最終話

 一時間もすれば、秋の短い日は沈み、月が空に昇っていった。人一人いない児童公園で、望美はその月を見上げた。夜空の中で一番に目立つ月は、見事な満月をしていた。


 その月から、小さな光が飛びだしたのを目にしても、望美は驚かなかった。


 あの時と同じだ。初めてルノアと出会った晩と。


 光は真っ直ぐ、望美のもとへ向かってきた。望美はその光から目を逸らさず、見つめ続けた。


 それから程なくして、光は望美の目の前に下り立った。星形の宇宙船だった。下りてきたのは、白猫のレキと、ルノアだった。


 薄闇の中、外に出てきたルノアの髪先の、グラデーションのような光が、ほのかに瞬く。


 ルノアは望美を目にすると、困ったように笑いながら、両肩を竦めた。


「どの星でも、宇宙服を着ていないと駄目っていうのは、なかなか悲しいものがあるね」

「ですから、あのチキュウ人の体を乗っ取るしかないのですと、言っているではありませんか」


 ルノアの足下で、レキが無機質に言った。望美はレキから、ルノアに視線を移した。


「そうなの、ルノア? そのために、あなた自らこの星に来たの? 私の体を、乗っ取るために」

「……いや。違う」


 ゆらゆらと、ルノアは頭を左右に振った。頭部から生える触覚が、寂しげに揺れる。


「どうすればいいのか、わからないんだ。どんなに考えても……。だからノゾミ。君に、委ねることにした。僕の運命を、君が決めてくれ」


 ルノアは望美の目の前で正座をし、地面に座った。許しを請うように。あるいは、運命を放り投げて、身に任せるかのように。


「僕を、このまま放っておくも。……殺すも。全部、君の好きにしてほしい」


 驚愕したらしいレキが、何やら叫びながら、ルノアの体を前脚で揺する。だがルノアは、頭を下げたきり、動こうとしない。


 それなのに、望美が深く息を吐き出すと、怯えるように、びくりと体を震わせた。


「……できるわけ、ないでしょう。私が、あなたを、殺すだなんてこと。わかってて、言ったでしょう」

「違う、僕は!」

「待って、まだ私が話している!」


 望美はルノアに、一歩ずつ近寄った。見下ろしたルノアは、今にも泣きそうな目をしていて、自分よりもずっと幼く見えた。


 彼は王子で、望美よりもずっと身分が高い存在で、その年齢には到底見合わないような、凄惨な体験ばかり味わってきたというのに。


「委ねると言ったのはルノアなんだから、私が決める。ルノアをどうするか」

「ノゾミさん、ルノア様をどうするつもりで!」

「まず、立ってちょうだい。話はそれからだよ」


 ルノアはのろのろと立ち上がった。更に、今にも飛びかからんばかりに、望美に向かって毛を逆立てるレキを手で制してくれた。


「ルノアをどうするか。……それは、ルノアが決めてほしい」

「……えっ?」

「言ったよね、私に決めてほしいって。だから決めた。私は、ルノアが後悔しない判断を、ルノアが心から幸せになれる判断を、ルノア自身で判断してほしい」


 夜風が公園内を吹き抜けていく。秋の夜風は肌寒さを覚える。だが、今の望美は別の理由で、体が震えていた。


 この言葉をしっかり伝えようと、意を決して、ルノアの瑠璃色の瞳を正面から見つめる。


「私、嬉しかったんだ。ルノアが、望美が星を好きで良かったって言ってくれたとき。そのおかげで出会えたんだからって言ってくれたとき。私、間違っていなかったんだって、思えた。

学校に行けない自分が悲しかったけど、そのおかげでルノアと会えて、ルノアと楽しい時間を過ごせたんだったら、間違ってなかったって、そう思えた。だからルノアも、何年か経って思い出したとき、あのときの自分の判断は間違ってなかったって思えるような、後悔のない選択をして」


 少し視線を上に向ければ、そこに月はあった。太陽のような眩さはないが、そっと優しく包んでくれるような、穏やかな光。

 この光が好きだったおかげで、月の存在する宇宙が好きだったおかげで、ルノアと出会えた。


「私の悩みなんて、ルノアの悩みと比べたら、ちっぽけなものだと思う。小さいことでずっと悩んでた自分が、恥ずかしいなって感じるよ」

「……それは違う。悩みは人それぞれだ。どちらが上も下もないだろう」

「でも、多分私がルノアと同じ立場だったら、きっと耐えられない。なのにルノアはずっと戦ってて、本当に凄いと思う」


 宇宙に一人、ずっとさ迷い続ける。どこかの星に着陸することもできず、友達も作れず、故郷にも帰れないまま、星しかない空間を漂い続ける。


 考えただけで、どうにかなってしまいそうだ。なのにルノアは一人で耐えてきた。背負わされた自分の役目から逃げずに、戦ってきたのだ。


「今のルノア、凄く迷っているみたい。だから、迷わずに、自分の考えを言ってほしい。私、あなたを応援したい。ルノアがどういう判断をしても、私は、あなたの味方でいたいから」


 望美のはっきりとした声が、静かな公園内に通り渡った。


 想像を絶する戦いを強いられてきたルノアが、何年か経って振り返ったとき、間違っていなかったと後悔しない選択を選べたのなら。それがどういうものであっても、きっと自分は応援できる。そう、思ったのだ。


 信じようと。目の前にいるこの無二の友人を、信じよう、と。


 風と共に、沈黙が流れる。長い長い、静謐の時間だった。望美は辛抱強く、答えを待った。


 やがて、ルノアが「ノゾミ」と言ったとき、その声は闇夜に溶け消えそうなほど掠れていた。


「本当は、レキに言われて来たんだ。どうして体を乗っ取らないといけないか、その理由を説明して、ノゾミにわかってもらいなさいって。そう言われて。でも、僕の心としては……。――君に、謝りたかった。だから、ここにやって来た」


 ルノアの頭が、ゆっくりと下がっていく。


「ノゾミ。隠しててごめんなさい。嘘を吐いてて、ごめんなさい。酷いことをしようとして、ごめんなさい」


 望美は驚き、頭を上げさせようとした。だがその前に、レキの「ルノア様……?」と強く狼狽した声が、名前を呼んだ。ルノアは頭を下げたまま、目線を白猫に向ける。


「生まれて初めての友達なんだ。そんな相手を、どうして乗っ取るなんてことができる? 乗っ取ったとしてその先、どうやって平気で生きろというんだい……?」

「そ、それは、ノゾミさんは乗っ取らないということですか? それとも……」


「友達ができると、理屈で片付けられない感情が生まれるんだね。僕は今、生まれて初めての友達に対して、恥ずかしくない人間でいたいって、そう思っているよ。

……やっぱり乗っ取るなんてこと、間違っていると思う。誰かを犠牲にしてまで生きて、もしそれで故郷が元通りになっても、僕はずっと、死ぬまで後悔し続ける」


「しかし!」

「ずっと考えてたんだ。他人を犠牲にしてでも、自分は生きる。その考えが根元にあったせいで、戦争が始まって、滅んだんじゃないのかな。

王子として僕は、同じ過ちをしたくない。王子として、過ちの連鎖を、完全に断ち切りたい。誰も犠牲にしない道を、探したい。

……ノゾミと出会えて、ようやく素直に、そう思えるようになった。間違っているのにやらなければいけないことをやるなんて、僕はしたくない」


 やっと頭を上げたルノアは、どこまでも真っ直ぐな目をしていた。射るように、貫くように、力強い目をしているというのに、そこに強張りの色は無い。見えるのは、ルノアの揺るぎない意志だけだった。


 そんな、と弱々しい声が、足下から聞こえる。レキがふらふらと、後ずさっていくところだった。そんなレキに、ルノアは地面に膝をつき、体を覗き込んだ。


「レキ。君も、大変だったよね。お互い、戦火の最中に生まれて。生まれたときから、僕に仕えなきゃいけないっていう使命を背負わされていて。……もう星は滅んでいるんだ。君が僕に仕えなくてはいけない義務はない。

でも、友達として、傍についていてくれるのだったら……レキも、力を貸してくれるかな。……僕はずっと、君とも友達になりたかったんだ。主君と従者じゃなくて、対等な友達同士に」


 猫の薄い青色の目が見開かれる。それを皮切りに、徐々に猫の体から、力が抜けていく。尻尾は力なく地面に垂れ落ち、頭は項垂れるように、下を向く。


 ああ、と、魂が抜け落ちたかのようなレキの声が、吐息混じりに聞こえた。


「……それがルノア様の下した判断なら、私はそれに従います。……主君の命令ですから」

「レキ……」

「……申し訳ありません。私には、トモダチというものがなんなのか、よくわからないのです。しかし、だからこそ……私にできなかったことが、ノゾミさんにはできたのでしょうね。ルノア様の、力になるということが。ルノア様を支えるということが」


 レキは望美のほうを向き、「すみませんでした」と小さく述べた。望美は首を振った。レキもレキで、自分のやるべきことを果たそうとして、自分が後悔しない道を進もうとしていたのだから。


「……私は、何もしてないよ。むしろ私のほうこそ、ルノアに支えられてきた。ルノアが力になってくれてたんだから」


 望美は鞄の中から、白い箱を取り出した。結局、ラッピングはできなかった、ルノアへのプレゼント。


「これはお礼。ルノアに捧げる、全ての感謝だよ。少し遅れてごめん。お誕生日、おめでとう」


 箱を見せると、ルノアは信じられないとばかりに、目を丸くした。彼は一瞬、受け取るのを躊躇うように、伸ばした手を引っ込ませようとした。だが、意を決したように、少し勢いをつけて手を伸ばし、箱を受け取った。


 蓋を開けて、中のブローチを目にしたその途端。ルノアの瞳が、みるみるうちに見開かれていった。


 望美は口を開いた。


「ありがとう。この広い宇宙から、私を見つけてくれて」


 ブローチを手にしたルノアの瞳に、見る間に涙が溜まっていく。それが頬を伝う彼の表情は、笑顔だった。


 心から、嬉しそうに。幸せそうに。満ち足りたように。月明かりの下、穏やかに、笑っていた。


 ルノアは望美に向けて、右手を差し伸べた。


「ありがとう。この広い宇宙から、僕を見つけてくれて」


 望美も、右手を伸ばす。ルノアの手を握る。お互い、硬く、握手を交わした。


 







 父からも母からも、本当に大丈夫かと、何度も言われた。無理をしないでほしいと必要以上に心配されたのは、隠し事の前科があるからだろう。両親の配慮を、望美ははっきりと、「大丈夫」と言い切った。


「もし大丈夫じゃなかったとしても、大丈夫。もう二度と、負けたりしないから」


 そう宣言した望美は今、学校の正門の前に立っていた。この学校に来るのは、前回が転校初日だったから、実に半年以上も経っている。当然、教室に自分の居場所などないだろう。


 だが、そのときはそのときだ。今自分には叶えたい夢があるのだから、それを優先させなくてはいけない。


 もしまたどうしても耐えられないようなこと――星や月、宇宙が好きだということを馬鹿にされたら、またそのとき考えればいい。自分には、心強い味方がついているのだから。


 望美は空を見上げた。抜けるような青空に浮かぶのは、白い雲。そして、うっすらとした白い月だった。


 望美の押し入れに、星形の宇宙船はもう無い。ルノアが回収していったからだ。


 あの晩の翌日、望美は月で、ルノアと誕生日のお祝いの仕切り直しをした。

 レキはルノアの笑顔に涙しながら、今度は必ず貴方様の力になると、貴方様を支えると、何度も言っていた。ルノアはそんなレキを、優しく受け止めていた。


 その後、ルノアはレキを連れて、宇宙の彼方へ旅立っていった。


 あの日から望美は毎晩必ず、月を見上げている、昼間でも空を見上げて、月の姿を探す。だが、どんなに月を見つめても、そこにルノアはいない。


 もちろん寂しかった。月にルノアがいないことを思うと、ふとした拍子に涙が零れそうになる。


 だが、悲しくはなかった。別れのとき、ある約束を交わしたからだ。


 ――いつかまた、必ず月で会おう――


 いつかがいつになるかはわからない。けれど、絶対に会おう。再会したとき、望美にすぐルノアだとわかってもらえるように、自分はずっと、この体のままでいるから。


 ルノアは、そう誓った。望美と、ルノア自身に対しても。

 だから望美も、ルノアの意志に応えようと思った。


 だったら私は宇宙飛行士になって、自分の力で月に行く。


 もちろん、難しい道であることはわかっている。心が折れそうになるときも、数え切れないほど訪れるあるだろう。


 ルノアが選んだ道もそうだ。誰も犠牲にしない道を進む。言っていることは甘いのかもしれないが、実際に歩く道は凄まじく厳しく、険しいものになるだろうと。


 だが、そんなことはわかっている。そんなことは承知の上だ。ルノアと二人で、そう笑い合った。


 たとえ道中がどんなに辛くても、苦しくても、それで逃げたとしても。月で過ごしたこの時間があるから、きっと乗り越えられる。


 ルノアと二人で見た地球を思い出しながら、望美は前へと一歩を踏み出した。




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