ある姫君と貴公子の話

あるさびれたお屋敷に下級貴族の姫君が住んでいた。姫君の父親は権力争いで敗れ、心労が祟り、姫君が幼いうちに亡くなった。後見人を失った姫君は心もとない日々を過ごしていた。


やがて姫君は美しく成長していった。年頃にもなると、その美しさは溢れんばかりで、幼い頃から彼女に仕える侍女たちでさえ、眩しく見えるほどだった。


ある日のこと、ある若い男が偶然、この屋敷の前を通りがかった。この男は中臣氏の大黒柱、氏上うじのかみの長男であった。中臣氏は祭祀の中心でありながら、近頃、政界にも勢力を伸ばしつつあって、他の氏族も動向を注視している一族である。その日は風が強かった。屋敷を通り抜ける風で御簾がひらひらと浮き、中がところどころ見える。風の動きが気になった男は立ち止まり、風が吹いてくるほうを向く。男の目に映ったのは白く小さな手だった。その手の前には琴が置いてあり、ちょうど今から爪弾くところのようだ。ほっそりとした指についた爪が弦を弾く。儚い振動が男の鼓膜を揺らす。静かで温かい月のような音色だった。男はすっかり虜になり、立ち止まって聞き入った。


しばらくして音は止んでしまった。男は名残惜しかったが、そろそろ帰らなければならなかったので、何度も後ろを振り返りながら、その場を去った。


従者に調べさせたところ、その屋敷には若い娘が一人住んでいることがわかった。屋敷の前の主は男も名前を聞いたことがあった。しかし娘の話は調べても出てこなかった。隠し子なのかもしれない。初めて通うにはちょうどいい。男は筆を取った。

「美しい琴の音を奏でるひとへ。勝手ながら貴方の琴を聞かせていただきました。通りすがりの私の心を捉えて離さない素晴らしい演奏でした。あなたのことをもっと知りたい。よかったら返事をくれませんか?」

「恋文ですね……」

「なんで私なんかのところに……」

突然知らない童が現れてこの文を差し出してきた。明日また来るから返事がほしいと言い残していった。姫君と侍女は戸惑いを隠せなかった。こんなさびれた屋敷の姫に文を出す男がいるのかと。とんでもない馬鹿に違いない。侍女はこの文を取り合わないことに決めた。

「姫様、返事は私が」

「でも、せっかく」

「いいえ、初めての返事は通例でも女房がするものですし、私が務めさせていただきます。こんなどこの馬の骨とも知れない男に、脈ありだと思わせるわけにはいきません」

「私だってお断りの返事ぐらい書けるわ」

「姫様は世間の恋愛というものを甘く見ております。最初は私を見て、恋の作法を学ぶべきです。それが必ず姫様のためになります」

姫君はしぶしぶ引いた。侍女が文を書く様子を姫君は横で見学した。時折姫君は尋ねながら、侍女は恋愛のいろはを伝えながら手紙を書き上げた。

「どこのどなたか存じ上げませんが、私の琴をほめていただくなど身に余る光栄にございます。私は貴方に話せるようなことを持ち合わせておりません。どうか、ただの琴の女とでも思って私のことは忘れていただきたく」

「なるほど」

童から返事の文を受け取った男は苦笑を漏らした。なるほど、あの時の琴の音に似合わない、冷たい返事である。

「手厳しいな」

いい女房を持っているようだ。男はますます姫君に興味が沸いた。

「貴方の琴の音は本当に高貴な音です。どうか謙遜なさらないでください。むしろ私なんかが貴方の琴を聞くことができたことのほうが本当に幸運だったと思います。差し出がましい願いだというのは重々承知していますが、もう一度貴方の琴を聞きたい。そう思ってのことなのです」

「諦めの悪い男ね」

気のせいか舌打ちが聞こえた気がする姫君であった。侍女は「この男……!」と怒りを滲ませながら筆を滑らせている。

「大丈夫かな……?」

一応姫君も目を通した文は男にきちんと届けられた。

「私は気まぐれに弾いているだけでございます。貴方様はこんな私の琴を本当に聞いてくださるのでしょうか?」

「ははっ」

イライラが文面から感じ取れる。しかしこちらもここで諦めるわけにはいかない。押せ押せで行けば、いつか姫君から直接手紙を貰えないかと叶わぬ希望を抱いてみたりする。

「つれない人だ。私の誠心誠意の心を信じていただけないとは。明日の夜、貴方の屋敷に伺おうと思います。気が向いたら琴を弾いていてください。私はそれを楽しみに参ります」

「私の琴を楽しみにしてくださっているのでしょう?ぜひ弾いて差し上げたいわ」

「こんなの方便ですよ。来るわけがないでしょう」

「いいじゃない。もともと聞き手もいない琴。聞いてくださっていたら幸運でしょう」


日が暮れて姫君は琴を奏で始めた。男がいつやってくるかもわからないのでずっと健気に弾き続けている。


一方、男は仕事が長引いていた。なんとか終わらせたときには日が沈みきっていた。少しの時間も惜しかった男は姫君の屋敷に直行した。屋敷に近づくにつれて、微かだったあの琴の音がどんどん大きくなっていく。男は期待に胸を膨らませながら、牛車を急がせた。


あの時、心奪われた音がはっきりと耳に届く。まだ一度しか聞いていないのに懐かしくて胸に切なさが込み上げる。男は飽きもせず、屋敷の前につっ立って、目を閉じて、耳を澄ませた。姫君もそれに応えるかのように飽きもせず弾き続ける。さすがに立ったまま聞き続けるには、体力的に厳しい時間がたった。姫君は夢中で弾いているので気にかかっていないが、あの、男を目の敵にしていた侍女のほうが気になってそわそわしていた。とうとう耐えきれなくなって、御簾越しに声をかけた。

「いつまでここにいるおつもりですか?」

「いつまでも。姫が琴を弾いてくれる限り」

「風邪をひきますよ」

「おや?心配してくださるのですか?文ではいつも手厳しいのに」

「なっ」

侍女は自分が文を書いていることを指摘され、恥ずかしくなった。男が追い討ちをかける。

「あなたも素敵な女子おなごだが、私はあの姫君の筆跡が、声が、知りたい。あなたは私の素性が知れなくてこんなことをしているのだろう?私は姫君をまっすぐ愛している。信じてほしい」

「……今日はお帰りくださいませ」

侍女は姫君に演奏を止めさせた。男はまた屋敷のほうを振り返り、振り返り、帰っていく。一瞬、御簾の奥の姫君と目があった気がした。


「先日は長い時間、私の琴を聞いてくださってありがとうございました。こんな寂れた屋敷に人が訪れることなど皆無なので、久々に賑やかさを感じることができました」

筆跡がいつもより丸く、暖かみがある。これは姫君の自筆であると、男は確信した。今まで一番慌てて返事を書き上げた。

「あなたは本物の姫君ですね。こちらこそ、あなたの琴をまた聞くことができて、本当に嬉しく思いました。何度だって、あなたの琴を聞きたいし、あなたからの文を読みたい」

姫君は手紙を抱きしめた。嬉しくて恥ずかしい、不思議な気持ちになった。はにかむ姫君の顔を見て、侍女は悔しいような感慨深いような気持ちに駆られた。

「私もあなた様と文通したり、琴を聞いてもらったりできると本当に嬉しいです。ぜひよろしくお願い致します」


それからというもの、男は熱心に恋文を送った。姫君への愛が彼を突き動かす。増えていく文の数。男は必死だった。それほどに心惹かれていた。姫君も彼の想いに同じだけ返した。二人は文を通して交流を深めていった。


「一目だけで構いません。あなたにお逢いしたい」

ある日、男は文をこの言葉で締めくくった。文の交換を始めて、早くも一月ひとつき。男の想いは溢れんばかりに膨れ上がっていた。

「私、彼に会いたい」

「私は反対です。もうしばらく、この男の素性を見極める必要があると思います」

侍女はキッパリと言う。

「それでも私は彼に会いたい。例え彼が最低なひとだったとしても、捨てられることになったとしても、会いたい」

姫君は真っ直ぐ侍女を見据えた。その目には熱く純粋なものしか映っていなかった。


二人が初めて会ったのは満月が綺麗な晩のことだった。お互いに言葉が出ず、無言で見つめ合う。ずっと文でしか交流していなかったのだ。胸が詰まった。

「……緊張するものだな」

「……はい」

「今日は笛を持って来たんだ。合奏でもするか?」

「ぜひ」

姫君は、はにかみながら答えた。


澄みきった夜に清らかな音がハモって響いた。

「合奏なんて初めてでしたが、楽しいですね」

「よかった。貴方の琴に合わせられたか不安だったんだ」

「本当にお上手な笛でしたよ」

緊張が解けてきて、するすると言葉が出てくる。二人は一緒にいて本当に居心地がよかった。話していると、夜明けはあっという間にやってきた。

「また来てもいいか?」

「もちろんです!」


二度目、三度目と逢瀬を重ねるにつれて、二人の世界に入り込み、会話に熱中することが増え、仲はどんどん深まっていった。そして彼はとうとう、こう告げた。

「姫君、私と夫婦の契りを交わしてくれないか?」

彼は誓った。

「私には正妻がいるが、君を誰よりも愛すると誓おう。誰よりも大切にするし、君を、この命尽きるまで守るよ」

彼は今後の生活の援助まで願い出た。姫君は嬉し涙を流しながら何度も頷く。生活が楽になることへの安心感よりも、愛する人からの言葉が姫君の心を満たしたからだ。これ以後、姫君は彼女の人生の中で比較的明るい時期に入る。


前世から宿縁があった二人だったのだろう。姫君は彼の子を身籠った。彼は大喜びで、できる限り助けになりたいと、金銀財宝や優秀な女房たちなど、少しでも役に立ちそうなものがあれば全て姫君に贈った。その財宝で屋敷は立派に建て替えられ、衣や調度も買い直した。女房たちは姫君が健やかに過ごせるよう、細心の注意を払って務めを果たした。その甲斐あってか、お産は極めて順調に進み、結果安産で、母子ともに大事なかった。産まれたのは元気な男の子であった。この子が後の義隆である。


問題も何一つ起きなかった今回のお産だったが、一つだけ、不可解な点があった。ある女房が赤子を取り上げ綺麗にしていると、この赤子が左手を握りしめていることに気がついた。気になった女房はその小さな手をそっと開いてやった。するとそこには玉鋼の欠片が握られていた。女房はたいへん不思議に思った。そしてこのことを姫君に報告した。姫君も奇妙なことだとは思ったが、なにか意味のあることのように思い、その玉鋼を大切に保管することにした。


人々は彼女の話を語り草にし、義隆の誕生の話は都中に広がった。都一幸運な姫の話として。そして、とうとうこの話はとあるお方まで伝わった。

「のう、主は知っておるか?」

「何のことでございましょう?」

「知らぬふりをするでない。あのバカ亭主の妾のことよ」

若き女主人は高らかな笑いとともに言ってのける。侍女は萎縮するばかりだ。

「私の息子たちには目もくれず、あの妾とその子のことばかり。これではどちらが正妻か、跡継ぎか、わかりはしないよ……よよよ」

世にも恐ろしいウソ泣きである。侍女はどうしていいかわからず、おろおろするばかり。しばらくそうした後、女主人は満足したのか、けろりとした表情を見せると、口角を上げて言い放った。

「本当に世にも珍しい余興よ。ちとお灸を据えてやらねばのう……」

侍女は身をすくめながらも同意を示した。


そしてある日の姫君の屋敷にて。

「きゃっ」

侍女の叫び声が聞こえた。今日は夫の名義で大量の生きた虫が詰められた壺が贈られてきた。もちろん、正妻の仕業だろうと姫君の侍女たちは踏んでいる。こうしたことがあまりに繰り返されるため、贈り物は全て検品することにしている。愛する人を信用してないように思われて、姫君はたいへん心を痛めた。

「どんどん酷くなっていますね……」

「旦那様に話してもらいましょうか」

「それはだめよ」

姫君は珍しく強い口調で咎めた。将来、国の政治の中枢を担うであろう男の妻に相応しい、凛とした態度ではっきりと言い切る。

「あの方も辛い思いをされています。ですが、その思いを向けられる場所がないのです。こうでもしなければきっと壊れてしまうでしょう。それを咎める権利は、原因である私にはありません。私が耐えることで、あの方の苦しみが和らぐのであれば、どんな嫌がらせをされてもかまいません」

「それでは姫様のお気持ちが……」

「私は大丈夫です。だってあなた方がいますから」

さきほどと打って変わって、姫君はやわらかい笑みを浮かべた。姫君の旧い女房は目もとを抑えた。雫が袂を濡らす。

「姫様、本当に立派になられて……」

「私はあの方の妻です。その事実が私をこんなにも強くしてくれる。私は幸せ者です」

姫君はそっと自分のお腹を撫でた。姫君の言葉に、彼女に仕えるものたちは、この方とこの方の御子を必ず守っていこうと決意を新たにした。


「ははうえ!」

五つになった姫君と男の息子は聡明な子どもだ。男の教育への力の入れようもすさまじく、将来が楽しみだと夫婦で期待を寄せている。

「どうしたの?」

「すずめをつかまえました!けがをしているようです……」

義隆が差し出した手のひらには翼に傷を負い、体を横たえている小雀の姿が。このままでは死んでしまうだろう。

「この子を助けたいのね」

姫君は侍女を呼ぶと、雀の手当をさせ、鳥籠に休ませた。

「義隆、あなたはやさしい子ね。きっと立派な大人になるわ」

「ほんとうですか!?ははうえのおやくにも、たてますか?」

「えぇ。これからも精進すればきっと」

義隆は無邪気にはしゃいでいる。この日々が永遠に続けばいいと姫君は思った。しかし、

「ごほっ、ごほっ」

「ははうえ!!」

最近咳をすることが増えた。姫君は義隆が生まれてからずっと嫌がらせを受けてきた。精神的な苦しみが体にも表れてきている。侍女は何度も夫君に抗議しようと説得してきたが、姫君は頑として譲らなかった。追い討ちをかけるように最近、その尖が義隆にも迫っていた。義隆へと贈られてくる着物に針が刺さっていたり、「呪」という字が大量に書かれた紙が部屋にばらまかれていたりしている。姫君はそちらのほうが苦しかった。自分の子に生まれてきてしまったせいで、この子は不幸になっているのではないかと。姫君は激しい罪悪感と、それが引き起こした身体的症状に限界を迎えていた。

「ははうえ、きょうはもうやすみましょう」

「心配かけてごめんね」

「姫様、早く横に」

姫君は床の中から義隆を見る。自分の命はもう長くないことは自分が一番よくわかっている。

ーーごめんね……ーー


その年の暮れに姫君は亡くなった。

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新月のかぐや姫 江西結 @enishi-yui

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