやの心にはしこりが残った。義隆が抱いたあの感情がなんなのか、すぐにでも染子に尋ねたかったが、訊いてはいけないことのように思えた。義隆の表情が頭から離れなかった。

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